斉藤家
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系図によれば、藤原鎌足を祖とする名家。
永正6年(1051年)にはじまる前九年の役に、官軍として従軍。康平6年(1062年)9月に安倍貞任を打破し奥州平定が成る。凱旋した斉藤重勝は、功により八田下総守より船生木渡を賜る。また、源義家の母が信頼する如意輪観音を義家より頂戴したので、金堂を建てて「鶏鳥山蓮台院護国寺」と号し、天下安寧の祈願をした。
室町時代になると、盛重が応永30年(1423年)に那須合戦で3騎を討ち捕らえ、侍5人を射落としたという功を成し、感状を受けている。
また、泰重の時に、宇都宮正綱に従軍して上野川曲に出陣して戦功を立てている。
系図を見ると、周辺の宇都宮家臣らとも縁組している。
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・戦国期の主な人物。
斉藤清重 さいとう きよしげ 1435年〜1506年
斉藤義重の子。将監。永正3(1506年)丙寅12月3日死去。享年72歳。法名:貴歓。
斉藤清忠 さいとう きよただ
斉藤清重の子。将監。のちに宗斎。
永正9年(1512年)、下知により飯岡館(塩谷町泉の大名山)に住す。これは塩谷町の泉城であり、矢板市の泉城(城主は泉直任など)とは別の城である。弟の忠重が、船生を継承したという。この頃、塩谷地方のほとんどの各城は城代制となっていた。清忠が飯岡館を預かっていた時もあり、弟の忠重が船生城を預かっていた時もあるということである。他に、各城が時代ごとのめまぐるしい変遷記録も興味深いが、ここでは割愛する。
斉藤忠重 さいとう ただしげ 1486年〜1544年
左衛門尉。のちに左京進。はじめ忠政。清重の子で、清忠の弟と思われる。船生を任され、船生城代となったよだ。天文13(1544年)甲辰11月20日死去。享年59歳。法名:淨圓。
斉藤定重 さいとう さだしげ 1500年〜1575年
左衛門尉。天正3(1575年)乙亥9月3日死去。享年76歳。法名:寿盛。系図が不鮮明であるが、清忠の子と思われる。
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・斉藤系図
※系図にある続柄を示す線が不鮮明であるため、自分なりの解釈で系図を作成した。
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