大塚城(大越路城)

(鹿沼市下粕尾)

 

 

 

 

 強烈なブツ斬り城がぁ。ここに、ある!

 

 大塚城には何度か来ていますが、ほんと、ここの堀切の分断具合が良いですね。旧・粟野町の下粕尾大越路の城山にある。下粕尾と中粕尾の境界。

ここは古くから地元に知られた城跡。山から長く伸びた尾根の先っちょに遺構がある。尾根を4つの大きい堀切で分断した城。

 

 付近で、先日発見した天狗沢城は斜め向かいにあります。

 

 

大塚城は、城マニアの訪問数は多いと思う。

 粕尾のメイン通りを走ると、目の前に城山が。目立ちます。

 

 

 

 

大塚城(大越路城)縄張図

論文用  作図、4時間くらい。

 

 

隣の尾根にも城があります。

 →大越路古城へ

 

 

 

大塚城縄張図の後半はまあまあ描けたかな…と思うんですが。前衛の部分はジグザグなので難しいです。

サイト「栃木県の中世城郭」のmasakiさんは凄くお上手で。あんなに上手に描けませんでした。私はジグザグを書くのが苦手です。私の「上から攻撃」の部分もうまく表現できなかった。なんか、道が太くなって、下の方がドン詰まりになっちゃうんですよ。

 

 

 

 

 

 

城の前衛部分は、左右に振りながら登る道。

最初に、敵は土塁の上からの攻撃にさらされ、進むことになる。

そして、両側の竪堀のため、これ以上の横移動はできない。否が応でもジグザグの道を登り、途中の虎口と思われる所も通って前衛の曲輪に出る。

 

 

この辺も、堀をめぐらし、曲輪を登らせて、うむ素晴らしい遺構。

木橋を架けていたのかな。

主郭と南の曲輪を分断する堀切?↑

 

 

 

主郭の北側の堀切。もうデカいよ〜。

 

 

 

 

 

堀切!

北の曲輪から南の曲輪(内部側)を見たところ。高さがあるので、木橋などかけられない。堀の下に降りて、東の腰曲輪から攻め入ったに違いない。これは大変。

天狗沢城と似てるとか書いたけど、改めて来てみると、規模が違いすぎる。

 

 

 

堀切。最大

 

?と?の堀切は落差、幅すごいっすけど、山の下からアクセスできちゃいます。へぽーん!

 

堀切?の東はすぐ下界ですじゃ。

堀切?の西には、下の慈眼寺や民家方面から来る林道が。今の林道ですけど、昔も、そんなに苦労せず登れたと思います。

北尾根から来る敵に対しては凄い防御に見えるが、実は脇からひょいっと堀切に入ることのできる構造(いや、そんなに簡単ではないが)。よって、北の曲輪郡は、落差によって防御していたと思われる。落差すごいっすよ。セルシオ縦に4台くらいいけるかな。たぶん1520mくらいあります。登るの大変だよ〜。

 

 

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東の城主館跡裏の小城

 

これは城です。大塚城に隣接する東対面の尾根に小城があります。

 

ここは個人宅裏(他でもそうですが…)で、行くとご迷惑になるので、行かない方がいいです。もし、どうしても行きたい場合は、必ず許可をいただいてから見学してください。

 

この地方の城は、まず本城があって、その隣の尾根に小城を築くものがありますね。

 これは特色になりうるのだろうか。

 それともただの戦略的配置?

 

 

・大塚城 ― 東尾根の小城(論文では大越路古城としました)

 

・天狗沢城― 東に小城があったんですって!マジか。

 

・不摩城 ― 南の長土塁 規模が凄いらしいですね。

 

・粕尾城 ― 北の笠丸の細尾根に城が。別の城と考えたほうが良いか。

masaki様が発見されたそうです!

 

 

 

この地域は面白い。

 

 

 

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北端の遺構群

 

うーむ、これは確定ではありません。後世の改変が激しいですが、遺構に見えます。一応、図面にしました。

 

北側のすっごい堀切?を越えて登ると、段々があります。この辺はグリグリにエグッた作業道が作られていますが、その脇に段々。そこには少し堀のようなものがあります。

 

 

 段々です。

 

そして、その東側には、延長して竪堀が何筋かあります。急勾配なので、降りる道ではありません。

 

その下(東側)に林道がありますが、林道を突き破って、さらに下まで竪堀が落ちています。西にも少し竪堀状のものが。

 

これは畝状竪堀????????

 

そして、北側の山奥に進むと、細尾根の平場に出ます。その先に土塁!

畑にするため土寄せした土盛か?

 

でも、その向こうには堀は無い。山への細尾根道が続くだけです。

 

ここまで城の遺構としていいのか不明ですが、自然地形ではない、また作業道とは別に人工的に造ったものということで掲載しました。

どうやって防御したかについては不明です。この部分、南から攻められるなら守れるが、北から攻められると守れない!

何なのでしょうか。

 

 

 

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大塚城でもう一つ有名なのが、麓の居館のような痕跡。

 

城の東あたりは家臣団屋敷か施設があったスペースでしょう。

 

また、民家の裏側などに土塁のようなものが。そして、区画に見える。

城の南東部分です。東にも広く平らな部分がある。

これは城に入る門のような役割だったと思われます。城主館ではない。

 

そこの少し南に、城主館と伝わる場所がある。他に城主館跡の伝承はいくつかあります。

 

つまり、城主・大塚家だけではなく、この城には何人もの城将が駐屯していた。それぞれの館跡が城の周囲にいくつかあったので、それがいつしか城主館跡として数か伝承している。

  

 

大塚家は、戦国時代が終わると、南の天神淵というところに住んだとあります。その後、こっちに戻ってきたのかな。

 

天神淵は粕尾川沿いの天満宮がある辺りっす。

 

 

 

大塚城の麓は、畑地にしているとはいえ、居館、または往時の施設が建っていた場所と考えて問題ないと思います。また、田舎の城には珍しく??城下町も形成されていたようです。木戸の位置や、街道が小さい規模は聞きますが、大塚城下は、かなり大きい規模です。発掘調査しないんで分かりませんが、きっとこれでOKでしょ。

 

大塚城は、遺構の大きさ、麓の居住スぺースなどから考えて、大越路の支配を行っていた城に違いない。

 

 

 

 

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