下野戦国時代のはじまり

享徳の乱




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 当サイト「下野戦国争乱記」では下野の戦国時代のはじまりを、享徳3年(1455年)〜文明14年(1483年)に起こった「享徳の乱」の後とする。

 それまでに関東での乱は続いていたが、鎌倉公方(古河公方)や関東管領・上杉家どちらかに付くという意識が強いため、まだ室町期権威の効力があったと考えてよい。しかし、享徳の乱では関東各地の大名の力が大いに見えた乱であり、これ以降の各勢力は、自領の保持、拡大が目立つ。

 こののち長享元年(1487年)から始まる「長享の乱」で両上杉家が対立するが、これは南関東の戦国時代の幕開けとされるものであり、北関東、とくに下野ではこれとは違う。
 永正3年(1506年)から古河公方・足利政氏と、その嫡子・足利高氏(高基)の争い(永正の乱)が起こるが、その頃にはすでに下野大名の自立が見られる。各勢力は古河公方を崇めてはいるが、これを利用して己が領地を増やしていった。1500年代初頭、すでに公方と下野諸大名の実力は逆転していたといってよい。
 ゆえに、下野における戦国乱世の幕開けはその前。各大名が自立しはじめた享徳の乱の後とした。
 これは当サイト独自の見解である。


 日本が、いつから戦国乱世に突入したかを断言する事は難しい。戦国時代という区分けは明確には無く、室町時代の後期から段々と戦国乱世になっていったという事である。一般には応仁の乱以降、戦国時代に突入したといわれるが、下野において応仁の乱はさほど影響も無いのに、それを境に戦国乱世に入ったとするのはおかしい。
 関東では、それよりも深刻で長期的な大乱が続けて起こっていた。関東の室町幕府による支配は、それにより破壊され、各地の大名が発起する原因となった。
 それは1400年代前半から起こった上杉禅秀の乱〜永享の乱〜結城合戦〜享徳の乱。これらは関東に起こった足かけ約70年にも及ぶ乱の連続で、これらの混沌ぶりは応仁の乱の比ではない。
 ゆえに、享徳の乱の終結が関東戦国乱世の幕開けであり、下野の諸勢力もその過程で戦国大名に変化していった。その原因は上杉禅秀の乱より始まる。
 以下、享徳の乱までの過程を簡単に説明する。


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・「上杉禅秀の乱」応永23年(1416年)〜応永24年(1417年)

 犬懸上杉家の上杉氏憲(禅秀)は、鎌倉公方の足利持氏と対立して関東管領を辞任した。足利持氏が山内上杉家の上杉憲基を関東管領に付けると、上杉禅秀は、持氏の弟や、関東の諸勢力と共に持氏に反乱する。
 上杉方は、足利持氏を鎌倉から追い出すが、駿河に逃げた持氏は幕府や今川家の援助で上杉氏憲らを自害させた。これにより犬懸上杉家は滅亡。

 しかし、室町幕府内には思わぬ波紋が生じた。持氏を支援したはずの幕府内に、上杉禅秀に加担し、将軍・足利義持の打倒計画していた者がおり、これらは処罰された。
 1423年から鎌倉公方・足利持氏は、一揆を起こした国人や、幕府寄りの京都扶持衆ら(小栗家や宇都宮家)を粛清し、幕府との対立を深める。
 また、将軍が亡くなり空位となると、1428年に持氏は将軍の座を望んだが、足利義教が室町6代将軍となった。これに反抗し、改元にも従わず、義教を軽んじ、幕府との対立を深めていく。
 この間、関東管領の上杉憲実は、幕府と鎌倉府の融和策を講じていたが、持氏とも対立するようになり、上杉憲実は本領の上野に去った。




・「永享の乱」永享9年(1437年)〜永享11年(1439年)

 1438年、足利持氏の反抗に対し、幕府の鎌倉府討伐軍が攻め込み、関東管領・上杉憲実もこれに従った。足利持氏は敗北、出家する。しかし、こののち上杉憲実は、持氏らの助命などを要請している。将軍・足利義教はこれを許さず上杉憲実に攻めさせ、足利持氏は自害して果てた。上杉憲実はこれを憂い、出家してしまう。




・「結城合戦」永享12年(1440年)〜嘉吉元年(1441年)

 足利持氏の遺児・安王丸、春王丸を奉じ、結城氏朝、持朝父子が結城城で挙兵。将軍・足利義教は、前関東管領・上杉憲実を還俗させて討伐させる。頑強な抵抗で簡単には落城せず、兵糧攻めにて半年後に落城させた。
 幕府は結城合戦の戦勝祝いとして宴を開くが、この時に将軍・足利義教は赤松満祐に暗殺されてしまう。
 こののちに上杉憲実に関東管領就任の要請が出るが、憲実は再び出家し、子たちすべてを出家させ、還俗する事を禁じた。




・「享徳の乱」享徳3年(1455年)〜文明14年(1483年)

 1447年、足利成氏が鎌倉公方に就任する。足利成氏は、足利持氏の遺児であり、結城合戦で殺された安王丸、春王丸の弟である。
 永享の乱ののち鎌倉府は廃止となっており、将軍足利義教の死後、関東諸侯らの度重なる鎌倉府再興の要請に応じて、1449年に再興された。
 再興されても、旧持氏派と上杉派が対立しており、乱に繋がる要素を多分に含んでいたと見てよい。
 関東管領には、上杉憲実の長子・憲忠が還俗して就任してしまった。憲実は不忠の子として絶縁した。足利成氏としては、父や兄弟を殺された恨みを上杉憲実に抱いているのは当然であり、その子である憲忠も憎んでいた。
 そして1454年に上杉憲忠は暗殺され、享徳の乱が始まる。
 鎌倉府内部の抗争が原因とする説もある。1455年に足利成氏は反乱する勢力に攻撃をかけた。
 幕府は、上杉憲忠のあとに房顕を入れ、これを支援する方針を決めた。1455年に成氏は朝敵にされ、小山、結城、宇都宮家などが付近にいる古河に御所を移した。
 成氏は幕府に叛意が無いことを申し入れたが聞き入れられず、改元に従わずに「享徳」の年号を引き続き使用した。

 1458年に幕府は足利政知を鎌倉公方に送り込むが、成氏勢の勢力が強く、関東に入れずに伊豆に留まった(堀越公方)。こののち、関東は主に東西に二分して別れて争った。足利成氏側は幕府軍を相手によく戦ったが、長年の戦による疲弊ははなはだしく、1471年には小山、小田などの有力家が幕府に寝返り、上杉家の長尾景信の攻撃を受けると古河から離れた。
 しかし、結城家などの支援で足利成氏は再び古河に戻り、小山家なども成氏に帰順した。その後、両勢力はなおも対立。

 1476年に山内上杉家で長尾景春による内紛が起こる。翌年、武蔵で暴れていた長尾景春は、扇谷上杉家の太田道灌に鎮圧された。この頃、両上杉家は対立し、家中の内紛も大きな問題となっていた。
 1478年、足利成氏と両上杉家は和睦する。さらに、幕府とも1483年に和睦が成立し、享徳の乱は収束する(都鄙合体)。


 これまで見てきた鎌倉公方(古河公方)や関東管領上杉家らの権力争い、権力崩壊などに翻弄されながらも、下野の領主たちは自家の勇躍、保持を目指していた。それは時の権力を絶対崇拝するのではない。崇拝はしていたが、そこに独立して自力による勢力拡大する要素が絡み始めた。
 自立を志ず勢力が目立ち始めたのだ。
 ここから下野の諸勢力は戦国大名化してゆくのである。



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