益子系図(下野国誌)
弟の正光に攻められ自害。子の紀一丸も正光に殺され、完全な謀反で正光に取って代わられてしまう。紀一丸は享年5歳だが、その年は応仁3年だという。幽閉後に殺されたのだろうか。系図には「脆弱」な勝家を生害したとある。 父の勝光が寛正6年(1465)に死去しており、家督を継いで数年の事である。弟である正光と折り合いがうまくいかなかったのだろうか。 古河公方と管領上杉家の抗争が、この事件になんらかの関係があった可能性もある。 下野戦国時代の幕開けの灯が、ちらほらと灯り始めた。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 益子正光 ましこ まさみつ 1440〜1529 益子家当主。益子勝光の次男。西明寺城主。筑前守。入道睡虎。筑前入道睡虎初紀権守。享禄2年(1529)11月27日卒。享年90歳。法名:正光院徹参了無。 温厚な兄に対して、苛烈な性格であったため相性が合わず、謀反を起こしたと思われる。現代語で言う、一種の「キレ」現象か。 系図によれば、1468年に兄・勝家を殺したという。京は、応仁の乱真っ只中だ。 系図によって諸説あり、正光はこちらの『下野国誌』に収録されている系図に登場する。正光は、勝家の弟で、謀反を起こしている人物である。 去年から逆算すると、なせか兄の勝家より年上になってしまう。庶兄だろうか。今後の検討を待ちたい。 当時としては大長寿、享年90歳での大往生である。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 益子勝宗 ましこ かつむね 1470〜1538 益子家当主。益子正光の長男。信濃守。入道して顕虎。西明寺城主。天文七年戊戌(1538)9月22日卒。享年69歳。 こちらの系図の勝宗は、謀反を起こしていない。謀反人・正光から益子家督相続したに過ぎない。子に、宗安、勝忠、定宗(宗之。のちの芳賀高定)らが確認できる。安宗が益子を継ぎ、勝忠は七井家を名乗り、定宗は芳賀家を継ぎ、芳賀高定となっており、それぞれつつがなく出世している。 勝宗は1470年生まれなので、芳賀高定(1521年生まれ)の父親という設定が成立する。 さて、こちらの勝宗は、他に特筆すべき点が無い。宇都宮家に反抗し、苛烈な勝宗ではないのである。というより資料が無いので、どういった人物か判断しにくい。 三男の定宗が芳賀家を相続した経緯から考えると、宇都宮家に重臣としてあたりさわり無く仕えたと思われる。 益子勝宗は、1538年に死去している。対する芳賀家の芳賀高経も1539年に死去している(異説あり)から、宇都宮家は立て続けに二大重臣を失ったことになる。この二人の能力や死因はどうであれ、宇都宮家は小山、結城両家にも攻められていたし、壬生綱房の増長もあったから、危機に瀕していたと言ってよいだろう。 宇都宮家の長者は芳賀家であり、益子出身の者が上層部を占める事は、久しくなかった。そのため、益子の力は年を経るごとに衰えてきたが、ついに、次代の重席を益子の者が担うときが来た。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 益子安宗 ましこ やすむね 1511〜1578 益子家当主。益子勝宗の次男。宮内少輔。西明寺城主。天正六年(1578)2月10日卒自害。享年68歳。 安宗は益子当主で、言わずと知れた芳賀高定の兄である。兄が宇都宮家の両翼・紀党を率い、弟の高定が清党を率いる。益子出身の者が宇都宮家の両翼を担っている。なんと見事な構想であろう。 系図から逆算すると、安宗が益子家を継いだのが1538年で当時28歳。弟の高定が芳賀家を継いだのが1539年(諸説あり)として、当時19歳である。二人の若武者は、宇都宮家隆盛に大いに盛り上がっていたことだろう。 しかし、1545年頃に宇都宮家は、下館の水谷正村と相次いで合戦をし、いずれも大敗した。続けて1549年の五月女坂で宇都宮尚綱の討死、1557年に宇都宮城は奪還するものの、周囲の外様家臣がいつ反旗を翻してもおかしくない、統率のおぼつかない勢力。 安宗は失望していったに違いない。 1565年頃、芳賀高定が隠居し、芳賀高継が継ぐ。他の追随を許さぬほどの権限を行使した芳賀高継は、宇都宮家を取り仕切る。一説によると、益子家をないがしろにしていたらしい。両翼の片方にないがしろにされ、嫌気がささない人間はいない。これが災いし、益子家との間に亀裂が生じた。復権しそうだった益子家がまた衰退していく様が目に浮かんだのだろうか。安宗は、次第に芳賀高継に恨みを持ちはじめたと思われる。 事実、高継は宇都宮家のために大いに働くが、権力の増長にまぎれて益子家への不遜は不可解である。そんなに自身に権力を集中したかったのだろうか。 芳賀高継の父や兄を殺したのは、芳賀高定であり、その親族である益子家に恨みを持っていた可能性もある。その禍根を晴らすために益子家を遠ざけた説もありだろう。 だが定説は、宇都宮家のために忠実に働く、無欲な芳賀高定に心打たれ、芳賀高継も懸命に宇都宮家のために尽くした事になっているから、「遺恨説」は否定しても良いだろう。 また、以前から宇都宮領南部に、結城家臣・水谷正村の侵攻が激しかったが、それは芳賀家の領地である真岡である。すぐ東の益子家を敵に回しては、いよいよ芳賀領が危険になる。益子と敵対しては、高継にとっては本末転倒なのである。 となると、やはり勢力同士の争いが関係していると推測する。益子家から、水谷家になびいた可能性のほうが高い。そして、水谷家になびきはじめた益子家を潰そうと、芳賀と笠間が通じ合って、安宗を遠ざけた。また合戦も起こした因縁にもなったと思われる。 しかし、水谷家(結城側)になびく事は、益子家がさらに衰退していくきっかけとなる。 益子家臣の加藤上総に讒言され、天正6(1578)年2月、宇都宮領に幽閉される。そしてそこで暗殺されてしまう。 そのとき芳賀高定は生きていたのだから、若い頃共にあった兄の死を、小貫の隠居地でどう思ったのだろう。こんなはずではなかった!という悲しい叫びが聞こえるようである。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 益子家宗 ましこ いえむね 1538〜1588 君島高胤の次男。宮内少輔。西明寺城主。天正17年巳丑(1588)3月20日討死。享年61歳。 宇都宮家に反抗的な益子安宗が殺されたあと、宇都宮の忠臣・君島高胤の次男に、益子家宗として益子家を継がせた(下野国誌)。だが、この宇都宮家の期待に反し、家宗は前にも増して反乱を起こしてしまったのである。これは宇都宮家の誤算で、さらなる勢力の減衰になった。 家宗が益子を継いだのが、51歳。かなり年がいっている。 天正17年(1588)巳丑3月20日謀シ、宇都宮ト戦ニ及ビ討死。とある。家宗は、宇都宮家に反旗を掲げ、芳賀、笠間、塩谷らの軍勢と戦い、討ち死にした。 もう一方の系図では、この合戦は1589年とあり、くい違いがある。 この合戦で、宇都宮重臣としての益子家は滅亡し、西明寺城は君島高胤の管理下になった。 しかし、系図から家宗の生没年を逆算してみると、実父・君島高胤との生没年の食い違いがでてくる。 家宗の父親であるはずの君島高胤は、1545年生まれだからだ。親子なのに、誕生年が前後しているのは、かなりおかしい。 これは今後、研究課題のひとつとして追及していく必要が大いにある。 |