佐野家当主列伝



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重大人物

佐野盛綱 さの もりつな 14671527

23代目佐野家当主。唐沢山城主。佐野季綱の弟か。永正8年(1527)2月5日卒。享年61歳。法名:本光寺殿明鑑昌公大居士(本光寺開創記)。


 「田原族譜」に1528年没とあるが、他の史料もあまり信用できないた、比較的良質な史料「本光寺開創記」を元に解析する。

盛綱の頃、佐野家は古河公方に従っていた。これに対し、管領上杉家、長尾家の勢いが強く、さらに小田原の北条家の勢いが南関東に増してきた。

佐野記には「天下大いに乱れ、関東も兵革の地となりしかば、先祖より往来れる辛沢(からさわ)の城を堅固に修復し、仁恵を持って土民をなづけ、勢いしばらく強大なり」と記している。

盛綱は唐沢山の要害に手を加え、非常の時に籠城して敵を迎撃しようとした。関東の三名城のひとつに数えられたこの城は、この時に整備され始めたものだろう。

文亀2年(1502)佐野庄青柳山麓に大明山本光寺を建立。

永正8年12月13日には、越前の永平寺から僧宗賀を招いて開山とし、先代・季綱もこの寺に葬った。

 また、秀綱以下優れた6人の子らを持ち、それぞれ領内に配置し、合わせて領民や家臣団の統制を図り、戦国時代に必要な中央集権的な一円支配の体制造りに着手していたという。

下野新聞社出版の『続・下野の武将たち』によると、

「小見に是綱、山上に弘綱、船越に増綱、戸室に親綱、山越に為綱、田沼に重綱を配置。このように、一族や家臣などを予想される敵の侵入口に出城を設けさせて住まわせた。

また必要に応じて城下に集住させる下屋敷制を始めたり、商人や職人を駐在させたり、四日市場を開いたりして城下町の造成を企てたのも盛綱の時代からと思われる。」ということだ。

領内の要所に一門を配置し、領国支配の強化とともに敵の侵入を防ごうとすることは、当時戦乱になっていた関東では必要不可欠ではあったが、それがあって戦国時代の到来に対して自然に対応できたのではないか。

 その意味では、古河公方、上杉管領家の争いの最前線にあった佐野家にとっては幸運だったかもしれない。

足利の鑁阿寺に8通、安楽寺の文書は1点、合計9点があるが、いずれも年号が欠落している。

残存する古文書には、佐野伯耆守または佐野前伯耆守となっていて、系図に示されている越前守という名は少ない。

佐野家は康正元年(1445)古河公方・足利成氏に従って、天明宿や只木山付近で上杉勢と戦っており、その後6通に及ぶ成氏からの書状には、佐野伯耆守が成氏の使者として、太田の武将岩松家のところにしばしば往復している。

彼が頼みにしていた岩松家が上杉方の圧力で成氏から離れる寛正四年(1463)頃の文書には、佐野伯耆守盛綱と署名したものが3通ある。その後成氏の勢力は減衰し、佐野家は苦境に陥り佐野地方は戦火に焼かれてしまった。

しかし、この4通の書状は盛綱よりも前の時代で年代的に合わないので、ここで紹介している盛綱とは別人と思われる。また、佐野伯耆守と佐野前伯耆守も、それぞれ別人と思われる。おそらくは先代以前の人物だろう。

佐野記には、盛綱のことを賞して「八境静穏で、四民がその道を楽しんだ」としたのは過分があるかもしれないが、盛綱をはじめ佐野家当主が、成氏以降の古河公方にも尽くしていたのはなんとも義理堅い。盛綱のこの精神は以後、代々受け継がれ、古河公方の信頼を一身に集める。

旧時代の権力者に尽くそうという精神は古臭いが、盛綱が世の乱れ(関東における戦国期の到来)に対しての領内における数々の政策は周りに先駆けており、戦国大名とも呼べる功績である。佐野家中興の祖と呼ぶべき人物ではないだろうか。

 


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佐野秀綱 さの ひでつな 1490?〜1546

佐野家当主。唐沢山城主。佐野盛綱の嫡男?。越前守。1546?年8月13日卒。享年は57歳説と75歳説がある。法名:松根院殿一器徳玄。


 「系図纂要」では季綱とし、「小太郎、越前守、左近将監、五十七死」とあるので1490年生まれとなる。
享年75歳説をとると、盛綱の弟ともなる。こちらのほうが妥当か。
 本光寺で先代・盛綱の葬儀を盛大に行ったという。

秀綱の文書2点のうち1点は、天文3年(1534年)の寄進状で城下にあった観音寺に35貫270文を寄進している。

先代・盛綱の本光寺創建と併せて、佐野家の安定した経済状態を示すものと言えよう。

 もう1点は、家臣の山崎家に伝えられたもので、年号の書いていない8月1日付けの掟書である。全12条からなり、誰に宛てたかは未詳。戦国家訓の一種としてとても重要な史料だ。

 以下は、秀綱の残した「佐野秀綱定書」の簡単な訳(『続・下野の武将たち』より抜粋)。

一、母の言うことをよく聞け
一、一生懸命に奉公せよ
一、ムダな寄り合いをするな
一、衣服はぜいたくにするな
一、処罰は厳格にしろ
一、ムダな浪費をするな
一、馬をこやして、自分はやせよ
一、うそを言うな
一、持ち物は質素にせよ
一、よその者としばしば寄り合うな
一、不平不満を言うな

そして、最後の追記に「よっても申しつかわし候、巨細は山上美濃守(道牛)に申しふくめ候」とあるので、一族子孫や家臣らに言い含めたものと想像される。

 秀綱には嫡子・泰綱のほか、柴宮行綱、久我利綱、中江川高綱などがあった。次代・泰綱が継いだ時代も安定した時期を迎える。

 




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佐野泰綱 さの やすつな 1482?1560


 佐野秀綱の嫡男?。25代目佐野家当主。唐沢山城主。小太郎。修理亮。1560年正月29日卒。享年79歳。東根院殿渓唯禅。本光寺に葬(本光寺開創記)。享年は73歳という説も。

「系図纂要」によると42歳没となっているが、これは誤りと思われ、1482年〜1560年没の享年79歳であろう。しかし、なんと先代と思われる秀綱よりも先に生まれているのである。

佐野秀綱の養子に入り、佐野家を継いだか。親子か兄弟関係か、はたまた親戚関係で養子になった可能性もある。

このあたりの系図にある年齢は滅茶苦茶で、ここ何代かの当主の続柄や生まれた年号は確定ができないため、想像の域を出ないのである。

江戸幕府が「寛政重諸諸家譜」政策のため系図を提出させた際は、佐野家の当主は非常に困ったろう。重要な系図は紛失してしまって、残っていないという。結果、現在確認できるだけでも16点という膨大な量と、年齢、続柄などバラバラなのである。名族にあるまじき事である。

今後の研究でどれだけ明らかになるかは、私はあまり期待できない。

ただ一点のみ残る発給文書は「集古文書」に伝えられる。

 文書内に、扇谷上杉朝興や長尾景人らの名が見えることから、両名存命の大永年間(1521年〜1528年)頃のものであろう。

 これは1524年、北条氏綱に江戸を奪われ川越城に遁走した扇谷上杉朝興の催促に応じて、同年5月6日に佐野から渡良瀬川北岸の嶋田(現・足利市)に出陣し、その状況を新田金山城主・横瀬六郎に宛てたものである。

 以上のことから、佐野家や横瀬家も扇谷上杉家に組していた。

 「佐野記」によると「家を継いで世を治むること五十余年、国中無事にして四民業を楽しみ」とあり、その領内安定ぶりが伺われる。





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佐野豊綱 さの とよつな 1520?1559

 佐野家当主。唐沢山城主。佐野泰綱の嫡男。隼人佐。9月25日卒。享年40歳。法名:興聖寺大通長賢。享年56歳という説も。


佐野泰綱のあとを継ぐ。父の泰綱は1560年まで生きていたが、おそらく1550年頃には隠居して豊綱に家督を譲っていただろう。

「系図纂要」には享年66歳とあるが、誤りか。

 豊綱の時代も古河公方にしたがっていたと思われるが、豊綱発給の文書は一つも残されていない。謎の人物である。

「系図纂要」によると、豊綱の長男に昌綱、次男に政綱(了伯)、三男に亀王丸(幽願寺で故あって自害)、四男に又次郎(由良信濃守の養子)、五男に毘沙門丸(のちの虎松で上杉謙信の養子)らがあった。

また没年が1559年となっているが、宇都宮側の史料に興味深いものがある。

 1558年にあった多功ヶ原合戦である。この時、越後の長尾景虎軍の先鋒として、佐野小太郎が出陣したのだが、宇都宮側の猛将・多功長朝に討ち取られている。

多功長朝に討ち取られた「佐野小太郎」はこの豊綱の可能性がある。突然の当主の討ち死にほど混乱するものは無い。

 当主討死という屈辱的な事実を隠し、事態を収拾するため、一年遅らせて一五五九年に死亡した事にしたか。また、佐野家重臣の赤見伊賀守父子が新年の年賀に来ず、佐野泰綱に攻められ常陸に退去したことも、佐野家中の混乱ぶりを示している可能性がある。

 もしくは討ち死にしたのは豊綱の子だとも受け取れる。すると初陣だったか。そうすると文献に「佐野小太郎」という名が見えるのもうなずける。

そして昌綱を泰綱の次男で豊綱の弟と仮定すると、直系の後継ぎがいなくなったから、兄弟間で家督を継承した事になる。

…と、また推測の嵐である。

 当時の宇都宮家は復興したばかりで、古河公方の支援も受けていたはずである。佐野家も古河公方に協力していたはずだから、なぜ宇都宮を攻めたか疑問である。

一五五四年、古河公方・足利晴氏は北条家に反抗したため攻められ、小田原へ幽閉されてしまう。そして古河公方の座についたのが子の足利義氏である。当時、古河公方内で勢力を持っていた簗田晴助(関宿城主)の力を弱めようと、足利義氏を関宿城へ移した。そして簗田晴助を古河城に移したのだ。

古河公方をやりたい放題に使いまわす北条家に反抗するべく、豊綱は北条家および古河公方に協力する近隣諸侯を攻めたと思われる。

それとも単なる領地争いかもしれないが…。

しかし理由はどちらにしろ、結果は大将討死という最悪の事態になってしまう。

1560年直前から、上杉政虎(長尾景虎)は足利藤氏(足利晴氏の子)を押しており、佐野家もこちらに協力していたか。対して足利義氏を押していたのは北条氏康であるから、佐野家×宇都宮家の対立関係は1558年の時点では一応成立する。

しかしこの対立説を上げるには、少々無理がある。話は戻るが、1558年の多功ヶ原合戦に関する宇都宮方の感状で、「葦名盛氏の誘いで宇都宮領に攻め入った上杉謙信の越後軍と戦って撃退した」とあるのだ。これは非常に怪しい。謙信は、まだ長尾景虎と名乗っていたからだ。ゆえにこの感状は、やはり後世の作り物である可能性が高い。

さらにこの時代、越後の長尾景虎が関わらなくても、古河公方をめぐる近隣諸侯の間でなんらかの争いがあった可能性は高い。

自分なりの仮説をたてるとしたら、

「佐野豊綱は、古河公方の衰退の懸念から、1558年当時、古河公方と北条氏康の協力もあって復興したての宇都宮家を攻め、宇都宮勢に撃退された」という説をたてる。

この時後ろ盾に古河公方、北条家、越後長尾家のいずれかがあったかはここではわからないので黒幕説は立てない事にする。

1560年に上杉政虎が関東に攻めてきたときは、宇都宮家はすでに上杉政虎に協力しており、宇都宮家は足利藤氏を押している事になる。佐野家は当主が変わり昌綱になっているが、逆に上杉家に反抗している。

この二年間で立場が全く逆となった。先代・豊綱討死(あくまで説)が、新・関東管領への反抗心になったのか、次代・昌綱は、戦国毘沙門天の化身に真っ向勝負を挑む事になる。



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佐野昌綱 さの まさつな 1530?〜1574

 27代佐野家当主。唐沢山城主。泰綱の次男か。小太郎。法名:天山道一居士。年号不詳4月8日卒。享年45歳。

佐野記の系図によると10歳しか年が違わず、豊綱の子にしてはさすがに無理があると思い、泰綱の次男で、豊綱の弟とした。

父(兄か)豊綱の死後、1559年に佐野家を継ぐ。何度も長尾上杉、北条、武田家らと結んだり手切れして離合集散したが、常に古河公方足利義氏を奉じ、永禄年間には、北条家と結んで反上杉方として謙信の関東出兵に抵抗。

永禄〜元亀年間のあいだ13年間で10回の謙信の猛攻を受けたが、堅城・唐沢山城と北条の援助もあってこれを凌ぎきった。のち上杉家とは和睦すると、今度は北条家に攻められるが、これも何度も撃退。

このときは、上杉謙信の援を請うて撃退に成功している。

こののち、周辺諸侯の誘いで上杉家に従い、今度は北条家に攻められる。唐沢山城を囲む2万、3万の北条軍の中に謙信が単騎突入し、見事城内に入り、叱咤激励して北条軍を撃退する「関八州古戦録」に見られるとんでもない捏造伝説も造った。

この唐沢山城。とてつもなく堅固な山城で、実際行ってみるとお分かりになると思うが、誰もが一目見て落ちないと思うだろう。このページでも堅固堅固と何回も書いているが、いや本当にすごいのである。上ってみるとさらにすごいのである。この項では言い表せない。

これは、唐沢山城訪問のページでどうぞ。

昌綱は戦国武将の中でも、とくに戦に明け暮れた当主時代だった。戦で負けて落城、降伏したものはない。戦後、やはり大国間の情勢にはかなわず和睦して明け渡したり、使者などを遣わして改めて降伏しただけである。

それまでは北条、上杉どちらの勢力にも屈していない。由良、足利長尾、渋川、佐野家は一応の独立状態を保ったのである。

佐野記には、佐野昌綱について次の記述がある。

「幼年の頃より材智人に越え、勇力絶倫なり。成長の後、軍略に秀で、殊に鎗術に妙を得、仁恵ありて民をあわれみ、近隣の諸将と和し、管領家(上杉謙信)を尊び、無二の志をあらはされけり」

前項、盛綱の箇所のように、自家の当主を評して書いている可能性があるが、あまりうだつのあがらない当主を評して書くわけがない。やはり、得筆するべきものがあったから昌綱を評して「佐野記」に記したのであろう。

 昌綱が、北条家や上杉家の再三にわたる猛攻撃にも屈さず守り抜いたのは、堅固な唐沢山城によるところだけでなく、武将としての気質があったからだろう。

さらに、昌綱発給の書状からも、また上杉謙信への対応の苦慮ぶりからも、昌綱は、軍事面でも民政面でも相当な改革を行っていたと推測される。

 現存する九点のうちから何点か紹介すると、

・1560年8月2日、昌綱は家臣・小野寺景綱に命じて寺岡の百姓らの年貢諸公事の上納確保を命じている。景綱は寺岡の代官で、佐野家の直轄領である。

・その年11月には福地右衛門三郎宛てに「藤原昌綱」という印判状を発給し、福地家の所領三町四反余り、15貫80文を宛がっている。印判状の使用や貫高表示など戦国大名としての民政確立を示している。

・永禄七年(1564)4月、下都賀郡寺尾、千手、梅沢村の在地領主の小曾戸長門守に上都賀郡の粕尾郷(現・粟野町の一部)で5千疋(50貫)を安堵した。この時、松崎、布施谷、遠木などの在所(現・粟野町内)が黒川将監、下妻主税助、鈴木蔵人、小杉将監、湯谷彦左衛門尉、および野尻新衛門ら20人に貫高表示で与えられている。

 などである。これらによって、昌綱の施策の一部が窺い知れる。なお、上杉輝虎文書では、昌綱のことを一部「政綱」と表記している。

 なお、昌綱は肖像画が残っており、作者は大徳寺聚光院の襖絵などで有名な狩野元信の三男・松栄直信。かの狩野永徳の父で、肖像画においても益田元祥や吉田兼右などの作品がある。
 さらに賛は、遣明使で臨済僧の策彦周良。五山の天竜寺妙智院第三世となった名僧である。
 画の昌綱は、ぎょろっと剥いた目で斜めを見据え、顔は少し丸顔。赤茶色の肩衣を着て、虎の皮に座り、派手な扇子を持っている。
 下野の田舎大名としては少々派手だ。よくも有名人に画賛を頼めたなと感心してしまう。

また、本光寺にある墓には、天正7年3月13日と刻まれている。系図には天正2年4月8日没とあるのに、上杉謙信の一周忌の日が、佐野昌綱の墓に刻まれているかは謎である。

 自分を苦しめた上杉謙信より1年長く生きたというのを後世に残したかったという負けん気だったのか?

 ダメ当主なら、大国の大軍を前に臆して、すぐに屈してしまったはずだ。しかし昌綱は守り抜いた。武勇と度胸に優れなければ、やりえなかった大業である。もし、もっと早い時期に唐沢山城が上杉家ならまだしも、北条家の手にわたっていたら、その後ろに控えていた下野諸侯は北条家に飲み込まれていた可能性もある。

永禄〜元亀年間に勢いづいてきた北条家の下野侵攻を遅らせ、下野支配を頓挫させた名将・佐野昌綱を、ささやかに評したい。




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佐野宗綱 さの むねつな 1560?1585

 第28代佐野家当主。佐野昌綱の嫡男。小太郎。唐沢山城主。

佐野昌綱の死後あとを継ぐ。このとき、15歳くらいであったか。この年齢で越後上杉家と戦い、その後、大国北条家と真っ向勝負を決意したのだから、まさに豪胆だ。

父・昌綱が死去してすぐの1574年、上杉勢は11回目の佐野攻めをした。宗綱は越後からの間者を利用して上杉本陣を高鳥屋山に誘導し、攻められないと悟らせて山頂から降りてきたところに攻め入り、撃退したという逸話が残る。

また、1576年の「只木合戦」では、佐野家は前哨戦で上杉勢に押され唐沢山城に籠城するが、本丸近くの四つ目堀・大炊の井まで攻められてしまう。そこで、重臣の山上道牛入道が上杉方に寝返ったと見せかけておびき出し、そこに攻撃をかけ上杉勢を撃退した。

宗綱だけでなく、戦国中ごろから長く合戦に慣れたことから、佐野家中は知略に富んだ戦上手になっていたのであろう。

中央ともつながりを持っている。1576年6月10日、信長の推挙によって但馬守に任命され、その礼金を献じた。

また、秀吉から宗綱へ、「修理進どのへ」宛てで書状がある。これ1584年12月20日に、家康と北条氏直が講和を求め、人質を提出したことを知らせたものである。

この10日後に宗綱は帰らぬ人となってしまうのだが。

宗綱は長尾勢と合戦を繰り返すが、一度も遅れをとったことは無いという。1577年4月、長尾顕長は免鳥城を落とすが、宗綱の救援によりすぐ奪還。

常陸佐竹家らと結び、北条家に対抗する。

1581年8月には北条氏照、氏邦らに唐沢山城を攻められたが、佐竹家らの支援を受けてこれを撃退している。

実はこの宗綱、かなりの革新者で、いろいろな改革事業を実行した。

軍事面では軍勢催促状とも思われるものが残っている。これでは新兵器・鉄砲が重視されている。

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天正十一年 六月三日 「福地文書」

   書出シ

一、弐拾人 赤見六郎殿  自分
一、弐拾人 福地帯刀殿  自分
一、拾五人 高瀬
一、拾人  大貫大和   自分
一、拾人  飯塚兵部   自分
一、八人  三沢備前   自分
一、五人  高山
一、三人  安部
      金井

 〆九拾壷人 内騎馬拾騎

 右之者、弓鉄砲を以、出羽守指南之通、相働可申候、萬事、赤見六郎殿如指引之、可被走廻者也、○○書出シ如件、

 天正十一年

         六月三日

        福地出羽守殿

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鉄砲復旧の遅れている下野では、きわめて重要な史料だ。

これらの様な、かなりの功績がありながら、某ゲームではかなり評価が低い。その理由は、一般に言われる短慮から発した討死にあるか。

足利長尾家とは、先年より小競り合いがあって一触即発の状態にあった。

宗綱は先年より長尾家と争っていたが、一度も遅れをとった事は無いと自負していた。だが、近年長尾に対して遺恨が溜まってきた。

重臣を謀略で討たれ、国境の彦間に設けた柵を破られたり、城をとられたり…。

宗綱は、12月15日に重臣らに長尾攻めを発表し、年明けて元旦に出陣。長尾顕長を討とうと迂回して長尾領との北部の境である須花坂に馳せたが、須花坂で長尾家臣・小曾根筑前が佐野勢を迎え討つのを大言で呼ばわったのを聞き、宗綱は小曾根筑前を真っ先に討たんと敵陣に采配を振るった。だが、宗綱の馬が速すぎて、旗本たちは追いつけず、単騎で敵陣に進んでいたのだ。

性分の短気がはやったのであろう。宗綱の馬についてゆけず、血を吐いて斃れた槍持ちもいたという。

 単騎の宗綱は野鉄砲で胸を射抜かれ、苦しくなり落馬した。そこを長尾家臣・豊島七右衛門忠治という軽少の侍が駆け寄り、討ち果たした。その後、討ち取ったのが宗綱の首と知り、長尾勢はどっと騒いだ。

 佐野勢は宗綱の討死を知り、死に物狂いで須花坂に参じ戦い、長尾勢を敗軍にする勢いだったが、またしても佐野の将が不慮にも討たれ、押し戻された。

 佐野家は、この彦間合戦で大敗を喫した。この合戦は、「佐野宗綱記」や「佐野軍記」に詳細につづられている。

享年は不詳であるが、20代であったと思われる。一般ではなぜか26歳説が多い。

このあたりから、佐野家の歯車が異常をきたし、さらなる混乱を招くこととなる。




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佐野氏忠 さの うじただ 1547?1593

 第29代佐野家当主。北条氏康の五男。左衛門佐。足柄城主。唐沢山城主。佐野家当主。


 佐野宗綱が非業の死によって相続問題が起こると、佐野家臣団は養子を迎える先を、北条家か佐竹家で争った。

 評定の結果、北条家から迎える事となり、北条氏康の五男を迎え佐野氏忠が誕生した。佐野家督を継いだときは40歳前後で壮年だ。ちなみに氏忠はこの前、足柄城主をつとめている。
 佐野宗綱の娘を佐野房綱の養女とし、佐野家の血縁として氏忠と婚姻させた。
 これにより、佐野当主は北条一門になり、北条家に協力することになる。北条家にしてみれば、長年苦労した佐野攻略を遂げ、唐沢山城を拠点に下野攻略に乗り出す契機を作ることに成功した。
 これまで佐野家は反北条派の姿勢を取り、常陸の佐竹や下野諸将の東方の衆と協力していたが、これ以降は逆に、東方の衆とは対立する立場になる。

 1590年、豊臣秀吉による小田原征伐時には、自身は足柄城を守備するも落城。次いで小田原城にて水之尾口を守っている。
 氏忠は、名目上の唐沢山城主であり、通常でもほとんど小田原にいた。唐沢山城は城代の大貫越中守が実質的に支配しており、小田原征伐時も大貫越中守らが守っていた。

 「寛政重修諸家譜」によると
氏忠は、小田原落城後は北条氏直に従い、高野山入る。その後、故あって伊豆国川津城主・陰山七郎左衛門に寄食して大関斉と号すとある。

 文禄2年(1593年)伊豆国沢田村で没した。



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重大人物
佐野房綱 さの ふさつな  1558?1601


 第30代佐野家当主。佐野泰綱の子。天徳寺。了伯。宝衍と号す。修理大夫。唐沢山城主。慶長6年(1601年)7月2日卒。阿蘇郡山形村報恩寺に葬。

槍術に長ける。佐野昌綱の弟、宗綱の弟の両説があるが、年齢的に昌綱の弟で、宗綱からは伯父に当たると考えられている。
 江戸幕府が編集した「寛政重修諸家譜」の巻第850にある「佐野房綱」は佐野昌綱の弟となっており、宗綱は甥。了伯については、天徳寺宝衍と同一人物ではないかといわれている。

 佐野家の外交に重要な位置を占めていた人物といわれる。
 兄・昌綱の死後、家中は対立し、それに嫌気がさして出奔をしている。その後は定かではない。一説には武者修行のためか京都に行き、その折に織田信長に接近し、関東管領・滝川一益の元で北関東諸勢力と織田家を結ぶ役割を担っていたという伝承があるが、これは定かではない。
 そののち佐野に帰参し、甥の佐野宗綱に仕えた。

 初期は「了伯」と仮定して、列伝を書くことにする。
 1585年、当主・宗綱が戦死すると養子問題で、房綱は佐竹氏から養子を迎えようとして、北条家から養子を迎えようとする家臣たちと対立。家中が分裂したため、再び出奔してしまう。
 佐野家は北条氏康の5男が継ぎ、佐野氏忠が当主となった。佐野の家臣らは小田原へ人質を出した。佐野、小田原両方に姻戚のある佐野一族は、敵味方に別れて戦うという悲劇に見舞われることとなる。

 1590年3月、関東への案内役を命じられる。先手を引き受けたが、呼びかけに対して佐野老臣の岩崎吉重郎、赤見玄与斎、長嶋縫之助たちが馳せ参じた数は、百騎に満たなかったという。
 夏には小田原攻めが始まり、山上道及を先手に小田原の大手口を攻め崩した。

 関東生まれの了伯に対し、関東の詳細な地図を作成し、提出する事を命じていたという。了伯は、旧臣の山上道牛に絵図作成を依頼。福地、田口、高山、浅野ら諸将と共に、関東諸国の山河、城、街道を詳細に色分けして描き、加藤清正に提出した。そのときの下野部分の下書き絵図が佐野椿田の福地家に伝えられている。

 小田原攻略直後、8月28日に佐野に帰城。これまでの戦功や唐沢山城開城などその功を認められ、北条方だった佐野家の家督を継ぐことを許され、9月付けで秀吉より領地加増の沙汰があった。佐野3万9千石を領することになる。
 富田知信の息子を養子に迎えるのは、この時に約束したという。

 以下は、秀吉からの領地安堵状である。

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 今度 小田原陣の刻、佐野十七騎の侍并一家中諸侍走廻り忠勤を励み奉公相勤候ニ付、三万弐千四百石の所、永々本日違なく主領仕るべく候条
一、佐野十七騎の侍中
一、十七騎一族 六十三人の侍
一、佐野代々弐十一人の侍
一、佐野郷見九十九人の侍
 右の面は之佐野本領の外加増地遣し候、寺内左京進知行所請取り中すべき旨申渡し候、以上
天正十八年十月十九日        秀吉(花押)
 岩崎吉重郎殿
 赤見玄余斎殿
 長嶋縫之介殿
 佐野一家侍中
 尚々、無事当分は御密に成さるべく候

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 この安堵状を見ると、了伯ではなく家臣らの領地安堵内容である。佐野本領(当主・了伯)以外で3万2400を賜っている。ということは、佐野3万9千石を安堵されているから、了伯の取り分は約6500石となる。
 さらに名を「房綱」と改め、直ちに領内の経営に乗り出した。
 ここからは「房綱」で解説する。

 天正19年(1591年)2月に、領内に「国風七ヶ条の法度」を定めている。これは信吉の代以降も受け継がれ、佐野家の伝統的な祖法ともなっている(内田家文書)。

 1592年、文禄の役で肥前名護屋に在陣。同年秋に富田知信の息子・信種(のちの佐野信吉)を養子に迎えて9月に赤見村に隠居した。
 房綱が大名だった期間はたった二年に過ぎない。

 信吉ははじめ家臣間で評判が良かったが、次第に粗暴になり、家臣らの意見も用いなかった。赤見村の房綱も時折、唐沢山城に来て諫言したが、これも用いない。信吉の奇行の数々に悩まされ、それを諭すと、さらに対立が深まるという悪循環になっていたと思われる。さらに、仙波村に移されてしまったという。
 二人の対立は深刻で、冷戦状態が続いた。
 房綱は晩年に、佐野家に伝来する重要な軍書や系図類を佐野吉十郎に渡している。これは「唐沢山古久録」のうち、「佐野十七騎家来願状の事」。また、臨終においても対面しなかった。

 出奔、浪人し、城主に返り咲き、時の権力にも取り入って成功したかに見えたが、こして見ると佐野房綱の晩年は寂しいものだった。



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佐野信吉 さの のぶよし 15661622

 第31代佐野家当主。富田知信の五男。小吉郎。政綱。信宣(のぶふさ)。富田信種。修理大夫。佐野城主。佐野房綱の養子。


 佐野氏忠室(明窓貞珠大姉)が、佐野房綱の養女となり、佐野信吉に嫁して家督を相続する。天正20年9月22日、秀吉から朱印状により7500石(内訳知行つき)を安堵される。

 父・知信は小牧山合戦での和議功労者であり、豊臣家の御家人である。秀吉より「吉」の字を賜っており、富田信種から佐野信吉に改名、佐野家は大いに面目をほどこした。
 文禄7年(1599年)佐野城を築城。治世の不便な山城の唐沢山城から、平城である佐野城(春日城)へ移転する。
 関が原合戦では徳川方に味方し、所領安堵された。

 晩年の佐野房綱とは、かなり反目していた。房綱にとって、信吉の奇行は頭痛の種だったともいわれる。
 慶長6年(1601年)に房綱が死去すると、佐野一族、譜代の領地を取り上げ、その10分の1を以って信吉派の家臣に改めて給している。これにより、佐野伝来の一族、家臣、侍ら含め、101人が浪人してしまう。
 これは家臣団の分裂を示し、対立が最終局面に行ってしまった。

 文禄19年(1611年)信吉は兄・富田信高事件に連座して改易、信濃国松本に配流される。
 元和8年(1622年)2月に子・久綱と共に赦免されるが、大名としてではなく旗本となり子孫は続いていく。
 同年、江戸で死去する。


 


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