佐野家臣団
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赤見六郎左衛門
永正12年(1515年)頃の赤見城主。佐野家臣。
赤見城は、昔から入れ替わりが激しい。赤見の先祖・戸賀崎家から数代経て、赤見家が赤見城主の時代があったが、応永12年(1405年)から鎌倉公方・足利持氏の支配下になり、地位を失ってしまう。
文明3年(1471年)足利成氏の家臣・南父子が城主だったが、上杉家臣・長尾景信に攻められ落城。その死後、長尾景春の乱があり、赤見城は佐野家に戻ってきたようである。
六郎左衛門からは赤見城主として返り咲き、戦国時代の初期に約30年間勢力を保持している。
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赤見伊賀守 あかみ いがのかみ 15??〜15??
佐野家臣。赤見城主。世代的に見て、赤見六郎左衛門の孫世代だろうか。
永禄2年(1559年)佐野家への年始の挨拶に行かなかったため、赤見伊賀守は佐野家を敵に回すこととなる。これは、前年に宇都宮を攻めたときに原因があるように思われる。
このとき佐野家は、越後の長尾景虎の先鋒として宇都宮家を攻めた。長尾方先鋒の佐野小太郎が、宇都宮方の多功長朝に討ち取られたという記述が、宇都宮側の資料にあるのだ。
これがもし本当で、佐野小太郎が佐野豊綱だとしたら、赤見父子は佐野家の荒廃を察しての離反を試みたのかもしれない。
佐野泰綱は赤見城を夜襲した。赤見父子は奮戦したものの、抗しきれず、母方の実家のある常陸に逃れた。
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赤見綱重 あかみ つなしげ 15??〜15??
佐野重臣。御老臣。秀顕の子。
父・秀顕は下野国奈良渕城主という。奈良渕とは、唐沢山城の3kmほど南で、重要な支城のひとつである。
元亀2年(1572年)に赤見村に居住したというから、父の代までは奈良淵にいて、そののち先祖伝来の赤見を再び安堵されたのだろうか。
だが、赤見城主となったかは分からない。
赤見綱重は、佐野昌綱の代に和睦し、佐野武士団の有力な一員となったという。赤見城は唐沢山城の重要な支城として、足利長尾家との攻防拠点となった。
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赤見綱高 あかみ つなたか 15??〜15??
六郎。綱重の子。佐野房綱の重臣。
房綱の隠居先を赤見郷と定めたとき、綱高に普請を命じた。
佐野宗綱戦死のあと、北条氏忠が佐野氏忠として尾形山に迎えられ、佐野庄は大部分北条の勢力下におかれた時、赤見家は岩崎家などとともに反北条派の中心的役割を果たしている。
そして佐野房綱と協力し、秀吉と結び佐野家再興の原動力となる。赤見城がその根拠地となった。
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大芦志摩守 おおあし しまのかみ 1???〜15??
大芦城主。島津家の末裔。
「大芦氏由緒」によると、日光山下の大芦村城主・大芦志摩守は、大永3年(1523)壬生上総介に合戦で敗れ、城は落城してしまう。
五人の子ら、嫡男は右京介。次男は佐野小曾戸に住み、小曾戸雅楽介と称す。三男は梅沢入道忠義(梅沢に移ったか)。四男は藤沢に住し、藤沢五郎入道義時と名乗る。五男・山菅兵部は、のちに西の佐野家に付いたという。
筆者の解読能力が無いので訳が適当だが、文面から見てこれらは皆、佐野家に付いたと思われる。
のちの、佐野家に関わる文書に小曾戸の名が多数あり、大芦家は佐野家臣として働いたと思われる。
なお、小曾戸文書数点に宛名として登場する「大芦雅楽助」は、前述した大芦志摩守の次男「小曾戸雅楽介」と思われる。佐野氏忠からの書状には、家臣らに人質を小田原に出すようにとの内容が書かれてある。
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大貫定行 おおぬき さだゆき 15??〜15??
越中守。武重とも。昌綱四天王の一人。または、宗綱時代の佐野八人衆の一人。
戦国期の「大貫越中守」という呼び名については、おそらく父子2世代を混同していると思われる。佐野宗綱の戦死後、居城を攻められて戦死した「大貫越中守」と、秀吉による小田原征伐時に戦死している「大貫越中守」がいる。
前者「越中守」は、佐野昌綱時代には四天王といわれ、佐野宗綱時代には佐野八人衆の一人として一番初めに名が見られ、権力も相当な重臣だったと思われる。
しかし、主戦派の佐野宗綱と、穏健派の大貫越中守とはそりが会わず反目しあっていた。そのため佐野家中は割れて家老たちも不和で、御家方、大貫方などと密かに言うものもあったという。
年の暮れに唐沢山城に登城すると、宗綱から密かに、元旦に足利長尾家を攻める由を打ち明けられた。
元旦の出陣は非常に嫌われているから思いとどまるように諫言したが、宗綱の機嫌は悪くなった。家臣らも不和だったため、あえて諫言する者もいなかった。そして予定通り、元旦に佐野宗綱は出陣し、須坂花の合戦で討ち死にしてしまう。
合戦後、大貫越中守は謀反の嫌疑をかけられる。主君・宗綱が出陣したにも関わらず参陣せずに、唐沢山城に留守居役。火急の時に備え留守役は大事だが、その他残ったものも大貫方なので怪しまれた。
すぐさま、富士源太、竹沢山城守ら30人余りを大将とし、数百騎で大貫越中守の居館に押し寄せた。そこで一戦もせずに自害する始末となった。
のちに佐野房綱が唐沢山に凱旋した時に、「宗綱が討死したのち、我らが佐野に下り、越中守の少しばかりの罪は許しておくべきだった」と嘆き、家臣らは慈悲深い房綱に感銘したという。政務に携わっていた重要な人物を亡くした無念さが伺える。
後者「越中守」は、佐野宗綱戦死後、養子を迎え入れる先について、合議を行なった時の家老の一人という。
豊臣秀吉による小田原攻めの時、城主である佐野氏忠は、皆川広照と共に小田原城に籠城した。佐野氏忠は常時でも小田原にいたため、事実上、佐野の唐沢山城は城代家老の大貫越中守が支配していた。
佐野房綱は唐沢山城に籠もる老臣らに降伏を呼びかけ、老臣たちはこぞって房綱側に参戦した。
しかし越中守はこの勧告に従わず、天正18年(1590年)4月28日に城は落城。「命は義よりも軽い」と自害したという。
ちなみに、佐野市内に「大貫氏館」という館跡が天正年間(1573〜1592)に築かれている。これの築城者は「大貫越中守政宗」となっている。ここが大貫家の居館だったのだろうか。
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大貫武基 おおぬき たけもと 15??〜1590?
伊勢守。定行の子。
1590年、唐沢山城を攻められたとき、父と共に戦死、あるいは自害したものと思われる。
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神馬忠春 かんま ただはる 15??〜1546
遠江守。佐野家臣。浅利城主。
天文15年(1546年)古河公方らに協力する形で、佐野豊綱とともに家中千名ほどで河越に出陣。はじめ、合戦は優位に進むが、逆転した北条家の攻撃により討死してしまう。
これにより、佐野家は350名近い死者を出したというが、これは数が多すぎる。実際は出陣した数ももっと少ないと思われる。
忠春は浅利城主というから、宝徳3年(1451年)浅利城を築城した神馬忠光の子孫か。
浅利城は他に、阿浅利城、閑馬城とも呼ぶ。
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毛野塚内匠左衛門
武蔵国新井の人。
「大日本名蹟図誌」に、「永正年間(1504〜21)毛野塚内匠左衛門なる者武蔵国新井より来りて此に築き、其の孫大膳大夫、同右近に至りて佐野氏に仕え、阿蘇郡閑馬村の神馬城に移り、終に廃城せり」とある。
永正年間に武蔵国の新井より、鹿沼の久我地方に移る。どういった経緯で鹿沼に来たかはわからないが、そこに新井城を築き、拠る。
「終に廃城せり」というのは鹿沼の新井城である。現・鹿沼市の久我地方にある。堀は無いが、平坦地と切岸が山上に見られ、城郭の可能性があるという。
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毛野塚大膳太夫
毛野塚内匠左衛門の孫。
大膳大夫の代になり、佐野家に仕えたとの記述がある。佐野領の阿蘇郡閑馬村の神馬城に移ったという。
新井城にほど近い大芦村城主・大芦志摩守は、大永3年(1523年)壬生上総介に合戦で敗れ、城は落城。子らは佐野家につかえているから、新井城の毛野塚家も壬生家に圧されて佐野家を頼ったか。それとも、久我とともに最初から佐野に組していたのだろうか。
「神馬」と「閑馬」が入り乱れてきたので、ここで整理。
○神馬城・・・宝徳3年(1451年)築城。現・佐野市閑馬町。築城者・神馬忠光。別名・阿浅利城、浅利城。
○閑馬城・・・文明年間(1469〜1487年)築城。現・佐野市閑馬町。築城者・神馬忠綱。別名・毛野城。
神馬忠綱が毛野城を築城したと伝わる。毛野塚姓と神馬姓は、何か関わりがあるかもしれない。
永正、大永年間(1504〜1527)の頃、毛野塚大膳太夫が粟野の竜貝城(龍ヶ谷城)主として名が見える。という事は、1523年の河原田合戦後から壬生家に圧迫され、閑馬村に移ったと推測できる。
佐野家に1546年からは別の佐野家臣が竜貝城主であるから、それまでの期間に守備していたのだろう。
1546年には神馬忠春が河越で戦死したため、代わりに毛野塚大膳太夫が神馬城代を務めたのかもしれない。
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福地寧久 ふくち やすひさ 15??〜15??
出羽守。御客家。椿田城主。
父・丹波守綱久は丹波国福知山城主であったと記すが詳細は不明。この城の前身は「横山城」といい、1579年に明智光秀が落としてから「福智山城」とし、江戸期になってから「福知山」の名になったので、後世の作り話だろう。
福地家は、武蔵の忍、上野の館林口を守る出城・椿田城に拠った家臣で、佐野家の南方を守る重臣であった。
天正3年(1575年)9月3日付けの佐野宗綱書状で、田嶋、羽根田の内、250貫文を賜っている。
このほかに同年、正月24日付けで95貫文、天正5年(1577年)8月15日には、7月の対北条戦での軍功により、70貫文を賜っている。
これは佐野宗綱の朱印状であり、「藤原宗綱」と記される角印が見られる。
佐野宗綱時代の天正11年の軍役催促状に福地出羽守宛の書状がある。(佐野宗綱の項参照)そこには武将の名と持ち兵の軍容が書かれており、「弓鉄砲を以、出羽守指南之通、相働可申候、」とある。つまり、兵を福地出羽守の指南のもと動かせという事である。
また、1580年10月12日付けの宗綱からの合戦催促状で福地出羽守は、山上道牛、松本丹後と共に3人の佐野南方領主に、唐沢山城に登城するよう書かれてある。10月13日に長尾家との合戦があり、佐野家が勝利している。
これらの書状から見て、軍事面においても活躍していたことが伺える。
ちなみに息子と思われる福地帯刀は、重臣・赤見六郎と共に20人持ち。福地帯刀が軍勢を持って、福地出羽が指南という事から考えると、この頃は代替わりしていたと思われる。
佐野宗綱が須坂花で討死した日は正月であることから、合戦で討死した武将の家は、正月に餅を食べない風習が残る。佐野椿田の福地家でも続いているという。葛生でも木曾家など、2、3家で大正の頃までこの風習があったという。
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福地智之 ふくち ともゆき 15??〜16??
帯刀。寧久の子。
佐野氏忠の時代に、五奉行のうちの一人に任じられる。他に奉行は高瀬遠江、大貫大和、高山外記、津野孫十郎である。
また、佐野房綱が当主のときには積極的に領内を統治している。年貢や賦課、領内の年貢高の確定、不作地の減免により、農民の負担を軽減しながら開発を進行させていった。
さらに、佐野信吉の時代にも福地帯刀の名が見られ、信吉から馬一匹および足軽20人を預けられている。
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