下野の野望

〜少勢録〜

しょうせいろく

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 今まで「信長の野望」に登場してきた下野武将の能力値を、ありとあらゆる要素を加味したうえで自分の独断で考えてみました。


私が今まで下野を研究してきて、これくらいの能力値はあるだろうと思って、ここに掲載しました。

くれぐれも、え〜?うっそぉ〜と思わないでください。

注)ここに掲載した能力値は管理人・上沢光綱が独自の見解によって決めたものであって、あくまで改定案です。(株)コーエーの「信長の野望」シリーズに今まで登場してきた武将たちの能力値とは一切関係ありません。数値もすべて異なります。

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能力値改定案 勝手にしやがれ第三弾

佐野家

武将名

誕生年

政治

武力

統率

智謀

特技

野心

義理

軍事特技

総括

佐野秀綱

1472

61

44

52

66

改修

38

71

修復・離反

古河公方に協力。家訓を残し、家中は安定していた

佐野泰綱

1482

64

48

49

58

農業

62

67

虚報・訓練

扇谷家にも協力し、北条とも戦う。佐野記によると、治世はかなり高い評価である

佐野豊綱

1520

34

35

40

33

農業

56

57

強攻

書状も残されておらず、功績はよくわからない。謎の人物

佐野昌綱

1530

57

57

66

49

改修

55

46

守戦・鼓舞

危機的状況の中で民政面、軍事面でよくやった!感動した

佐野宗綱

1560

52

58

42

36

商業

79

41

激励・突撃

悲劇の革命児とも言いましょうか。戦死はとても残念です

佐野房綱

1558

39

72

48

51

外交

75

79

剣豪・攻城

槍の達人。宗綱討死後に出奔。秀吉に仕え下野に凱旋

山上照久

1538

16

77

41

29

外交

17

88

突撃・軍神

佐野四天王筆頭。重臣にして、豪傑で知略のきいた武人

大貫武重

1532

57

25

29

58

商業

63

69

離反

慎重論が逆に反対派の反感をかってしまった悲劇の将

神馬忠春

1514

42

30

34

40

登用

43

55

罵声

1546年の、河越合戦で討死の他はわからない謎の人物

高瀬忠行

1538

33

 32

37

56

商業

58

53

混乱

免鳥城を守備していたが、1581年、長尾勢により討死

茂呂久重

1545

26

28

31

34

哀願

37

47

逃亡

佐野豊綱の娘を娶る。小田原合戦時、居城藤岡城にて討死

佐野弘綱

1494

44

15

24

38

外交

61

73

逃亡

足利義明の外交面で活躍し、後に頼純と共に里見家を頼る

武将名

誕生年

政治

武力

統率

智謀

特技

野心

義理

軍事特技

総括

ファンクラブコンテンツの追加武将のデータ改定値は載せていません。

藤岡清房、佐藤宗連ら

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上沢光綱の喝!

(赤文字が喝の部分です)

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なんか最近、突然佐野家が増えた。

昌綱以前の当主も登場し、こりゃすごいと思ったのじゃ。

でも、由緒正しい御家なのに、続柄がはっきりしない混乱家にコーエーがどこまで挑戦できるか楽しみでした…

 蒼天録は最初のシナリオが1497年なので、佐野盛綱が登場すると思いきや、最初の当主は佐野秀綱でしたね。少しがっくり。

 そして生年と続柄に目をやると、やっぱり混乱してました。

詳細は「不明!下野武将の生誕年を検証」で扱いたいと思います。

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●史実ではいくつか説がありますが、一致しているものを載せます。
佐野秀綱 1472〜1546 1490年生まれの説もあり
佐野泰綱 1482〜1560 1488年生まれの説もあり
佐野豊綱 1520〜1559
佐野昌綱 1530〜1574
佐野宗綱 1560〜1585

以上、「本光寺開創記」より

●「信長の野望 嵐世紀」での生没年は
佐野秀綱 1472〜1546
佐野泰綱 1488〜1560
佐野豊綱 1504〜1559
佐野昌綱 1509〜1574
佐野宗綱 1556〜1583

●そして、「信長の野望 蒼天録」での生没年は
佐野秀綱 1467〜1540
佐野泰綱 1483〜1554
佐野豊綱 1504〜1559
佐野昌綱 1529〜1574
佐野宗綱 1556〜1586



いくらなんでもズレ過ぎじゃ。もうちっと史実と一致させようとは思わんのかね?蒼天録では、いじらなくてよい没年までめちゃくちゃにしやがって!

嵐世紀は、昌綱の生年を1530年にすればベストに見えますが、この佐野秀綱、泰綱、昌綱の生年は「系図纂要」という史料のもので、信憑性が薄い。ですから、ベストとはいいがたいのです。

佐野家の生没年を調べるには、「本光寺開創記」を元につくることをお勧めする。この史料は、他のものよりは比較的信頼できるとかなんとか…という噂です。

まあ、佐野家を本気で研究する気にならないと大混乱します(佐野家マニアでも酷なのに)。だから蒼天録では滅茶苦茶にして適当に切り抜けたのかな?

只今、このページを書いている私も大混乱中。

伝わっている系図で普通に見ると、10歳しか違ってない親子がいるのは問題ですが、江戸期の佐野当主が「系図無くしちゃったからわかんないんだよぅ!」って言ってたくらいですから、江戸期から混乱してたんですね。

っていうか、蒼天録では、
佐野盛綱と秀綱の生誕年を一緒にするな!

ふう、生誕年についてはこれくらいにして…(長い?)本当のはこれからだ!佐野昌綱と宗綱についてだ!

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「佐野昌綱」

おそらく、戦国期の佐野当主の中で、一番過酷で多く合戦をした当主であろう。まさに彼の人生は唐沢山城と共に、守戦に明け暮れた日々だった。

 昌綱は大国小田原北条家から数度、越後上杉家から十回の猛攻に、ついに落城することなく生き残った。ゆえに下野武将としてはとんでもない勝率になっている事は明らかである。

 でも「信長の野望」シリーズでは何で戦闘低いんだ!?天翔記では高かった!でも、それ以降が「50」がやっとこ。こんな戦闘値の武将に、かの上杉謙信が十回も退却させられたのですか!

はっはぁ〜ん、笑ってしまいますな(笑)。くやしかったら、もっと昌綱の戦闘を上げてみんしゃい。昌綱ファンが増えるハズ。

技能に、鉄壁つけてもいいよ。←やりすぎか。

 あと、あまり世間に知られていないように思われますが、実はけっこう政策に関しての書状が残っているのです。まあ、あれだけ攻められて領内統治を怠ったら潰れますからな。昌綱は領内統治も頑張っていたのでしょう。

 さすが、名将・佐野昌綱。政治力アップも見込めるね。戦闘値は天翔記以来の高数値になることを強く望みます。

下野の鉄壁ぬりかべ、佐野昌綱!


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「佐野宗綱」

 みなさんの中には、宗綱について間違った見解をしている方が大勢いらっしゃる。

 彼のことを、「浅はかで、軽く戦仕掛けて、ついに討死してしまう」と思っているのでは?

 実は戦国期、佐野当主の中で一番コイツが勇猛なのです。いや、かなりというより尋常じゃないくらい。

隣の長尾が攻めてきたら、すぐさま出陣し、すべて撃退。一度も遅れをとった事はないという。

 あとは、叔母が嫁いでいた藤岡清房は、北条に通じたので、即刻襲って自害させた。

 下野国内ではこういう人はあまりいないので貴重です。

 さらに特筆すべきは軍事、内政面での改革ともいうべき功績である。

 天正11年の軍事催促状で、部隊の割合から言って、鉄砲隊を重視している。家臣の「福地出羽守」が鉄砲指南役になっている。

しかし、少々強攻策であったことは否めない。今話題の「痛みを伴う改革」だったか。宗綱は、これを年齢20代でやってしまうのだから凄い。

まあ、能力値は政治力が「50」くらいあってもいいですね。30代は低すぎです。戦闘値も50以上あってよし。でも、智謀は低めに設定してもいいです。

 聖域なき構造改革だ!郵政民営化だ!

佐野自衛隊は強いんだぞ!!
Forever Love〜♪
・・・コレ一曲しか知らねーんだろ?小泉さん


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信長の野望の歴史中、シリーズ一の家臣登場数に、佐野家中は喜び、踊りあがった。これまで登場した佐野家臣といえば、山上道牛入道綱勝だけでした。

これで躍進なるかと思いきや、ちょっと待った!!
私は、ここで、疑問に思う人物がまたまたいるのです。

また性懲りも無く喝!なのです。

それは、ゲーム中に登場した大貫武重高瀬忠行です。

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「大貫武重」

蒼天録にある列伝は、
佐野家臣。佐野四天王の1人。財務の才に優れたという。足尾銅山の採掘を行うなど、主家の財政基盤確立に尽力した。主君・宗綱の死後、自害させられた。

この人は、佐野四天王の一人らしいです。私が調べた、記録史には…

1585年の長尾顕長合戦前に、新年の出陣は罰があたるから、やめなさい!って諫言したら、佐野宗綱はたいそう機嫌が悪くなった。
そんで、正月一日に出陣して、単騎前に進みすぎた宗綱は長尾勢の豊島忠治に討たれ、その時大貫越中は唐沢山城の留守居役でした。
この時、佐野家中は主戦派と慎重派に分かれており、大貫越中守は慎重派です。

主戦派は思いました。

「あの大貫越中守のヤロ〜、合戦時の留守居役は大事とはいっても、殿から言われてもねーのに、勝手に唐沢山に留守しやがって〜!出陣前に自分の意見が通らなかったからって、我一番に出陣した宗綱様を無視して留・守・居!?しっかも唐沢山城に集まってるのはほとんど大貫一族じゃねーか!こりゃぁ謀反の疑いが大ありだぁ!

そうみんなで言い合って、宗綱死後まもなく、主戦派の家臣らは大貫越中守の居城を攻めた。一騎当千の佐野四天王の大貫越中守といえども、ついに力尽き、一戦もせずに自刃して果てた。


…とあります。これが1586年のことと思われます。

列伝と死没年は一応あってます。でも、多くの文献には「大貫武重」という名でなく、大貫(抜)越中守や大貫定行で登場します。武重は後年に改名したようです。

 これの子かわかりませんが、コーエーがゲームに登場させた大貫武重とは別人と思われる大貫越中守は、1590年の秀吉による小田原征伐時に自害しています。佐野了伯に唐沢山城を攻められ、開城を拒み、北条家への義理により自害。


佐野戦記(家臣帳のようなものがあった)には

四天王 大貫越中守定行武重
      伊勢守武基

とある。


大貫武重の結!

「信長の野望 蒼天録」の列伝にある没年が1586年のため、文献などでよく確認される、佐野宗綱に出陣を諫言し、増権を嫌がられた「大貫越中守」だと思われます。

が、佐野戦記に見られる「大貫武重」と同一人物かは疑問です。

 家中でかなり権力を持っていたと思われ、政治力はまあまああったでしょう。しかし軍事面では慎重論も目立ち、いくら四天王と呼ばれても、武力を感じませんでした。それで武力は低めに設定しました。

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次の高瀬忠行はほとんどわからん。調べたが、よくわからんかった。コーエー、どうやって調べたんだ。教えろ!

「高瀬忠行」
一応、蒼天録の列伝。
「佐野家臣。家中随一の智将という。館林城主・赤井家が奪っていた免鳥城を主家が奪回したあと、免鳥城主となる。のちに長尾顕長に居城を攻められ戦死した。」

ゲーム内の死没年 1581年

前項、大貫武重でも紹介した「佐野戦記」中にあった記述は…

御客家 高瀬紀伊守綱清武正
         武元     ←綱清の子
    紀伊守武正は免鳥城主

とありました。

免鳥城は、1577年4月に長尾顕長の大軍に奪われたあと、すぐに佐野宗綱の救援により奪還している。高瀬紀伊守が城主となり、そののち1581年長尾勢に1千余騎で再び攻められ落城。高瀬紀伊守は討ち死に。


高瀬忠行の結!

っちゅう事で、蒼点録で登場する高瀬忠行は、史実の高瀬武正に比定されます。

これ以外の文献が見つからなかったので、残念ながら家中随一の智将かどうかわかりませんでした。コーエーさん、どこで調べたか教えてください。

まあ両人とも私たちを混乱させる、凄い人たちという事は確かじゃ!

技能で「混乱」をつけてあげたいくらいです。

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「佐野弘綱」

またまたわけのわからん人物が登場しました。彼は「信長の野望 嵐世紀」で登場しました。
佐野弘綱は、小弓公方・足利義明の家臣で、文書もいくつか残されています。

とりあえず、またまた嵐世紀の列伝。

「小弓足利家臣。主君・義明の奏者を務めた。第一次国府台合戦の際は、義明の馬廻として活躍した。義明敗死後は、幼少の頼純を伴って里見家を頼った。」

佐野の一族なんだろうけど、小弓公方に仕えてたんだろ?なんで武将ファイルで下野の佐野家に載ってんだよ。下総なんだから小弓公方のところに載せればいいじゃねーかよ。そんな事やるからココで取り上げなきゃいけなくなったのです。

なお、『田沼町史』古代〜中世の史料編によると、続柄は未詳とのことです。

佐野弘綱の結!
出すんなら、下総のページに出せ!コーエーめ(困)

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ぬぬぬぬぬ〜(怒)!わけわからん事や、けしからん事ばっかり!


喝!
かつ!
喝ぁぁぁぁ〜っつ!!

むふう、思い知ったか。


あ〜疲れた。謎の多い佐野家はマジ疲れマッスル!!


他に、宇都宮家那須家小山家、山内上杉家臣(長尾など)下野関連武将も公開中
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