那須家当主列伝




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那須資親 なす すけちか 14??1516


上那須家当主。那須の嫡男。大膳大夫。


男子が生まれず、白河義永(政朝)から養子を迎え、資永と名乗らせ継がせるつもりであったという。三人の娘がおり、このうちの一人と娶わせ資永を迎えた。他は宇都宮家当主・宇都宮成綱に嫁ぎ、もう一人は下那須家一族・沢村三郎に嫁いでいた。

さらに、資親の兄で、若くして無くなった明資にも三人の娘がおり、それぞれが白河家、小峰家、下那須当主・那須資実に嫁いでおり、資親は婚姻関係で安定を図っていた。

が、一五一〇年頃、男子の資久が誕生してしまう。山田城を与え、大田原胤清、大関宗増、金丸義政に預け養育させる。

死期を悟ると遺言として大田原父子を呼び、養子・資永を殺し、実子・資久に家督を継がせることを言い残す。

大田原胤清は、家臣らの説得に奔走する。
 資親死後の同年、上那須諸侯の攻撃により福原城は陥落し、資永は自害。合戦の途中、上那須諸侯の知らぬ間に山田城から連れ去られた資久も死んでいた。この両人の死に、那須家中の落胆は甚だしかったが、それは結果として上下那須の統一の期となった。



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那須資永 なす すけなが 14??1516?


白河義永の次男。那須資親の養子で上那須を継ぐ。


那須資親に子が生まれず、白河家から養子に入ったが、那須家を継いでから那須資親に実子・資久が生まれた。
 資久が生まれなければ、そのまま上那須家督を継ぐはずだったが、そうはならなかった。
 資永を討つことは、養父・資親の遺言であったらしい。上那須衆は集会し、遺言により、決起する。

一五一〇年の永正の変で衰退した白河家は、援軍を出す余裕も無く、下那須家も上那須家の味方となり、資永は非常に少数の兵で戦わねばならない状態にあった。兵力は数十騎だったか。

一五一六年八月二日、資永は、上那須諸将が蛭田ヶ原に陣を張るとそこに向かい、箒川を挟んで対陣。劣勢のまま居城の福原城(当時、上那須家の居城は福原城。上下那須家統一後、那須家の居城は烏山城になる)に退却する。

上那須勢は一旦退き、楽勝ムードの上那須諸将が明日の軍議を開いている隙をついて、資永家臣の進言により、幼い資久のいる山田城に忍び込ませ、資久を奪い城内で殺した。

次の日、那須勢が福原城に攻め寄せると、資永以下主従たちは城門が破られる前に自害して果てた。ある意味、那須諸将に一矢報いたわけでる。これにより上那須は途絶え、のち上那須家臣らが話し合い、下那須から当主を迎え、那須家統一の兆しが見えるのである。

養子に出した資永を失った白河義永は、那須に対し恨みを持つことになる。このことが後の浄宝寺縄つるし合戦など、戦国初期の度重なる奥州勢侵攻の因縁をつくることとなる。


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那須資久 なす すけひさ 1510?〜1516


那須資親の実子。

養子に入った資永より後に生まれたため、資永は廃嫡されるという疑念に駆られる。

那須諸将に攻められ、福原城に籠っていた那須資永の配下に、手薄になっていた山田城から連れ去られ、六歳にして福原城内で殺される。

このことへの那須衆の落胆はかなりのものだったという。直系の資久に継がせようとした遺言を守った末が、結局は上那須家の断絶というかたちとなってしまった。


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那須資房 なす すけふさ 14??1552?


那須資実の嫡男。下那須当主。修理太夫。一五五二年没。法名:弧峯院笑月源藤。母は上那須明資の娘。

上那須の資永と資久が戦死した折は、白河家に上那須領を取られるのを嫌ったのか、上那須衆に味方した。

断絶してしまった上那須家に請われ、嫡男・政資を当主として迎えるのを了承し、上下那須家を統一した。母が上那須明資(資親の兄)の娘だったことから、因縁が近く、上下那須家統一は比較的事がうまく運んだか。

下那須家の烏山城から、上那須家居城山田城に政資を入れ、統一となったわけだが、百年もの間対立し、上那須家中には反対派もいただろうし、政資はまだ若かったため、実権は資房が握っていたものと思われる。だが、厳密に言えば下那須家の当主であって、統一後の那須家の当主ではない。

復讐に燃える白河家は今はまだ軍勢を出せないと言っても、のちに必ず対峙することになる。それでもあえて、政資を危険な山田城に入れた事は、不信感のあった上那須衆に、新那須家当主として奥州勢を迎え討とうという意志を示す必要があったのだ。

この時、大田原胤清の嫡男・貴清(のちの資清)が資房に人質として送られ、非常にかわいがられていたという。資清と改めた「資」の字は、資房の一字である。しかも利発な資清は、このままいけば那須家の大事な支えになるはずだった。

しかし、大田原家にライバル心があり、権力増大を狙う大関宗増は大田原胤清死後、おなじく七騎の福原資澄と謀って、大田原資清に謀叛の嫌疑ありと資房に言い寄る。

一五一九年、大田原資清は追放され、以後、那須の地に戻るまで不遇の時を過ごすこととなる。

一五二〇年八月、態勢の整った白河家は、岩城家を誘って、那須領に攻め入った。小勢の那須はこれを迎え撃とうと、かねてからの作戦通り、政資を修築していた山田城に籠城させる。

奥州勢は、途中の芦野城、伊王野城などには目もくれず、政資の山田城めがけて進軍してきた。山田城は猛攻を受けるが持ちこたえる。

烏山城の資房が、奥州勢を挟み討ちにしようと山田城に向かうが、察知した岩城勢は烏山に向かい、縄釣台で遭遇戦となる。

那珂川沿いに陣を張っていた資房軍に岩城勢が突撃し、資房の陣は崩れたち、大混乱となった。

「那須紀」ではこの時の合戦で岩城勢が鉄砲が使ったと記してあるが、一五二〇年ではポルトガルの火縄銃伝来前である。この軍記物は、江戸期に作られたものであって、どこまで信じられるかわからない。爆発音があったというから、当時、中国製の発火装置による鉄砲のようなものはあったから、この事を言ったか。

さて、果敢に攻め立てる岩城勢の中にひときわ目立つ勇士・志賀備中守と白土淡路守がいた。この両人の活躍が目覚しく、那須勢は崩されていた。

那須七騎の伊王野資勝はこの劣勢を盛り返そうと、強弓で有名な家臣・鮎ヶ瀬源蔵(弥五郎の父)に命じ、この両人を射落とさせた。すると、たちまち岩城勢は崩れたち、敗走した。

この報は、後方で山田城を包囲していた白河勢にも届き、急激に士気が衰えた。これを見て、それまで山田城で防戦していた政資は、ここぞとばかり討って出て奥州勢を押し返し、さらに追撃し大打撃を与えた。

これが、縄釣し台の合戦である。しかしこれで安心できなかった。

翌一五二一年十一月には、今度は岩城家が中心となって、宇都宮家、常陸の小田家も誘って、三千の大軍で攻めてきた。

今度は、政資は烏山城に入り、それを狙って奥州勢が何かしているところに、資房が上川井城に待機し、挟み撃ちにするという作戦だった。

しかし、手薄の山田城を速攻で落とした奥州勢は、なんと上川井城に進軍した。那須家の作戦は宇都宮勢に読まれていたのだ。

上川井城に籠城していた資房はよく持こたえ、その後、城を抜け出し烏山城に入った。敵軍は烏山城も攻ねばならない長陣に疲れ始めた。

ここで宇都宮勢にいた壬生家の軍師・壬生徳雪斎が出てくる。敵味方共に損害が多く、また双方に利の無い事を説き、和睦を提案する。

これが成立し、岩城常隆の娘が那須政資に嫁ぎ、その後、岩城家とは合戦はなくなった。

 資房は那須の宗家党首ではないものの、那須家が戦国時代を生き残れるよう、那須衆をまとめた立役者である。


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那須政資 なす まさすけ 14??1546


那須資房の嫡男。壱岐守。一五四六年没。享年不詳。法名:文徳院殿雄山宗英。政資娘の母の出自は不明。政資前妻は岩城常隆の娘。後妻は大田原資清の娘。


一五一六年の上那須、下那須統一の時の年齢はわからないが、おそらく青年ほどだったか。先年まで敵だった上那須衆に取り囲まれ、さぞ心苦しかっただろう。しかし、成長後の合戦で信望を一心に集める。

一五二〇年八月の縄釣しの合戦では、山田城籠城戦では、よく持ちこたえ、翌一五二一年十一月の川井合戦でも勝利した那須家は、上下那須家の結束を強めると共に、奥州勢と婚姻を結び、安泰になっていた。

その後、家臣同士や政資の娘も家臣らと婚姻をし、さらに佐竹家などの他家とも姻戚関係を深めていった。

しかし宇都宮家は、一五二六年の猿山合戦で宇都宮当主が、忠綱から興綱へと変わり、那須家と疎遠になりつつあった。一五三一年、宇都宮家と氏家辺りで合戦があり、双方勝敗のつかぬまま退却した。この時の合戦で氏家の村々が消滅している。

その頃、大関宗増を嫡男・高資の守役としたが、権力の増長甚だしく、政資は対応に苦慮していた。この宗増の影響を受けたのか、のちに高資は荒々しい武将に成長してゆく。

宇都宮尚綱と結んで領内安定を図る政資と、宇都宮家を攻めて那須家安定を図ろうとする大関宗増は対立し、高資も宗増に同調したことから、父子の争いに発展してゆく。

一五三九年、大関宗増は那須高資と共に烏山城へ攻め寄せた。烏山城に籠った政資には、佐竹や宇都宮の援軍があったが、翌年まで合戦が長引き、佐竹軍は帰ってしまう。その頃宇都宮家も小山や結城に領内を侵食され続け、政資への協力は困難になっていた。

打つ手無しで和睦し、家督を高資に譲り政資は隠居した。それ以後の大関宗増はさらに増長し、手のつけられない状態にあった。

そこで一五四二年、昔、誤解で資房に追放された大田原資清が凱旋するのである。凱旋した理由はわからないが、復讐と、大関宗増・増次父子の横暴さが甚だしかったからという。資清が仕掛けた合戦により増次は戦死。宗増は隠居することで決着を見る。

政資は、この事件に一枚噛んでいたように思えるが、これを家臣同士の私闘として黙認した。

嫡男・高資に家督をもぎ取られたが、大田原資清という頼もしい家臣が奸臣を討ち、復権する。政資は安堵して一五四六年七月に死去した。


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那須高資 なす たかすけ 
152?1551


那須家当主。那須政資の長男。修理太夫。烏山城主。


幼少の頃から養父・大関宗増に教育を受け、血気盛んで、武勇に優れる。無粋で偉丈夫の、絵に描いたような戦国武将だったに違いない。だが、荒々しい性格から、一歩間違えば人心は離れてゆく危険さに、高資は気付いていたかどうか・・・。

しかし、粗暴と見られる性格で、政治オンチかと思っていたが、それとは裏腹に、家臣団の掌握をやろうとしていた。これは見直すべき点である。民政の内容については、まだ未確認である。

上下那須家を統合して間もなく、またこれまで独立心の強かった那須家臣団に対し、高資への権力の集中化をしようとし、家臣団から反撥を喰らっている。

だが、あくまでやろうとしていただけで、結果は出ていない。

また、前に述べたように粗暴な性格で、積極的な軍事行動を起こしかねない状況だったことから、家臣らは高資のことを快しとは思っていなかった。

一五三九年、宇都宮家との協調性を主張する父・政資と方針の違いから対立し、宇都宮家ら父の後援勢力を排して、宇都宮家と対立する方針の高資が、実力で家督を奪った。

こののち宇都宮家とは対立状態となり、一五四九年、宇都宮勢約二千五百 対 那須勢三百という劣勢ながら奮戦した那須勢は、喜連川合戦において宇都宮尚綱を戦死させ、宇都宮城を占拠した芳賀高照、壬生綱房らとは友好を結ぶ。

この前に、奥州に逃げていた芳賀高照が高資の元を訪れ、宇都宮討伐を行うように頼んでいたという。

その後間もなく、転機が訪れる。

那須高資の母は、岩城常隆の娘。弟・資胤の母は、大田原資清の娘である。大田原資清は、自分の娘の子である資胤に那須家を継がせたいとしており、これがのちの兄弟争いの発端となる。

謀叛の噂があったことから、弟の資胤を追放してしまう。

しかし、一五五一年、宇都宮家再興と那須勢への復讐に燃える芳賀高定に、付け入る隙を与えてしまう。高定の諜略を受けた那須七騎の一人・千本資俊は、高根沢郡のもらい受けを約束し、自分の居城である千本城に高資を呼ぶ。駿馬を見て欲しいとの呼びかけに高資は載った。

高資は、控えるようにとの家臣の呼びかけにも応じず、千本城内で暗殺されてしまった。

千本資俊は、高資の馬好きを知っており、これを利用して「駿馬が手に入ったので見てほしい」と頼んで高資を千本城に招待した。

そして酒宴の途中で殺されたのだ。

家臣団さえ付いてくれば、さらに近隣に聞こえた豪勇大名になり得たかもしれない。高資の死は、戦国時代に際立った活躍の無かった下野にしては、もったいない事であった。


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那須資胤 なす すけたね 
15??1583

那須家当主。烏山城主。那須政資の次男で、高資の腹違いの弟。修理太夫。

幼少の時、大田原資清の策謀で謀叛を持ちかけられた。そのときはきっぱり断ったのだが、それが芳賀高定の耳に入り、これを利用された。そのことがきっかけで、謀叛の疑いありと兄・高資から疎まれる。

熊野参詣に出かけようとして、その時に高資に追放される。千本資俊のところへ行き、そこで匿われる。

一五五一年、高資が芳賀高定の謀略によって、千本資俊に殺害されると那須家家督を相続した。

そののち、宇都宮城を占拠していた壬生家と結び、壬生家の軍事行動に一時協力もしている。しかし、一五五七年の宇都宮家による宇都宮城奪還の時には壬生家を攻撃している。壬生綱雄による専制政治の限界と、宮家家臣である芳賀高定の巧みな弁舌にのせられたか。

常陸の佐竹家と結び、一五六〇年に蘆名、白河家らと争う。打撃を蒙るが、なんとか撃退する。結果的には撃退したが、資胤が負傷するほどの押されようだったのに対し、大関軍が動くのが遅かったので、これが原因で大関高増とは不仲になる。

大関高増を中心とする上那須勢は、佐竹家と通じて資胤を攻撃していたが、居城の烏山城は落ちない。乱を起こして七年後、互いに功無く和睦。

以後も、佐竹・宇都宮勢に何度も攻め込まれるが、寡兵にもかかわらず撃退し、烏山城を攻められても落ちることは無かった。

一時佐竹義重の弟・資綱(のちの義尚)を継嗣に迎え入れたが、のち不和となり一五七五年に佐竹家に返した。

後に佐竹・宇都宮家の同盟がなされるとこれに参加して北条家と敵対したが宇都宮家とは対立関係を維持した。


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那須資晴 なす すけはる 15571610

那須家当主。那須資胤の嫡男。烏山城主。与一。弥太郎。太郎。資勝。大膳大夫。従五位下修理大夫。母は芦野資豊の娘。


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那須資景 なす すけかげ 15861656

那須家当主。那須資晴の子。与一。従五位下左京大夫。烏山城主。のち、関ヶ原後五千石で福原城を領する。


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