那須家
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那須家は、他の戦国大名とは少し違った色がある。七騎と呼ばれる領主たちの盟主的な立場にあり、七騎も独立色が非常に強かった。だが、幾重にも重なる婚姻や血縁関係で、結びつきを強めていった。独立色が濃かたとはいえ一応、那須本家を中心として動いていたようである。関東八家に数えられ、ならびに御屋形の屋号も許されている。 勇猛でうなる那須本家を中軸とする那須七騎は、戦国時代、近隣の諸大名に何度も攻められたが、大敗することなくほとんど撃退に成功している。小国で、常に兵動員数が相手より下回る苦境の中、厳しい生活環境で培われた兵士の粘り強さと、きわめて有能な家臣団を擁していた。秀吉の小田原征伐の頃には十一万石あったから、兵の総動員数は三千ほど(一万石あたり250〜300人で計算)。しかし、守りにも残し、動員できない遠方の兵を除くと、合戦に出てくる兵数は多くて一千ほど。那須家は比較的、徴兵がしにくいのだ。ほとんどの場合、三〜五百人である。こんな兵数で佐竹家や宇都宮家・三〜五千の軍勢と戦っていた。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 那須家は、藤原道長の曽孫である資家が奥州白河郡八溝山の賊を討った功で、下野国那須郡を賜わり同地に住したことから起こるという。また、那須国造の出ともいう。それから、江戸期まで下野国那須郡内に勢力を保った。 はじめ須藤姓を称し、資隆に至って那須を称すという。その子があの与一宗隆である。宗隆は、源義経に従って出陣し、屋島における扇の的を射抜いた功が有名である。十一男だった宗隆が、上十人の兄を差し置いて那須家の家督を継いだほどである。 建久四年(一一九三)与一の曾孫にあたる光資のとき、源頼朝の那須野巻狩が行われ、その準備と経営の功績によって、御家人の地位を確立した。 |
戦国以前の那須家
戦国期の那須家後半
那須家当主列伝
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那須七騎とは
那須宗家を中心に、その重臣ら七家を合わせ呼ばれている。 |
那須家重臣・七騎紹介
伊王野家 当主列伝 伊王野通史 鮎ヶ瀬弥五郎 |
大田原家 当主列伝 大田原通史 強力な一門 |
大関家 当主列伝 大関通史 七年戦争 |
芦野家 当主列伝 芦野通史 |
福原家 当主列伝 福原通史 |
千本家 当主列伝 千本通史 |