益子系図(益子氏紀姓) ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 益子完正 ましこ ただまさ 14??〜1515 益子家当主。益子延正の長男。出雲守。西明寺城主。永正12年二亥(1515)12月10日卒。 父の延正が1477年に討ち死にし、子の勝清が1504年に生まれていることから考えて、完正は1460〜1470年頃に生まれたと仮説をたてる。 父・延正が亡くなったころは、青年期であるから、執政は家臣らが補佐したと思われる。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
益子家当主。益子正光の長男。信濃守。入道して顕虎。西明寺城主。天文23年(1554)8月19日卒。享年51歳。法名:盆平享寺殿通安宗大居士。 系図によると、子に、勝家、勝宗、安信、勝澄、勝重が見える。娘が一人見え、宇都宮忠綱に嫁いでいる。 娘が宇都宮忠綱に嫁いでいるのは疑わしい。勝清は1504年生まれで、娘の誕生は早くても1520年前後だろう。娘が婚姻できる年になるには、1535年前後だろうか。 宇都宮忠綱の死亡年は諸説あるが、1527年に死去したことになっている。それまでに婚姻できる年齢の人物で無ければおかしい。仮にそれ以降生きていたとしても、忠綱は鹿沼に隠居中で、婚姻できる境遇ではない。 仮に宇都宮当主の誰かの誤記とすると、宇都宮尚綱との間違いだろうか。今後の検討を待つ。 1539年からの那須父子の争いに介入したきっかけで、宇都宮家は新たに結城家と対立する。両家の対立は年々激化し、1544年ころから水谷正村が、宇都宮領の南部に侵攻著しいことから、宇都宮の大軍が何度も出陣している。益子家も、かなり借り出されただろう。しかし、戦歴から見るに、歩はほとんど水谷側にあったようだ。戦上手の水谷正村に翻弄され続けた。 そんなさ中の天文15年(1546)勝清は、主家・宇都宮家に叛き、結城配下の水谷家に属する。自身は下館に移住した。 宇都宮家の両翼の一方で、長年仕えてきた宿老格の「紀党」が他家に属した衝撃はいかほどのものか。当時、那須、結城、小山を同時に敵に回しており、戦は敗戦が多分に目立っていた。以上のことから、滅亡の危機に瀕していたと言っても過言ではない。 益子家は水谷領に接し親交もあり、宇都宮家が連戦連敗に近いことから、鞍替えしたのだろう。 しかし、益子家の屋敷があったとされる御城山から、戦国時代に生活していた磁器などが見つかったことから、勝清や主だった者は下館に移り、その他一族の一部やほとんどの家臣らは益子領に残ったと推測する。 1549年の五月坂合戦時「関八州古戦録」によると「紀清両党壬生笠間」ら譜代の家臣が加わったことになっているが、「宇都宮興廃記」に記された「宇都宮ノ先陣」名簿にはこれらの名は無く、わずかに「芳賀伊賀守高俊」と「祖母井信濃守吉胤」らが見えるだけ。 謀反中の益子宗家はもちろんの事、紀党としては合戦に参加していないか、消極的だった可能性がある。 その後、勝清は下館で死去したと思われる。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
1545年3月、弟の勝宗に謀叛を起こされ、殺される。 子に、通天、喜市郎がおり、系図によると、通天は鶏足寺の二代目和尚とある。喜市郎は、年欠の8月15日に大関彦八郎により生害される。喜市郎の享年は七歳という。 父・勝清と、弟の勝宗の生年から考えて、1520年代生まれであろう。 享年はわからないが、「下野国誌」の益子系図に記してある25歳という年齢もこちらに反映して考えると、1521年生まれと仮定でき、おおよそ一致する。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 益子勝宗 ましこ かつむね 1529〜1593 益子家当主。益子勝清の長男。信濃守。西明寺城主。文禄2葵巳歳11月27日卒。享年65歳。法名:徹参了無。 1545年3月、益子当主で兄の益子勝家を攻め滅ぼす。勝家の子で七歳になる紀一郎丸も殺しており、その残忍さがうかがえる。 勝宗、若干17歳の時である。父・勝清存命中になぜ兄を殺したのか、そして西明寺城主になった記述もある。その時、勝清は隠居していたのか。勝宗が17歳という若さで兄を殺し、城主になるのは少々無理があるような気がする。 そして翌1546年に、再び勝清の名が出てくる。この時、父・勝清と共に結城家臣の水谷配下に加わっている。なんと他家の陪臣の配下とは落ちたものだ。坂東最強の名を馳せた紀党の名が、泣いていることであろう。 益子領はそのままのはずだから、益子一族に任せたと思われる。おおかた、益子治宗、増宗らに任せたのだろうか。 益子治宗、増宗両名は系図には載っていないが、文献によく登場し、益子古城に館を構えていた可能性のあることから、益子一族とみられる。 ともあれ、勝宗は一時、父の勝清と共に下館に行っていた。 当主が謀反を起こして不在だったこの間、宇都宮家中での益子家の権限はさらに弱まった事は言うまでも無い。もし益子一族や傍流が益子領に残っていても、益子という姓に少しは気を使うだろうが、徐々に一般の家臣同然の待遇になってしまっただろう。 系図で確認できる勝宗の子に、信勝、賢仁、安宗、勝忠、ほかに女子が四名いる。益子勝宗の子というと、三男で芳賀家を継いだ芳賀高定が思い浮かぶだろうが、こちらの系図には、その名は見えない。 まあ、芳賀高定の誕生年が1521年なのに対し、この益子勝宗が1529年生まれという時点でつじつまがあわないので、高定の名が無いのも無理はない。 永禄2年(1559)益子領の北に位置する七井の矢嶋城を落とす。矢嶋城主・七井綱代は多田羅館に逃亡。新たに七井城を築き、五男の勝忠を城主に立て、七井地方も治めた。 この時、移住先の水谷家の援兵も借りていた可能性がある。 同年、高館城(西明寺の頂上部)を修理し居城とする。これで勝宗の領国は、居城に高館城、北は新たに七井地方、おそらく旧領の益子も回復したと思われ、以前よりも広い領地だっただろう。 また、永禄年間から武田信玄と誼を通じている文書も残る。長男の元服の折に、武田信玄から「信」の字を拝領し、信勝と名乗らせた。祝いの品として、刀や酒ももらっている。 他家と通じるのが好きだったのか、先見の明があったのか、または重臣クラスのため、他家から頻繁に声がかかっていたのか、はたまた利用しやすいと思われていたのか定かではないが、田舎大名の家臣としては交流が広いように思える。 天正年間に隠居したという。死亡年は豊臣政権後で、朝鮮出兵も始まっている。安宗幽閉後は、若い当主・家宗を補佐していたと思われる。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
益子勝宗の項で述べたように、宗安の兄弟には、信勝、安宗、勝忠らがいる。 長男の信勝は、武田信玄から偏偉を貰っていることから南呂院(宇都宮広綱の正室)に疎まれ、やむなく出奔し、下野黒羽城の大関家へ仕えた。 そこで益子家を継いだのが安宗である。 勢力を増している芳賀家に対して引け目を感じていた益子家は、勝清―勝宗の時代から、宇都宮家への独立色を深めていった。父の後を継いだ安宗は、宇都宮家に対し、完全に謀反を起こす。 天正7年(1579)重臣・加藤上総の讒言で幽閉されてしまう。系図を見ると、寛永12年(1535)まで生きていたことになる。18歳で幽閉後約60年間、一体何をやっていたのだろうか。ひたすら哀しかったに違いない。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 益子家宗 ましこ いえむね 15??〜15?? 益子家当主。益子安宗の子。西明寺城主。宮内大夫。 こちらの家宗は、益子安宗の子となっている。他家からの養子ではない。 安宗の誕生年から考えると、1580年頃の生まれになる。この時点で、かなり疑問点がある。1579年に安宗が蟄居する直前に生まれた子だろうか。 家宗が5歳児戦後の頃から笠間らと戦い、1589年に敗北したときには、なんと10歳の子供である。なんと立派で奇妙な系図だ。 そこで後見役に、祖父の勝宗説が浮上する。老獪で、脂の乗り切っている50代の勝宗が、これらを取り仕切っていたと思われる。 これではあまり話が進まないので、以下年齢は気にせず、系図に記載のとおりに解説する。 天正9年(1581)笠間入道心休(綱家)と戦い、富谷城(現・茨城県岩瀬町)を結城晴朝の援軍に預け、岩瀬城を、加藤大隈守、同大蔵少輔に守らせる。 天正11年(1583)晴朝の仲裁を無視した笠間勢を、益子、結城の軍が大いに破った。家宗(幼児)は下館の水谷援軍を得て、同年に笠間の臣・高塩伊勢守の居城・山本古屋城(現・益子町田野)を陥落させ、さらに真岡の西の台に進軍し、芳賀軍と戦った。 ヨチヨチ幼君、見事な暴れっぷりである。 天正13(1585)結城旗下・羽石盛長が笠間に通じたため、羽石の居城・田野城を攻め落とし、水谷家臣・添谷俊永が入城している。 これは、翌12年の北条家による下野侵入の際、宇都宮、佐竹、結城連合が成立しているにも関わらず、益子一族の積極的な軍事行動が展開された。宇都宮家臣・笠間家と数度に渡り領地争いをした事は、宇都宮国綱の逆鱗に触れた。 天正12年に七井勝忠(家宗の叔父)が宇都宮に叛いて戦い、毒殺。その子・忠兼(家宗の従弟)は天正14年、茂木山城守と新福寺に戦い、討ち死にしてしまう。 家宗は復讐を計り、結城晴朝に千貫の地(富田)を献じて、後詰めを頼む。 天正15年(1587)9月に茂木の左夫良峠に侵攻。益子、結城は矢口台に陣を敷くが、茂木治良率いる「茂木百騎」に敗れ、退却している。 これら一連の抗争で、堪忍袋の緒が切れた宇都宮家は、討伐軍を差し向ける。 天正17年(1589)芳賀高継、多功綱継、塩谷義綱らの軍勢に攻め寄せ、家宗とその郎党らは、これを迎え撃つ。西明寺城にて激戦になるが、ついに敗北。益子領600町の領地を没収される。「宇都宮興廃記」には、益子が北条に内通し、笠間、芳賀を侵したからとある。 さらに、こちらの系図にはおかしな記述がある。乱に敗れて後、天正17年(1589)に大坂に登り、宇都宮国綱の養子をめぐって芳賀と争い、敗れて放浪した。 これは、豊臣秀吉から国綱に養子の話があり、それを迎えるか否かとおい論争と思われる。しかし、謀反の乱に敗れた者が、なぜ大坂に登って、主家の跡目について議論できるのだろう。普通に考えれば、獄中か蟄居中のはずだ。 それに、これは通説では、北条松庵、今泉高光らの推進派、それから芳賀高武の反対派で論争があった。ここに益子家宗の名が挙がるのは疑わしい。 放浪後、浅野長政の客将となり、和歌山にて死去したという。 |