梶原弾正 「宇都宮氏家臣書上帳」に名がある。家臣帳の順番からして塩谷家臣と見られる。「宇都宮弥三郎舊両高帳」にも名がある。 「下野国誌」所収の宇都宮系図では塩谷朝業の項に、 「系譜に云、梶原一家滅亡ノ後源太景季ノ男駒菊丸十一歳而来リ当家為リ 家臣ト号梶原平大夫景氏ト」とある。 この文を見る限り、鎌倉幕府御家人・梶原家の末裔である。つまり、梶原景時、景季一族が失脚、滅亡してから梶原景季の子・駒菊丸が11歳の時に塩谷家に来て、梶原景氏と名乗って家臣となったのだ。 正治元年(1199年)、梶原一族は鎌倉御家人66人の連署による弾劾にあい失脚。正治2年(1200年)に上洛途中に駿河にて一族のほとんどが討死というから、その後に下野の塩谷朝業の元に流れついたのだろう。 系図では梶原景季の子に景氏は見当たらないが、当時の有力御家人であり、数々の名族を抱え込んでいる宇都宮家に来ることは無理なことではない。 宇都宮関連の記録を見てみると、君島家の系図にも見える。君島光胤の母は、梶原弾正娘とある。この梶原弾正は1400年より少し前の人物である。その頃の君島家は、塩谷家との連携が見え隠れする。 そして、戦国期の家臣帳にも梶原弾正の名があるので、「弾正」は世襲で名乗ったものと思われる。1200年頃に下野に亡命し、少なくとも宇都宮家滅亡時(1597年頃)まで梶原家は存続していたであろう。相当な長臣である。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
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