論文

片岡駿河守正勝の所業と、宇都宮家改易後の行方について 

 

 

 

 

2025.7.20 著 恩田浩孝 

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1、佐八文書に見られる片岡駿河守

 

片岡駿河守の名は佐八文書の「下野国檀那之事」に見られる。同史料は伊勢神宮神官・佐八御師の檀那一覧で、これを元に御師が檀那を順々に廻ってゆく。

 

ここに宇都宮家臣が羅列されており、益子周辺と思われる箇所には、片岡駿河守と、子息の弥八郎、賀藤大隅守(以下、加藤大隅守と記す)らが記載されている。加藤大隅守は富谷か七井の周辺に拠った益子家臣で、注記に「さかと」とあるが、彼は坂戸城主ではない。茨城県桜川市の坂戸周辺に拠った人物という意味で、それは天正14年(1586年)頃に加藤大隅守が預かっていた富谷城を指すと思われる。富谷はその後結城領になったので、加藤大隅守は益子の中村城か七井城に戻ったのかもしれない。

 

「下野国檀那之事」は領主の居住する地域ごとに記してある事から考えると、片岡駿河守が拠ったのは、益子地域か、常陸の岩瀬方面か、その近辺にいたと考えられる。大きく、ざっくりとしか推測できない事が残念である。

 

加藤大隅守の活動していた天正14年(1586年)頃、益子家が片岡と名乗っていたかは今の時点では断定できない。檀那について佐八御師が後に記したメモなので、名が隣り合っていても年代が合っていない場合もある。これより後世の江戸時代初期頃に作成された可能性もある。時代としては、文禄、慶長、元和頃だろうか。益子城を退去した以降に、益子から片岡に改名した可能性が高いため、今後の新たな史料の発見や見解を待つ。

 

佐八文書によると、片岡駿河守正勝は妻や息子たちと共に数年にわたり初穂料(奉納銭)を納めている。彼の生年に関して文書より推測すると、正勝子息の片岡弥八郎の初見は、文禄元年(1592年)霜月23日である。弥八郎は10歳前後であろうか。すると、片岡正勝は1565年〜1570年頃の生まれと仮定できる。

 

また、片岡駿河守の妻、子息の片岡弥八郎の他に、片岡信濃守、片岡治部らの名が見られるので、正勝以外にも片岡を名乗る者が数名いた事が分かる。ただし、古来より片岡を名乗っていたのか、片岡正勝と共に一挙に改姓した者たちか不明である。

 

 

 

 

2、片岡駿河守の登場

 

佐八文書によると、片岡駿河守は元は益子という。これが知られていなかった時代では、天正年間以降に益子家の文書が見られなくなるので、益子家の滅亡説が通説になった可能性がある。

 

しかし、佐八文書によって益子家の一系統は片岡と苗字を変えていた事が判明し、片岡駿河守は天正〜文禄年間に佐八御師へ初穂料を納めているなど活動が確認できる。初見は天正19年(1591年)霜月16日である。益子文書と合わせて掲載されているので、当時の人々も片岡正勝は益子家関連の人物という事を分かっていた可能性はある。

 

益子家において、天正年間までは益子治宗が佐八御師に初穂料を納めていたが、益子家が天正年間以降に没落した頃に入れ替わりで片岡駿河守の文書が登場する。

 

 佐八御師とのやり取りで、片岡駿河守の取次ぎ役である奏者は塙大炊助(のちに立原大炊丞清尚に改名)が務めた。塙家は益子家臣として名が見えることから、両者とも益子家に関連する人物であろう。

 

 片岡駿河守は御師に初穂料50疋(500文に相当)、または20疋(200文に相当)を納めている。佐八文書によると、益子治宗の時代は50疋を納め、正勝の時代でも50疋を納めた。のちに正勝20疋、同時に子の片岡弥八郎は10疋(100文)を納めているので、後年の片岡家は合計30疋というところか。益子治宗が益子城主であった時代から考えると、片岡正勝の時代は初穂料が減少している。これは、益子家が片岡と名乗って益子城から退去した事によって勢力減衰した可能性がある。もしくは片岡正勝が益子分家であれば宗家よりも額が少ないのかもしれない。しかし、30疋の上納は、勢力が減退した領主としては多い額である。

 

しかも、佐八御師とのやり取りの中で、宇都宮家臣のほとんどが家臣本人のみが初穂料を納めているのに対し、片岡駿河守は奏者に塙大炊助を立て、片岡の妻と子も初穂料を納めている。身分が高くなれば、奏者を立てたり、妻子、御隠居など家族も共に奉納する例が間々見られ、このような形式をとっている宇都宮家中の者は、宇都宮当主、芳賀家、西方家、君島家、祖母井家などで、どれも宇都宮家重臣や宇都宮国綱の側近で有力な人物ばかりである。

 

よって、片岡駿河守は、益子家の当主筋か、それに極めて近い有力な益子一族であるといえる。

 

 

 

 

3、佐八文書より抜粋

 

片岡駿河守の名が記された文書はすべて佐八文書である。これより抜粋し、

 

[1] 檀那帳文書

[2] 初穂料奉納文書

 

2項目に分けて掲載する。

 

 

[1] 檀那帳文書4点(佐八文書)を掲載する。

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 「下野国屋形家?旗下家来衆之御帳」

益子殿蓮 片岡駿河守殿

 

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 「下野国檀那之事」下野国日記 宇都宮之分

 

 (ましこ殿之事也、弥八郎殿子息の事

一、片岡駿河守殿 杉原二帖・油煙一丁

 初五十疋

 雑子へあミ笠一ツ宛、上様へ帯・くし

 

 字花歟、可尋

一、塙大炊助殿、帯・くし

前ハ善七郎殿トモ云、右駿河守殿奏者也、宿也、

 

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 「下野国檀那之事」下野国日記 宇都宮・那須之分

 鳥

一、片岡駿河守殿 人々御中

益子殿之事也、

 

  杉

一、塙大炊助 御宿所

  右ノ人、片岡駿河守殿奏者也、

 

 片岡弥八郎殿 人々御中

 右の人、片岡駿河守殿御息歟、百文給候、

 

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 「下野国檀那之事」前田記兵衛殿御越之時、文遺候分、

 

 鳥

一、片岡駿河守殿

 

 杉

一、塙大炊助殿 右、駿河殿奏者、

 

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これらを解釈すると、御師からの土産として、杉原紙二帖、油煙(奈良墨)一丁を受け取り、初穂料として50疋奉納した。妻と息子も確認できる。取次ぎ役である奏者は塙大炊助が務めた。

 

次に、「栃木県史 史料編中世二」所収の片岡正勝文書(佐八文書)の5通を要点のみ掲載する。

 

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[2] 初穂料奉納文書5点(佐八文書) 栃木県史 史料編中世二より抜粋

 

・天正19年(1591年)霜月16日、

片岡駿河 正勝 初尾20疋 正勝花押

 

・文禄元年(1592年)霜月23

正勝 最花20疋、弥八郎10疋 正勝花押 片岡駿河守

 

・文禄3年(1594年)青陽(1月)12

 正勝 20疋、弥八郎10疋、正勝花押

 

・文禄5年(1596年)正月14

片岡駿河 正勝 初尾20疋 弥八郎10疋(宇都宮にいる)正勝花押

 

・年欠 猛春(1月)13

片岡駿河 正勝20疋、弥八郎10疋 片岡駿河 正勝花押

 

 

以上の通り、それぞれで初穂廿疋納めている。東京大学付属図書館所蔵の佐八文書では6点あるという。

 

1]の佐八文書では片岡駿河守は50疋奉納したが、[2]では片岡正勝は20疋(息子と合わせて30疋)を奉納した。両史料で納めた額が違うのはなぜだろうか。益子家は益子城を退去したと伝わるので、後年に額が上がるとは考えにくい。はじめよりも額が下がったと見るべきである。のちに額を下げるということは、益子城主、益子領主としての勢力を失って財政がひっ迫していたという事であろう。しかし、20疋から30疋納めるのは小領主では相当な負担であるから、片岡正勝は限りなく益子家当主に近い有力な人物であったと推測される。

 

 

 

 

4、片岡駿河守の出自の考察

 

出自について現時点で確かなのは、益子家の人物という事のみである。天正18年(1590年)頃、同時代の益子関連の人物を挙げると、

 

・益子治宗(睡虎斎宗竹)

・益子(七井?)忠宗

・益子右京介

 

以上3名が見られる。

益子治宗(睡虎斎宗竹)は年代から考えると益子系図の益子勝宗と仮定できる。それによると文禄2年(1593年)に亡くなっている。益子系図を信じるには注意が必要だが、現存する文書から治宗(睡虎斎宗竹)の活動年代を考えると、文禄2年頃の死去は妥当と考えられる。

 

とすれば、片岡駿河守は益子忠宗の可能性がある。しかし、両者の花押は一致しない。益子城から退去したゆえ、全く違う花押を使用したとも考えられる。いまのところどちらなのかは判断できない。

 

忠宗の続柄について、益子系図の罫線が混乱しているため、七井勝忠の子か、益子治宗の子か判別が難しい。系図によると天正14年(1586年)1117日、益子落城ののち、天正15年(1587年)から慶長2年(1597年)まで七井忠宗が益子城を預かったという。私見であるが、まず益子城を君島備中守の息子(系図では益子家宗)が預かり、忠宗は片岡駿河守と名乗って益子城周辺に拠って共に益子領を守ったとも考えている。片岡駿河守の宇都宮領内の居住地は今後の研究による解明を願う。

 

忠宗の発給文書は天正15年(1587年)と、天正16年(1588年)文書の2通がある。この文書を発給するには早くて10代の年齢であろう。そこから忠宗の生年を考えると、1570年頃に生まれている事になる。別人だとしても片岡駿河守と益子忠宗は年代が近いと考えられる。

 

または益子一族のうちの一人という可能性もある。現時点では戦国時代の益子家と片岡駿河守の血縁関係は不明である。当時の良質な史料である佐八文書の「片岡駿河守殿 ましこ殿之事也」は有力な記述であるが、これだけでは益子家と縁深い事が示唆される程度である。

 

また、佐八文書に見られる益子右京介は、片岡駿河守とは別に記されているので別人と考えられる。君島備中守の娘が右京介に嫁いでいる事から、益子家と君島家の関係の深さがうかがえる。

 

 

 

 

5、宇都宮家改易後、片岡家の移住先について

 

未だ宇都宮家中に留まっていた時は、どの地に居住したかは不明である。筆者は佐八文書から考えると芳賀郡周辺に住したと推測する。江田郁夫氏は論文(栃木県立博物館研究紀文−人文−第33号 2016年)の中で、矢板市の片岡郷に住して片岡姓を名乗ったとの推測を載せるが、今後、移住先が判明する史料の発見に期待したい。

 

益子城を失って以降、または宇都宮家が改易されて以降の益子家は、滅亡説や各地に移住など様々な伝承が残されている。系図や伝承に従えば、益子家宗は宇都宮家によって攻め滅ぼされた説や、紀伊国の浅野家の元へ行ったという説もある。また、常陸国の岩瀬方面や、大子に落ちのびた一族もいる。他に、奥州方面、佐竹家に仕えた者、那須家に仕えた者など、移住先は非常に広範囲におよぶ。

 

現在残る佐竹家伝来の秋田藩家蔵文書によると、様々な益子家の系統が確認できる。しかし、どれが益子本家か分家か全く不明で、どの経緯で各系統に至ったか不明な点が多い。下野の益子出身でない別系統の益子家も混在しているようで、参考にするには注意が必要である。あくまで益子一族という推測に留めておいたほうが良い。少なくとも片岡駿河守正勝は秋田には行っていない。

 

 片岡家の消息については、江戸時代後期に記された宇都宮家臣帳に「野口村 片岡信濃守 片岡司郎」とある。片岡信濃守は佐八文書にも見られ、片岡駿河守正勝と同系統と考えられる。片岡信濃守の子孫・片岡司郎は江戸時代後期の人物である。宇都宮家の改易後に常陸の佐竹家を頼り、常陸国の野口村(現・茨城県常陸大宮市野口)に移住したと思われる。現在では野口よりも、隣の三美周辺に片岡姓が多く見られる。なお、この地域の旧家の家系、伝承などはまだ調査していない。茨城県桜川市長方にも片岡姓が多いが、こちらも未調査である。今後の課題としたい。

栃木県側からの調査ではここまでしか判明しなかったが、これ以降の片岡駿河守の行方を補完する有力な史料があった。

 

 

 

 6、へ続く。

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2ページ目

6、片岡駿河守と妙徳寺 −白河へ−

7、妙徳寺の変遷

8、白河に招かれた理由

9、妙徳寺の源清墓について

10、源清が出家した大網願入寺について

11、蒲生源左衛門室について

12、片岡駿河守正勝(源清)と周辺の動向 − 結び

 

 

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