那須家
戦国時代通史前編






 永正十一年(一五一四)上那須の当主・資氏(資親)は養子の資永を廃して、実子の資久に家を継がせようとし、お家騒動に発展する。
 資親が遺言を託した大田原胤清の策謀などもあって、家中に内紛が生じ、資永、資久が両名とも不慮の死をとげてしまう。

 後継ぎのいなくなった上那須の老臣たちは宇都宮家からの養子を蹴り、下那須家の資房に頼んで、その子・政資を当主に迎える。
 ここに上下那須両家を統一するところとなり、およそ百年にわたる対立に終止符を打った。
 戦国時代が激化するギリギリのところで両家統一を遂げ、滅亡の憂き目は逃れた。このまま分裂していたら、両家とも周辺から攻められ、潰れていたかもしれない。

 資房は、政資を後見しながら、戦国大名として周辺の大名と戦った。永正十七年(一五二〇)復讐に燃える白河義永(先年殺された資永の実父)と岩城常隆の連合軍が那須に攻め寄せる。
 那須勢は山田城、縄釣台で奮戦し、大軍の奥州勢を撃退した。
 翌年には宇都宮なども誘って、さらなる大軍で来たが、上川井城、続いて烏山城の籠城戦をし、長陣で疲れた連合軍と和睦の末、撃退に成功している。

 一五三〇年頃には宇都宮、小田、佐竹などに攻められるが、小勢の那須勢はよく戦い、相手に打撃を与えながら撃退し続けた。

 しかし、宇都宮との友好を主張する那須政資と、反宇都宮派の高資が対立した。高資は、政資の居城・烏山城を攻撃し、政資の隠居を条件に和睦、新たな当主となった。
 天文十八年(一五四九)北条氏と敵対する宇都宮氏は古河公方足利晴氏と結んで、那須領の喜連川五月女坂に侵攻した。
 宇都宮勢二千の軍勢に対し、那須勢がたった三百というたいへん不利な状況であったが、那須方の伊王野資宗配下・鮎ヶ瀬弥五郎の放った矢が、馬上の宇都宮尚綱を射殺したことから宇都宮勢はたちまち総崩れとなり那須勢が勝利した。
 しかし天文二十年(一五五一)宇都宮家再興を狙う芳賀高定は謀り事を廻らして、那須高資は千本城内にて殺されてしまう。

高資が殺されたあとは、異母弟の資胤が継ぎ烏山城主となった。

永禄三年(一五六〇)奥州の芦名盛氏が侵攻してきたため、小田倉で迎え撃ったが、那須勢の結束が弱く苦戦した。
 資胤の本陣は崩れたが、危機一髪のところで千本資俊の軍が救援し、折を見て、大関軍が突撃したので、奥州勢を撃退することができた。
 しかし、資胤が危機にもかかわらず大関軍が動かなかったことが、
資胤を疑心暗儀にさせ、大関高増と不和になる。
 ほどなくして上那須の諸将は離反し、なんと常陸の佐竹家に援助を求めたのだ。そして、芦名、白河、佐竹、宇都宮連合軍が那須に侵入したため、那須資胤は最大の危機を迎えた。


しかし、資胤は家臣団の統制を強化し、神長治部内山の戦い、烏山川原表の合戦、大崖山の戦いなどで連合軍を打ち破った。そして、逆に佐竹領に侵攻してその勢力拡大を図った。
 その後、らちのあかないと悟った上那須諸将は、資胤と和睦し帰属した。ここに那須七年戦争は終結したのである。




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