|
片岡駿河守正勝の所業と、宇都宮家改易後の行方について
2025.7.20 著 恩田浩孝
2ページ目
6、片岡駿河守と妙徳寺 −白河へ−
益子一族・片岡駿河守正勝の足跡を調べる中で、江戸時代初期の福島県白河市に「片岡駿河守源清」という人物の存在を確認した。片岡駿河守という名が一致し、活動期間はほぼ同時代である。以下の各項目では、両者が同一か別人か考察する。
「白河風土記」によると、常陸の猿子領主・片岡駿河は家名断絶後、常陸国久慈郡久米村の大網山願入寺にて出家して源清と名乗った。その後、陸奥国東白川郡の関岡村に妙徳寺を建立したという。のちに白河へ移った。
常陸国に猿子という地名は無い。猿子は「ましこ」と読む事から、片岡駿河は常陸に移住した益子一族と解すことができる。前項では、宇都宮家改易後に芳賀郡か、岩瀬か、常陸大宮市に行った可能性を指摘した。そののちは、常陸の佐竹家を頼って大子町か、常陸大宮市あたりに居たと考えられる。大子町は益子家の末裔が拠った地域の一つで、現在でも益子姓の方が多い。この辺りの益子家は、慶長5年(1600年)関ヶ原合戦後に佐竹家の秋田転封に従った者や、大子に残って水戸徳川家に召し出された者など様々である。今後、他に益子一族の末裔がみつかるかもしれない。
慶長7年(1602年)佐竹家は秋田に転封された。減封なので秋田へ随行できない家臣らも多々あった。片岡駿河守は家名断絶後に出家したと伝わるので、この時に片岡駿河守は禄を離れて出家した可能性があるが、現時点では出家した時期は不明である。
ところで、白河に伝わる名は、片岡駿河守“源清”である。源清は無理やりに読めば「もときよ」、「もとずみ」などと読めるが、片岡駿河は出家したので、入道名で「げんせい」と読む。完全な僧となれば「源清」とだけ伝わるはずだが、寺伝では片岡駿河守源清と伝わる。元は武士で片岡を名乗ったことを誇りに思い、意図的に伝承させたと考えられる。ゆえに片岡駿河守の名も寺伝に残ったのだろう。
・法永山妙徳寺 本堂 耐震工事中 写真
7、妙徳寺の変遷
法永山妙徳寺は、白河城下にて400年以上の歴史を持つ真宗大谷派の寺院である。開基は片岡駿河守源清と伝わる。
慶長年間(1596−1615)会津藩主・蒲生秀行の時代、白河小峰城代であった町野長門守は、関岡村(現・福島県東白川郡矢祭町関岡か)にあった妙徳寺を城下の八幡小路に招いた。妙徳寺墓石によると、妙徳寺開基の源清は慶安元年(1648年)8月9日に死去した。
その後、妙徳寺は白河城下を転々とする。白河藩主・本多忠義の時代に新町の西方寺境内に移った。次いで、寛保元年(1741年)白河藩主・松平大和守が姫路に転封された時、金屋町の隆生寺も松平家に従い空所となっていたため、翌年の寛保2年に妙徳寺が隆生寺跡地へ移った。宝暦年間(1751−1764)の火災により再び西方寺境内に移った。そののち、また火災のため金屋町の現在地に移転した。
妙徳寺境内の枝垂れ桜「源清桜」は、江戸時代初期頃に片岡駿河守源清が創建時に植樹したと伝わる。この伝承も開基が源清であることを示している。これは現在、城下町白河のしだれ三桜のひとつに数えられる銘木として親しまれている。
8、白河に招かれた理由
片岡駿河守源清は、なぜ町野長門守に招聘されたのだろうか。城下町に寺院を招いて寺町を形成するという町割りのためとも考えられるが、見ず知らずの寺院を招くよりも、何か縁があっての事と推察する。
可能性として高いのが、蒲生家が下野国の宇都宮に転封された時である。会津藩主・蒲生秀行は文禄4年(1595年)に家督を継ぐが、家中の騒動もあって慶長3年(1598年)3月、宇都宮家の改易によって空所となっていた宇都宮に入り18万石に減封された。その時、蒲生家重臣の町野左近将監繁仍(左近重福)は真岡城代をつとめた。片岡駿河が家名断絶後に、下野国の旧宇都宮家領から常陸国南部あたりに潜伏していれば真岡の町野家と関りを持った可能性はある。推定地は栃木県芳賀郡周辺、茨城県桜川市、常陸大宮市あたりである。この辺りに片岡姓のお宅が多い。
町野繁仍が真岡城代を務めたときの活動については、領内の有力者から人質を取った事と、粟嶋の神明宮についての文書が確認できる。旧領に留まった宇都宮旧臣であれば、町野繁仍に人質を差し出した者がいたと考えられるので、これに片岡家も関わった可能性もある。
そして、繁仍の子・町野長門守幸和(1574−1647)と片岡駿河守の親交も考えられるが、これを裏付ける史料は今のところ無い。町野幸和は、片岡正勝や益子忠宗の推定年齢と近い。同世代の親交もあったか。これら招かれた理由については、あくまで私見であって推測の域を出ない。
蒲生秀行は、慶長6年(1601年)9月に会津60万石に復帰した。慶長18年(1613年)11月25日、町野繁仍が71歳で死去して、子の長門守幸和が家督を相続した。
妙徳寺は慶長年間に白河小峰城下に招かれたというから、その年代は慶長18年11月から慶長20年(1615年)7月(7月に元和に改元)の間に移転したと考えられる。
9、妙徳寺の源清墓について
白河の妙徳寺には片岡駿河守源清の墓がある。本堂脇の住職墓地内に、住職の墓石である「當寺代々墓」と並び佇んでいる。
・妙徳寺 住職墓地 写真
―――――――――――――――――― 墓石銘 表 「當寺開基 釋源清」 向右「慶安元戊子年八月九日」 ――――――――――――――――――
・中央 源清墓 写真
墓石に記された慶安元年(1648年)8月9日は、源清の没年と考えられる。戦国時代後期頃の生まれと仮定すると70歳から80歳と考えられ、当時としては長命である。益子系図を見ると長命の者が目立つので家系だろうか。
墓地内には地蔵尊があり、住職墓地の外には、明治時代の人物で片岡隆信氏についての墓碑が建つ。代々法灯を継ぎ、現在は片岡姓を名乗っている。
10、源清が出家した大網願入寺について
片岡駿河守源清は名刹・願入寺にて出家した。鎌倉時代、浄土真宗の祖・親鸞の孫で真宗2世を継いだ如信が陸奥国大網に住し、「奥の本坊」として布教活動の拠点となった。これが願入寺のはじまりと伝わる。その後、常陸国の常陸太田市菅谷、久米と移転した。江戸時代初期に水戸光圀の発案により、久米に寺を残し、寺基のみ茨城県大洗町に移転して大洗にも願入寺が創建された。久米の願入寺は、明治時代に正念寺と改称している。
文禄年間(1592−1595)頃、常陸の願入寺12世・如正の時、佐竹義宣の招請により久米に移転されたので、片岡駿河はこれ以降に久米の願入寺にて出家した事になる。
現時点では、宇都宮家が改易された慶長2年(1597年)10月以降に仏門に入ったとしか言えない。「白河風土記」によると、片岡駿河守は常陸猿子の領主というので、宇都宮家改易後に常陸佐竹家に仕えたと思われる。そして、佐竹家は関ヶ原合戦の敗戦後、慶長7年(1602年)に秋田へ転封された。片岡正勝は、この時に禄を失って出家した可能性もあるが、出家した年は現時点では不明である。
11、蒲生源左衛門室について。
これは、片岡駿河守が、益子忠宗の可能性があるという事で考察する。益子系図によると、益子忠宗の姉は蒲生源左衛門に嫁いだとされる。これは会津藩・蒲生家重臣の蒲生郷喜と思われる。益子系図の信憑性は不明だが、これが史実であれば、益子忠宗は何かしらの縁があり、蒲生郷喜と姻戚関係となった。これとは別に、片岡駿河守の妙徳寺は蒲生家重臣の町野長門守から白河に招かれるなど親交があった。元和2年(1616年)頃から会津藩内において、蒲生郷喜と町野長門守は対立したため、どちらとも懇意にしていたとは思えない。ゆえに益子忠宗と片岡駿河守が同一人物か疑問が残る。
二人のその後の行方だが、片岡駿河守は白河の妙徳寺開基で足跡は確実である。そして、益子忠宗の行方については、益子系図によると忠宗の姉が蒲生源左衛門に嫁いだという本論文の件と、「会津藩諸士系譜」によると忠宗の子は小池源太左衛門政成と名乗り会津藩主保科正之に仕えたという情報がある。これについては今後、機会を改めて考察したい。
益子忠宗と片岡駿河守が同一か別人か、やはり判断できない。これ以外に埋もれている史料が発見されることを望む。
12、片岡駿河守正勝(源清)と周辺の動向 ― 結び
これまで各項目で考察してきたが、伊勢神宮の佐八御師が記した「下野国檀那之事」にある「片岡駿河守殿 ましこ殿之事也」という記述と、「白河風土記」の、常陸の猿子領主・片岡駿河は、十中八九一致すると考えられる。
これまで論じてきた事を年次に記し、その次に「片岡駿河守正勝=原清」と考える要点をまとめる。
・益子家の文書が見られなくなると、入れ替えで片岡駿河守が登場する。
・片岡駿河守正勝の佐八文書が5通残る。 ・天正19年(1591年)佐八文書。 ・文禄元年(1592年)佐八文書。 ・文禄3年(1594年)佐八文書。 ・文禄5年(1596年)佐八文書。 ・年欠 佐八文書。 以上5点。
・天正年間頃、益子を退去か。片岡と名乗る。このときはまだ宇都宮家中。
・慶長2年(1597年)10月、宇都宮家改易。浪人か在地勢力化。佐竹家出仕か。
・慶長3年(1598年)3月、蒲生秀行が宇都宮転封。町野左近将監が真岡城代。
・真岡城代の町野左近将監、長門守親子と交流した可能性がある。
・常陸領主というので、佐竹家に仕えたか。常陸大宮市か大子町あたりに居たか。
・片岡駿河は家名断絶後、常陸の願入寺で出家、源清。1597年10月以降。
・源清は、陸奥国東白川郡の関岡村に妙徳寺を建立。佐竹領。1597年以降。
・蒲生家の町野長門守の招きで白河小峰城下に妙徳寺を移転。1613〜1615年か。
・慶安元年(1648年)8月9日、片岡駿河守正勝(源清)死去
次に、これらのポイントをふまえ、片岡正勝=原清と考える要因を述べる。
・佐八文書に、片岡駿河守は益子家臣の加藤大隅守と隣り合わせで記されているので、宇都宮家中にいたときは益子周辺に拠ったと考えられる。佐八文書にて片岡駿河は元は益子殿と呼ばれていたとの記載に繋がる。
・佐八文書で、天正〜文禄年間に初穂料を納めた片岡駿河守正勝は、同じ時代の佐八文書檀那帳に見える片岡駿河守と同一であろう。
・「白河風土記」に、常陸国猿子ノ領主とある。常陸に猿子という地名は無い。猿子は、“ましこ”と読むので、宇都宮家改易後に常陸佐竹家に仕えた益子家に関連する人物と推測される。
・片岡駿河は家名断絶後に出家したというので、慶長2年(1597年)10月の宇都宮家断絶後と考えられる。しかし、いつ出家したのかは不明である。出家した時にはすでに佐竹家に仕えて常陸国に住していたと思われる。常陸国久米村の大網山願入寺にて出家した。願入寺は文禄年間(1592−1595)頃に佐竹義宣の招きにより久米村(現・常陸太田市)に移転していた。
・蒲生家重臣・町野長門守とは真岡で出会った可能性がある。慶長2年(1597年)10月に宇都宮家が改易されてから、翌年に蒲生家が入部するまで芳賀郡のどこかに潜伏か、茨城県桜川市か常陸大宮市に居たか。真岡の付近に居た場合、会う可能性も高まる。のちに白河に招かれた理由にもなる。しかし、これについては推測の域を出ない。
・慶安元年(1548年)の没年から考えると、片岡駿河守と原清の活動期間が大体一致する。また、天正〜文禄年間頃に、息子の片岡弥八郎がいる事から、片岡正勝は1565年から1570年頃の生まれと推測できる。
本論文では片岡駿河守の所業を確認できた事が多々あったが、史料不足によって推測の部分もある。多くの謎に包まれている益子家の歴史において、戦国時代の終焉から江戸時代初期までの動向は様々な説が飛び交い、非常に研究者を悩ませている。ゆえに研究心も高まるのだが、とはいえ混乱しすぎている。
今回掲載した史料の考察により、はるばる白河の地にて家系存続が判明した事は、益子家の歴史を解明する上で一つの布石を打てたような気がする。惜しむらくは、両者の発給した文書の花押が一致するかどうか確認ができない事である。片岡正勝文書に花押はあるが、源清の直筆文書や花押は今のところ確認できない。
今後、これらを補完する史料の発見や、諸兄らの研究によってより深く解明される事を願う。
参考資料
・益子町史 第二巻 古代中世史料編 /益子町史編さん委員会/1985年
・芳賀町史 史料編 古代・中世 /芳賀町史編さん委員会/2001年
・氏家町史 史料編 古代・中世 /氏家町史作成委員会 /2009年
・栃木県史 史料編 中世二 /栃木県史編さん委員会/1975年
・大洗町史 通史編 /大洗町史編さん委員会/1986年
・白河市史 通史編1 原始・古代・中世/白河市史編さん委員会/2004年
・白河市史 各論編1 民俗 /白河市史編さん委員会/1990年
・福島県史料集成第四輯「白河風土記」/福島県史料集成刊行会/1953年
・栃木県立博物館研究紀要−人文−第33号 /栃木県立博物館/2016年
・妙徳寺墓碑(福島県白河市)
↓ 前のページへ戻る。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ・はじめに へ戻る。
1ページ目 へ戻る。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
益子家へ宇都宮家臣団辞典へ
|