和気家




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 垂仁天皇を祖とする、和気清麻呂の末裔。清麻呂を先祖としているが、下野の和気家は、「わき」と読む。
 下野国に至った時期や経緯は不明。下野国塩谷郡上寺島に住し、文禄年間に宇都宮家より山崎姓を賜る。宇都宮家に仕え、その改易後も同地支配を任されている。



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・戦国期の主な当主。

和気綱重
 和気肥前守業綱の長子。源五郎。大学亮。筑前守。
 天文23年(1554年)正月2日。宇都宮常陸介義秀の命により、名を秀清と改めた。永禄11年(1568年)1028日の書状によると、宇都宮広綱より戦功を賞され、山崎姓と大学助の官途を賜り、山崎大学助と名乗る。和気系図には、大学亮とある。
 天正13年(1585年)42日には筑前守の受領を賜る。また同年には、那須家との合戦において戦功を挙げ、宇都宮国綱より感状を受けたまわる。
 「那須記」に、「寺島城主和氣筑前守」とあるのは、山崎大学亮(綱重)の事である。
 慶長3年(1598年)の岡本言右衛門義房からの書状で、自領の山川など見渡す限りの地(おそらく寺島領)の、以前と変わらぬ領有権を認められている。これは宇都宮家改易後のものであり、この事から同地に留まったようである。


和気重秀
 和気綱則の子。彦一郎。嘉兵衛。妻は宇都宮家中・大嶋采女の娘。後室は石末村治郎左衛門の娘。
 慶長14年(1609年)に、山崎姓から、本姓である和気姓に戻り、嘉兵衛と名乗る。他に和気加兵衛とあるのは同一人物である。


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・和気系図



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