上沢家 宇都宮家臣帳や軍記物に見られる上沢姓は、現・塩谷町上沢発祥、またはその地区の領主と思われる。上沢の地は、鬼怒川のすぐ北に位置し、両側を山に囲まれた地域である。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 戦国時代に見える上沢姓。 ・上沢城主 上沢備中守。 「宇都宮記」宇都宮国綱田下山ニ築城事の項で、宇都宮家が天正4年(1576年)多気城を築城し、鹿沼、壬生を攻める際に出陣している。 ・和沢城主 和沢備中守。 「那須記」巻十の「鹿目城落城言付君嶋備中守城入言」に、天正4年(1576年)鹿沼城を攻める宇都宮軍に、和沢備中守がいる。他の城主も「宇都宮記」とほぼ同様の面々で、順番的に見ても「宇都宮記」の上沢備中守の所に、「那須記」では和沢備中守とあるので、上沢と和沢は同一と見ることができる。現在の塩谷町上沢に上沢城跡は確認されないが、上沢に居住していた館があったのだろう。現在の寺や学校(もしくは廃寺、廃校、古墳)の所に居館があった可能性がある。 ・和沢備後守。 「皆川正中録」河原田合戦之事の項で、大永3年(1526年)宇都宮忠綱が鹿沼を攻める際に、加園城主・渡辺右衛門尉を降参させる使者として加園城に赴き、説得に成功した。おそらく和沢備中守の誤記と思われる。「皆川正中録」は所詮は物語なので、誤記や架空の逸話などが盛り込まれている前提で読まなければならない。 ・上沢理衛門 ・上沢右京助 ・上沢弥五八郎 ・上沢九郎衛門 「宇都宮家臣書上帳」に4名見える。題目に下野国宇都宮藤原忠綱家中と注記があるが、家臣の名前からして戦国時代の後半のものと思われる。塩谷町史では、記されたのは江戸時代の中期であろうとしている。 ・上沢弥五八 ・上沢九郎右エ門 ・上沢理右エ門 「宇都宮弥三郎旧領高帳」に3名見える。上記の名前と酷似しており、同一と思われる人物もいる。これは江戸時代初期の史料。 ・大麻入道 ・大麻雅楽助 ・大磨雅楽助 ・大麻九郎衛門 ・大麻信濃守 茨城県に所在の資料で、「城館跡 館持並土著(着)之士 塩谷郡」の項に領主としての名が見える。それによれば、上沢の地名に変遷が見られる。 大麻 応永14(1407年)丁亥 大麻入道 宝徳元(1449年)己巳 同名 又上麻 天文9(1540年)庚子 若色右京亮 今上沢 天正5(1577年)丁丑 同名 天正6(1578年)戌寅 同名 文禄ノ頃(1592〜96年) 大麻雅楽助 1400年代に大麻の名があるが、戦国時代に入り、芳賀家臣の若色右京亮が天正期まで支配している。文禄頃になると大麻姓が復帰している。塩谷町史では、戦国初期に那須家との戦で上沢の支配者が相次いで戦死などしたため、若色が代理管理者となり、遺児の雅楽助が成長してから返還したのではないかとの推測を載せる。業績の史料が無いので、これ以上の解明は無理である。 大麻は「たいま」と呼んでいた可能性が高い。ルーツは、神官が祈祷の時にもつ当麻であり、神職系の流れの可能性がある。 また、「河内郡 河原谷 大磨雅楽助、平野大膳亮」との名がある。河原谷は不明だが、宇都宮市東部・河原の辺りかと思われる。大磨が上沢家の一族かどうかはわからない。おそらく読みは「たいま」であろう。蛇足として掲載するのみに留める。 他に、「新里 高橋越後守 大麻九郎衛門」、「東高橋 大麻信濃守」と、大麻姓が各地に散らばっている。新里は宇都宮市新里、東高橋は芳賀町。これによると、戦国時代の大麻(上沢)姓は、上沢の地から離れて各地に領地代え、転戦していたと思われる。 ・和沢藤兵衛知忠 「下野国誌」の宇都宮国綱の項に名がある。戦国時代後期の武将。それによれば、和沢知忠は天正13年(1585年)の薄葉ヶ原の合戦に塩谷義綱旗下として出陣したようだ。 また、「那須記」の塩谷郎党とその他与力の項には、「和沢藤兵衛門尉知忠」とあり、同一人物と思われる。こちらには、「後ニ出雲守号ス」と注記がある。 本来は塩谷家臣ではなく、宇都宮家の直臣で塩谷家へ付けられた家臣であろう。小禄の寄騎と考えたほうが良い。 ・上沢利右衛門 「下野国誌」の宇都宮国綱の項に名がある。戦国時代後期の武将。それによれば、文禄の役(1592年)3月に参陣している。宇都宮本隊に属しており、宇都宮国綱の直臣であると思われる。宇都宮本隊およそ3千騎のうちの一隊を率いていた。 |