結城家当主列伝



――――――――――――――――――――――――――――

重大人物
結城政朝 ゆうき まさとも 14771545


重興結城家当主。下総結城城主。七郎。左衛門督。結城氏広の嫡男。結城家中興の祖。天文14年7月卒。享年69歳。法名:永正寺殿宗明孝顕大居士。


父・結城氏広が31歳の若さで逝去したため、わずか5歳で結城家の家督を継ぐ。当時、結城家の家政は、母の実家の小田家、一門の山川家の後見、重臣の多賀谷和泉守の補佐を受けていた。
 元服後、結城家を乗っ取りかねない勢いだった多賀谷和泉守を、義理の伯父・多賀谷家植(基泰)の力を借りて滅ぼす。

その後しばらくして、下野の宇都宮成綱の娘を妻に迎えた。成綱の娘は、他にも古河公方・足利高基に嫁いでいたので、足利高基、宇都宮忠綱、結城政朝は義理の兄弟となり、同盟関係となる。この関係から古河公方の内紛(政氏と高基の争い)の時は高基側についている。

この同盟関係は、下野周辺において相当力強かったと思う。

そして、古河公方の内紛は次第に高基側が優勢となった。小山家は政氏側で、のち高基側の勝利によって政朝の小山家に対し優位な立場になった。これが高朝を入嗣できた一因でもある。

小山家には「小四郎」という嫡男らしき者もいたが、古河公方の再度の対立(高基と晴氏の対立)で小四郎は高基、政朝は晴氏について後者が勝ったことから小四郎は廃嫡されてしまう。

宇都宮成綱の嫡男・忠綱が、下野に攻め入った岩城、佐竹勢に敗れて宇都宮近辺まで逃れ、宇都宮成綱が迎えうつときに、政朝に応援を要請した。政朝はこれに応じ、山川朝貞、水谷勝之等を率いて成綱とともに岩城、佐竹軍を破ったという。
 しかし宇都宮成綱の死後、宇都宮家との有効関係は長続きしなかた。当時下総におり、宇都宮忠綱に不満を抱いていた芳賀興綱(成綱の弟で、忠綱の叔父)を支持し、1526年、結城政朝を廃そうと攻めてきた宇都宮忠綱を、宇都宮新田猿山にて破って、興綱の宇都宮家督簒奪を助けた。
 この勝利によって室町以降、宇都宮家に侵食されていた下野の旧結城領を回復することができた。
 翌年、家督を嫡男の政勝に譲ったといわれているが、政勝との間に何か抗争があったようだ。しかし、結局家督は政勝に譲っている。
 だが、衰退していた山川系小山家の家督相続には関わったと思われる。1530年頃、次男・高朝に小山家を継がせた。

天文14年(1547)7月、69歳で死去。
 どこの「結城政朝解説ページ」でも言っているようだが、これらの事蹟が、政朝自身が記したという「結城家之記」に基づいたものが多いため、少し割り引いて見たほうが良い。だが、戦国期の地盤は政朝によって確立したと言ってよいだろう。



――――――――――――――――――――――――――――

結城政直 ゆうき まさなお 15??15??

 結城政朝の嫡男?七郎?結城家当主?結城城主?血縁は不明。


「結城系図」などでは確認されないが、政直という人物が文書で確認されている。まったく、この家は継ぐべき人物を消したがるようだ。

 まあ、この人物が政勝の初名というなら問題ないのだが、仮名を見ると、政勝は「六郎」。政朝の後を継いだ政勝が、結城当主になるべき人物が名乗る「七郎」を名乗っていないのはおかしい。

そこで浮上してくるのが、政朝の子に「政直」という人物がいて、これが七郎を名乗っていたのでは?という説。

政勝が六郎だから庶兄で、政直は嫡男で次男だったのだろうか?

「結城家之記」には、政勝の家督相続は1527年であるという。そして、政勝の文書上での活動が1539年頃という。無理やりに言えば、ここに10年以上空白の時間がある。

政直と記してある発給文書は何点かあり、享禄四年から天文五年(1531〜1536)にかけて残っている。当主権限級の文書も出している。書式は政朝、政勝と同じであるという。当主か、それに準じる相当な地位だったろう。

以上のことから、家督争いの説も考えられる。

政朝が家督を譲ると言い出したのが1527年で、政直、政勝どちらに譲ると言ったかはわからないが、それが原因で両者の間に家督争いが生じてもおかしくはない。10年ほど家督争いをして、政勝がようやく家督にこぎつけたという説を立てても別におかしくはないだろう。

 ただ確かなのは、次の当主になった結城政勝は、父・政朝に負けず劣らずの戦略家になったということだ。


――――――――――――――――――――――――――――


結城政勝 ゆうき まさかつ 15041559

 下総結城城主。結城政朝の子。六郎。官途は左衛門督。1559年8月1日没。享年56歳。法名「後乗国寺殿大雲藤長有髪僧」。政勝夫人・昌林慶久大師は1561年5月31日没。墓所はどちらも乗国寺。


1527年、家督を相続する(結城家之記)。1525年頃相続したという説や、家督争いをしたという説もある。

先代から独立性のきわめて強かった多賀谷、水谷、山川などは政朝の時代にある程度統制下に置くことに成功していた。しかし、家督を継いだばかりの政勝にこれを持続させることは困難であったから、家督をついで早々、家臣団の統制、豪族らの掌握等、大きな課題が圧し掛かった。

 また、関東のほぼ中央にして、周りは平地だらけ。どこからでも狙われるという立地条件の悪さは、政治、軍事において、常に気を許すときは無かっただろう。

1534年、多賀谷家重は独立を画策し、小田政治と結び、1537年1月、小田家と計り結城家臣の山川領に攻め入った。政勝は、古河公方・足利晴氏や小山高朝らの援を受け反撃に出る。小田政治の陣に夜襲をかけ、多賀谷、小田両軍300の首級を挙げ、下妻城に迫った。しかし、水谷治持の取り成しで多賀谷家重の甥の安芸守朝重を人質に差し出すことで和睦した。

先の「結城政直」の所で述べたが、政勝の文書上のやりとりは1539年から確認できる。この時期に家督争いがあったとすると、1534年に多賀谷家重は結城政直派につき、また1537年に多賀谷家重が結城城を目指して攻め入ったのは、家督争い合戦の一つだったか。このあと、和睦しているから、政直との争いは終結し、多賀谷家は結城に再び従属したという仮説が立つ。あくまで仮説なので、信じないでほしい。

1538年に宇都宮家臣である芳賀高経が謀反をした時、政勝は高経を援助しており、先代からの宇都宮と対立の溝を一層深めていった。

1539年、那須家の政資、高資父子が争った時には、政勝は小山高朝、白川晴綱と共に高資側につく。と同時に、政資側についた宇都宮家や佐竹家と争った。宇都宮、佐竹両家が高資の籠もる烏山城に侵攻したとき、政勝は宇都宮城に侵攻し、「生城ばかり」という状態にしてしまった。つまり、城の周りを焦土とし裸同然に、もしくは制圧してしまったという意味だ。これは結城側の資料にある表現なので、少々大げさに書いてあるのだろう。

1539年8月23日には、古河公方・足利晴氏が、大串左衛門の狼藉に悩まされた時には、家臣の水谷全芳と多賀谷光常に任せ、古河公方軍と共に、武蔵大串城を攻めさせている。

1540年3月3日、水谷治持と多賀谷政朝が下館城外で戦い内紛が起こるが、政勝はこれを調停し、事なきを得る。
 父・政朝が1547年に死去した時、宇都宮尚綱が攻め寄せるが、難なくこれを撃退。政朝は隠居していたにもかかわらず、死去した事を見て宇都宮家が攻めてきたのは、政朝が少なからず政務にかかわっていたからだろうか。

政勝は1548年に、朝廷から禁中殿舎修理の費用献上を命じられており、朝廷とも関わりかかわりがあった。

1554年頃、政勝は北条氏康に接近する。つまり、これまで親密だった古河公方と事を構える事になった。そのため、小田や佐竹に攻められるが、和議に持ち込む。そして翌年、政勝は伊勢神宮参内の後、小田原に立ち寄り、北条氏康に協力を要請することに成功し、小田家と本格的に事を構えた。

弘治2(1556)年、結城政勝は、山川氏重、水谷正村、岩上但馬守、多賀谷政広らを結城城に集結。古河公方、北条の兵も集結し、小田家の海老島城を三千騎で包囲、落とした。

これを聞いた小田氏治は出撃し、山王堂で合戦となった。結城連合軍は485の首級を挙げ、小田本城である小田城も落とし、大勝利を収めた(第一次山王堂の合戦)。

その結果「小田領中郡四十二郷、田中庄、海老島、大島、小栗、沙塚、豊田、一所も残さず結城の領地と作す」という領土拡大に成功した。

政勝には、さらに特筆すべき偉業がある。

「新法度」という法度を1556(弘治2)年に制定した。現代では「結城家新法度」といわれ、学校の教科書に分国法として載るほど有名な資料だ。前文・本文104条。追加2条から成り、計106条。さらに、次代・晴朝制定の追加1条が伝わる。

訴訟の手続きや家臣団統制、商取引の規定などが見られる。

前文に「家中統制のため」という制定目的を掲げ、末尾に家臣十五名の連署の起請文がある。

内容は家中統制、刑事、民事、訴訟、軍事、領地支配など多岐にわたる項目を盛り込んだ、戦国大名の制定法の典型である。

例えば、殴られたら殴られ損、殺されれば殺され損という。身内が殺され、仇を討てば、自身も処罰されるらしい。恨みを晴らすことはするなという意味だ。おそらく何代にも渡る敵討ちを防止したものと見る。

また、喧嘩をすれば、どちらも悪いとみなされ、処罰される(喧嘩両成敗)などなど…。

文面も、漢字仮名交じりの文体だが仮名を多く用い、この地方の方言を使用しているなど非常に貴重な資料だ。

 結城家は関東八家に数えられる名家である。だが、周りの名門大名家と違って、凋落の一途を歩んでいったわけではない。結城家は顕著に勢力拡大の道を歩んでいった。それは、中興の祖と呼ばれた政朝の跡を立派に努めた、政勝の「踏ん張り」が効いたからだろう。

 旧体制から新時代に移行する一番難しい時期を乗り越え、分国法を掲げて結城家を戦国大名化せしめた功は大いに評価すべきである。 

――――――――――――――――――――――――

結城明朝 ゆうき あきとも 15??1548?

 結城政勝の嫡男。新治郎。1548年3月24日没。法名:花天幻達禅定門(乗国寺過去帳)。内室・高林長崇禅定尼は1558年6月10日没。墓所は乗国寺(結城御代記)。

 明朝は結城家の家督をついだが、痘瘡を患い、わずか一日で死去してしまったという。そこで小山高朝の子である晴朝(政勝にとっては甥。明朝にとっては従弟にあたる)が結城家を継いだのである。

「乗国寺文書」によると、1548年に明朝は死去したらしい。これで政勝は有髪で入道したいという。また、政勝の死後、1559年に死去したという説もあり、詳細はわからない。しかしどちらにせよ、不可解な死であることは疑いない。戦国期の結城家には有能な当主が多いが、反面、謎の人物も多い。



――――――――――――――――――――――――――――

重大人物
結城晴朝 ゆうき はるとも 1534?1614

小山高朝の次男。七郎。左衛門督。従五位下中務大輔。結城政勝の養子。結城家当主。下総結城城主。1614年7月20日没。享年81歳。法名:泰陽院殿宗静孝善大居士(乗国寺過去帳)。


1550年頃、伯父である結城政勝の養子となり、1559年、養父・政勝の死によって結城家を継ぐ。

1556年の常陸海老島の戦いでは、伯父である結城政勝に従って参陣している。

1560年、孤立してしまいそうな古河公方を助けるため、関宿城を守備していた晴朝の留守を狙い、佐竹義重、宇都宮広綱、小田氏治らに結城城を攻められるが、事前に情報をきき、すぐさま城に戻って防戦態勢を整えた。猛攻に晒されたが晴朝は城をよく守り、結城城は落ちなかった。

晴朝はこの合戦を、「いにしえの結城合戦に勝る働き」だと内外に言いふらし、自画自賛したという。それだけ誇らしかったのだろう。

1561年、上杉政虎が関東に出兵してくると、晴朝は古河公方・足利義氏との誼もあり、北条方につき、これまでの味方を敵に回す。1563年に兄・小山秀綱が謙信の攻撃を受けるとこれを救援したが敗退。謙信と和睦する。その翌年謙信が帰国すると北条家の攻撃を受け、再度北条家に属するなど情勢に苦悩する。

謙信没後は、日に日に増してくる北条家に対抗するため、宇都宮、那須、佐竹、江戸家らと結び、北条氏政に対抗する。この時、下野の宇都宮家から朝勝を養子に迎えている。

1583年には秀吉と誼を通じ(佐竹文書)、1587年には多賀谷重経を通じて私戦禁止令を通告される。

小田原の役後には秀吉から10万1000石の本領安堵を受け、さらに徳川家康の次男・秀康を養子に貰い受けることに成功した。これは、家名をより強固に確実に残したいという晴朝の意図と、疎んじ続けた秀康に謀叛を起こされても、鎮圧が容易な結城6万石という少領に封じられるという家康の利害関係が一致したからである。

 先見の明というべき目の付け所と、それを成功させた外交手腕は地方領主としては賞賛すべきであろう。関東においても、他の名門家とは一線を画したことになる。結城家の名が優位にたった。小田原征伐後、下野は南半分から鹿沼地方までも治めた。晴朝はこれからの将来の約束と安堵で満ち溢れていただろう。

関ヶ原後、結城秀康は越前に60万石以上もの大禄を受けた。晴朝は越前に移る前に、土着することになった家臣らに対し、一斉に官途状を発給した。

 ここで、転封に伴う結城家の財宝伝説がある。

 結城家は太古の奥州の藤原家を討伐し、その功で源頼朝から財宝を与えられたという。これに秀吉や家康が目をつけたという伝説だ。

晴朝の家臣が書き残したという文書によると、財宝は重さ約8キロの金の延べ棒がおよそ2万5000本、約7sのものが2万5000本、それに30sの砂金が入った樽が108個。黄金の総重量は約380tにもなるという。単純計算で5000億円といわれている。

…はっきり言って、そんなとんでもない量があるわけない。

しかし、秀吉、家康をはじめ、吉宗の時代に大岡越前も掘っている。また、結城市にある金光寺の山門には、不可解な3首の和歌や絵が彫られ、発掘のヒントといわれている。隠した場所は栃木県南河内町や結城城跡など多数。これが越前への転封の理由だという仮説があるが、どうしても推測の域を出ない。

 財宝情報は大方このようなもの。ネットでしか確認しておらず、資料も見ていないので、詳細は控える。ネットで検索すれば紹介ページはすぐ見つかるだろう。詳細はそちらで。

さて、越前へ転奉後、秀康は松平姓を名乗る。結城の名が消えてしまっては本末転倒だ。今までの苦労が水の泡と消えた。晴朝は隠居先の越前でさぞ無念だったことだろう。次代を告いだ忠直も松平姓を名乗ったので、五男の直基が結城の家名を継ぐが、その後松平姓に復帰したため、名門・結城家の名は歴史の表舞台から姿を消した

晴朝は越前で、結城姓の復興の願文を書く日々だったが、結局果たせず没する。

結城家の名を残す最高の王道だったはずが、皮肉としか言いようのない、思いもよらぬ形で家名が途絶えてしまった。晴朝の保身道は、生涯父から疎まれ続けた幕府御曹司の、本姓へのあこがれと執着心によって潰える。

 一般にいわれている享年は81歳だが、「乗国寺過去帳」には83歳とある。



――――――――――――――――――――――――――――


結城家へ

下野周辺の領主へ

ホームへ