下野勢力絵図

享徳20年(1471年)


古河公方、関東管領ト相争イ、享徳大乱トナル
此レ即チ、関東乱世ノ幕開ケナリ


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主な勢力解説。


小山家
 当主は小山持政。享徳の乱が勃発してから約15年、古河公方・足利成氏の第一の勢力として関東管領上杉家(幕府側)に一歩も譲らず徹底抗戦してきた。永徳2年(1382年)小山義政の乱で失った領地を一部回復し、下野のライバルである宇都宮家をも傘下に置き、持政の活躍で小山家は再び隆盛した。しかし、長年の幕府からの攻撃は激しく、多くの兵も傷つき満身創痍の状態。数度の寝返り工作をも突っぱねてきた持政であったが、ついに幕府側に寝返る覚悟を決めた。


宇都宮家
 当主は宇都宮正綱。足利成氏方。室町期の宇都宮家衰退ぶりは激しく、さらに古河公方勢力の筆頭である小山持政の勢力が強大になり、その下風に立たされているほどである。都賀郡の中心部や塩谷郡塩原辺りは、小山一族に割譲させられ、とても苦しい状況にある。南北朝時代までの精強な宇都宮家の面影は見られない。


上那須家
 当主は那須明資。居城は福原城。関東管領・上杉方(幕府方)。祖父の那須資之(上那須)と、その弟・沢村資重(下那須)の対立が起こり、応永23年(1416年)の上杉禅秀の乱で那須家は完全に分裂した。時代は下り、明資の代になっても争いは続き、享徳の乱でもそれぞれの勢力に別れた。また、白河直朝、政朝父子の勢力は強大で、こちらへの対策も抜かり無く行わねばならない。


下那須家
 当主は那須資実。居城は烏山城。足利成氏方。祖父、父の代でも上那須と争ったが、決着はつかずに資実の代に至る。関東では大乱が相次ぎ、そのつど上那須と下那須は相反する勢力に付き争っている。上那須の明資は上杉側に付いたので、両家はさらに抗争を増した。


佐野家
 当主は佐野季綱。足利成氏方。享徳の乱で佐野荘は所領が減少している。なにせ、両勢力の真っ只中である。古河公方の主力は堀越公方攻撃のため、古河はガラ空きである。4月に上野国から、関東管領側の主力である長尾景信軍が攻め寄せた。そのような大軍を前に今の古河が耐え切れるわけがない。代々公方に仕えてきた佐野家であるが、降伏の準備はある。


長尾家
 当主は長尾景人。関東管領上杉家(幕府側)から足利荘を任されている。対立する古河公方と対峙する最前線。古河公方・足利成氏は、この年3月に堀越公方の足利政知(幕府側)を攻めたが功なく退却。これに成氏側の北関東勢の動揺は予想より大きく、上杉家は好機と思ったのか、家宰・長尾景信を総大将に足利成氏の古河城を攻めるため4月に出陣。景人もこれに従軍する。古河公方を滅ぼすことができるだろうか。



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