日光山御房






 戦国期に日光山内に存在した「光明院と」、「衆徒三十六房」と、それに追随する「部屋房二十五房」を掲載する。各坊の説明は、「日光山本房惣徒旧跡之記」を参考にした。

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光明院

 旧記に曰く、延応2年庚子7弁覚僧正が建立した。即時に宣旨があり、光明院の称号を賜った。本尊は阿弥陀三尊、不動毘沙門天を安置する(雲慶作)
 この旧跡は当本房内の権現の社地である。往古は四本竜寺を持って本房とした。四本竜寺は勝道上人が登山し、最初に開法した地である。
 関東第一の霊区のため、この住職は代々、宣旨を蒙る。勝道上人の弟子・教旻大徳を座主の始祖とし、勝道上人の弟子・千如、神善、昌禅、尊蓮などが次々と住職し、続いて衆徒の内より器量を選び、座主に補した。
 23代の座主・弁覚僧正(常陸大方五郎藤原政家6)より以後は、親王家、或いは鎌倉公方の一族が住職した。この時、北条家の帰依により、鎌倉大御堂を兼住する事になり(光明院主は鎌倉に住んだ)、座禅院の代々が光明院の留守を勤めた。
 また、36代座主・慈玄大僧正(一条関白左大臣実経9)は応永年間に寺務を退去して、光明院の住職は中絶した。
 寺院は荒廃したが、衆徒は旧跡を慕い、内権現社に稲荷を退転させた。
 慶長18(1613)に天海大僧正が座主になり、同年10月に登山した。この時、光明院は旧跡だけだったので、座禅院を天海の宿坊として御入院の儀式があった。
 この時に今市、久我、草久の3ヶ郷が将軍家より御寄附された。
 元和3年(1617)東照大権現久能山より日光山へ御遷宮、同4に御尊体を座禅院に入御奉り、同月8日、奥院石窟に葬り奉る。

以下、江戸時代の事なので省略。


●「衆徒三十六房」

坊名

説明

座禅院

 当山は、衆徒36房の内である。この寺は勝道上人の弟子・当山4代の昌禅講師を元祖とする。住持は代々、下野国の小山、宇都宮、或いは壬生の城主を以って附弟とする。代々の実名は「昌」の字がつく。
 旧記に曰く、昌禅講師は衆徒18房の元祖。弁覚僧正以後の座主は、北条家の帰依により鎌倉の大御堂を兼住したため、座禅院は代々、光明院の留守を勤めた。応永年中に、36代座主・慈玄大僧正は光明院を退去し、その後は当山の座主は中絶した。
 応永年中より光明院御留守・昌瑜法印は自然に権別当を兼ねる。権別当はこの時より始まる。瑜法印より昌尊法印までの15代の間、代々「権別当御留守」と号す。房中、または神領への下知は、衆徒相談して沙汰した。
 往古の寺領は小比矢(小百)。その他神領供料光明院領も合わせて、惣高300貫余。坊人18房あり。
 慶長18(1613)家康公の御代に、権別当御留守昌尊法印(昌尊法印者下野宇都宮一族、上川左衛門尉2男也)は、神領の支配に不義があり、出奔する。これにより、座禅印の住持は断絶する。
 天海大僧正、当山の座主に補せられ、御登山の時はこの寺を宿坊とした。寛永18(1641)光明院を再興し、この時、座禅院は断絶した。座禅院の旧跡を改め、将軍家の御殿が建った。今の御殿が是也。

以下、江戸時代の事なので省略。

三融房

この旧跡は、当御本房の東側の空地で、浄土院がある今の寺地なり。

 旧記に曰く、静覚、文珍の二代が別当職に補せられた。藤九郎盛長の墓が、この寺の東側にある。その塚木は延宝8(1680) 229の大風にて倒れる。この寺は天正年中に断絶す。寺の旦那は、本月房。

浄月房

この旧跡は、当御殿の西桜秀房の上の空地なり。
 旧記に曰く、この住持は代々、学頭を兼任した。寺領は田野郷を領す。
 
天正年中に断絶。寺の旦那は、定福房、鏡観房、鏡徳房の3房。

顕釈房

この旧跡は、今の相輪堂の向かいなり。住持は代々、結城、小山の一族を以って附弟とした。寺領は石那田郷。往古の大房なり。
 旧記に曰く、鎌倉(公方)持氏の子息・春王丸、安王丸が、永享年中にこの寺に身を隠す。この寺は天正年中に断絶。

遊城院

この寺は往古より断絶せず、寺地も移転せず。
 旧記に曰く、住持は代々、宇都宮一家の子息を以って附弟とし、実名を代々「綱」の字をつける。寺領は板橋郷栗山郷なり。その他の社領供料もあわせ、惣計200貫余。坊人16房あり。往古は大房であった。
 大旦那は宇都宮の城主。綱仲法印、綱清法印は、当山の検校、学頭を兼ねた。さきの光樹房昌栄は、この寺に住持した。滝尾神社にいた時、年中行事の大帳を改め以後、山門東光房に住職し、執行を勤めた。慶長年中に、昌栄法印は日光山に帰り再住した。

以下、江戸時代の事なので省略。

浄土院

この寺は往古より断絶せず。昌禅講師を元祖とする。これにより、代々の実名に「昌」の字を用いる。千本、茂木の城主一家を以って附弟とする。寺領は小林郷なり。その他、社領を合わせると惣高200貫余。坊人12房あり、往古は大房であった。
 大旦那は岩城の城主なり。昌祐法印の時に検校、学頭を兼任。亮俊法印住持の時、検校職であった。元和5(1619)に亮俊法印が死去し、その後は検校職を天海大僧正衆徒に許し給わす。
 この寺は往古より断絶せず、旧跡は鳥居の西にあった。元和年中に東照宮別所の北へ引き、寛永18(1641)に中山三融房旧跡へ引く。

以下、江戸時代の事なので省略。

桜本院

この寺は往古より断絶せず、代々、実名に「宗」の字を用いる。佐竹一家である小瀬、松野、或いは那須の一家である森田、高瀬などの子息を以って附弟とする。宗幸―朝宗―宗興―宗安の4代のとき検校を兼ねる。
 宗安は、宗興の甥で、高瀬伊勢守の次男。宗安は浄月房に移転して学頭職を兼ねる。筆記多数あり。当山中興の名僧なり
 寺領は小倉郷手岡郷。その他社領供料など抱え、惣高200貫余。坊人12房あり、往古は大房なり。
 この寺の地は、鳥居の西、五重塔の地なり。元和年中に東山悦蔵坊元屋敷に移す。当修学院の地なり。寛永年中に酒井讃岐守忠勝が、四本竜寺の北一房屋敷3軒を他の所に移し、ここに桜本房を修造した。これによりて、酒井家代々の宿坊なり。

教城坊

この寺跡は古今同じ。住持代々今まで附弟が相続してきた。この寺地は勝道上人上足・昌禅講師が最初に住居した地と伝わる。これに因み、代々実名に「昌」の字を用いる。附弟は那須、佐竹の一家、或いは当国、真名子の領主などの子息を請うて附属した。
 昌観法印は那須太郎の末子なり。その附弟の昌賀は那須一家の森田3男なり。同じく附弟の昌盛は、結城政勝の伯父晴朝亦伯父なり(解釈不能のため、原文掲載)。同じく附弟の昌長は真名子城主の次男なり。
 この4代は、当山の学頭、検校を兼ねた。寺領は小来川郷木和田嶋郷。其の外に社領供料抱え、惣高200貫余。坊人12房あり。往古は大房なり。大檀那は当国那須の城主、下館の城主、常陸松岡の城主なり。
 昌雄法印(宇都宮幕下黒子掃部介2男、母は昌長妹)の弟子・昌学は大僧正天海護摩法流の御弟子たるゆえに昌学を改め、天雄と称す。以後の住持も「天」の字を相続すべき由を天海が論じた。天雄(佐竹一家長倉義重2男、大沢越前守義2、母は昌雄妹)の弟子・天祐は天海の御戒師なり。護摩法流は毘沙門堂公海大僧正と給う。
 元和2(1616)、東照宮御社地のため御見立、伊賀侍従・藤原(藤堂)高虎朝臣の登山があり、この時にこの寺を旅館とした。これに因て藤堂家代々の宿坊なり。

以下、江戸時代の事なので省略。

禅智院

この寺跡は古今同じ。住持断せず、代々実名に「昌」の字を相続する。塩谷一家の子弟を以って附弟とする。寺領は福岡郷。坊人8房あり。
 この房中興の開基・源淵法印より天海の上足・普海まで9代なり。寛永年中、天海より客殿、厨、惣石垣、表門、裏門造立あり。

藤本院

 この寺、往古より断絶せず。寺領は山口郷なり。照誉、陵誉の2代が学頭職を兼ねる。旧跡は石鳥居の東、今の御仮殿の地なり。元和7(1621)、大僧正(天海)の寺領となるにより、藤本房は東山鏡泉房南の地に移された。この時、住持の亮安は怒り、離山した。時に昌重(浄土院昌策の弟子)が住職した。
 元和9(1623)423に、昌重は中禅寺に参籠した。寛永2(1625)乙丑44、前浄土院昌策死去。昌重は師の喪によって上人職を辞し、下山した。この時に中禅寺の神社仏閣は大破し、大僧正天海によって修復された。この時より本房の兼帯となる。

以下、江戸時代の事なので省略。

法門院

この寺跡は古今同じ。住持は代々那須一家の金丸家、或いは檜野本城主・本間家の一族を附弟とする。綱誉法院(金丸2)は学頭職を兼ねる。綱誉の附弟・昌益法印は、会ノ本城主本間某の長男なり。

以下、江戸時代の事なので省略。

光樹院

この旧跡は当本房の地内にあり。寛永17(1640)に今の地に移す。将軍家より料金を賜う。往古の寺領は大沢郷なり。重憲法印、昌義法印の2代が検校、学頭職を兼ねる。
 昌佐法印は佐々木家の末孫なり。佐々木光樹房が是なり。元和年中に死去する。

以下、江戸時代の事なので省略。

仏眼房

この寺は、天正年中に断絶す。寺領は小代郷。旦那は正定房。

禅月房

この寺は、天正年中に断絶す。寺の旦那は定宝房。

禅南房

この寺は、天正年中に断絶す。

座宝房

この寺は、天正年中に断絶す。寺の旦那は実泉房。今の不動房寺地なり。

戒乗房

この寺は、天正年中に断絶す。寺の旦那は松本房。

観日房

この寺は、天正年中に断絶す。光明院殿の南方当本房表門の当たりに当寺あり。寺領は奈羅部郷。寺の旦那は松本房。

惣持房

この寺は、天正年中に断絶。寺領は深谷郷。寺の旦那は唯教房。

十乗房

この寺は、天正年中に断絶す。寺領は湯西川郷

道樹房

この寺は慶長年中に断絶す。寺領は薩嶋郷。寺の旦那は教城房。

善寂房

この寺は、天正年中に断絶す。往古の寺領は土沢郷

妙法房

この旧跡は、西山御殿北の空地なり。旧記に曰く、妙法房寺内に曼荼羅降臨したまう。これに因り曼荼羅堂を建立し、月次の曼供執行する。この料は8200なり。
 天正年中に供料没収される。しかし、慶長年中まで衆徒は毎月曼供執行した名跡なり。寺領は大桑郷。房人3房あり。天正年中に教城房抱之。

法蔵房

この寺跡は当御殿台所に当たる。昌禅講師の末流たる故に、代々「昌」の字を相続す。天文年中に昌尊法印住持の時に学頭職を兼ねる。寺領、坊人は旧記に不載。天正年中に絶えぬ。

十地房

この寺は、天正年中に断絶す。師職清什の旦那となる。寺領、坊人、旧記に見えず。

普門房

この寺跡は、西山当御殿北の空地なり。天正年中に断絶す。寺の旦那は浄土院。寺領、坊人、旧記に無し。

随仙房

この房は昌禅講師の末流たる故に、実名に「昌」の字を相続す。往古の寺領は文挟郷なり。この寺、天正年中に断絶す。寺附の旦那は円乗坊。

大聖房

この房は天正年中に断絶す。寺領は轟郷。寺の旦那、坊人、旧記に不見。

実道房

この房跡は東山今の安居院の地なり。慶什房の旦那となる。寺領は松賀野郷。天正年中に断絶す。
 旧記に曰く、実道坊綱誉、延文元丙申年8月に(1)惣禅頂の修行をした。この寺の子が住持を慕い、足を信じて滝尾の山中に入るも、嶮難に触れ死す。滝尾の奥、禅頂道に(2)「児カ墓」という所あり。毎年禅頂の山伏が廻向す。実道坊の住持は子の死を聞いて、黒髪山の半腹より谷口へ身を投げて死す。ここを実道なぎと云う。児墓と云う所に綱誉と児の石塔両基が今ある。


(1)惣禅頂・・・勝道上人が男体山に至るまでの経緯をたどる修行。天下太平、国土安穏のため日光の僧が行う。男体山、太郎山、女峰山を中心とした霊場を拝巡し、5回に分けていたもの(五禅頂)を、近世では3回に縮小し、峰修行、惣修行といわれる。

(2)児カ墓・・・現在、日光市内の滝尾社奥にある「稚児ヶ墓」という場所。

道義房

この寺、元和年中に断絶す。古の寺領は水無郷。坊人2房あり。この寺の住侶・昌存法印は、結城晴朝伯父・教城房昌盛の甥である。昌存古法の筆記に之あり。

円実房

この寺跡は、西山当御殿の北に当たる。実名に「昌」の字を用いる。往古の寺領は芹沼郷。坊人は知れず。天正年中に中絶す。

恵乗房

この寺、慶長年中に断絶す。往古の寺領は明神郷なり。坊人2房あり。実名に「昌」の字。慶長年中に教城房を旦那、坊人とする。

実相房

この寺跡、天正年中に断絶す。定宝房を旦那とする。往古の寺領は岩崎郷なり。昌興法印は真名子の一家・教城房昌長の伯父である。学頭、検校を兼ねる故に筆記多し。中興の名僧なりと云々。

日乗房

この寺、天正年中に断絶す。檀勝房を旦那とする。寺領知らず。

城華房

この寺、天正年中に断絶す。寺に付く旦那は、妙力房。往古の寺領は大矢那久郷なり。
 城華房の何世か分からないが、一代の住持が中禅寺の上人だった時、毎年秋になるとどこから来るとも知らぬ鼠があり、粟稗の穂をくわえて来て別所に献ず。人里離れた山中に粟稗の穂は無いだろうと不思議に思い、上人は鼠の足に「オタマキ」を付け、鼠の跡を行き山麓に至り登り見れば人家あり。そこを中禅寺の社領とした。鼠の足に糸を付けて見出したる所なので、足尾郷と名付ける。古老の伝、併せて旧記に見えたり。上人は、大黒天と崇め奉る。これが中禅寺の大黒の因縁なり。大黒天は子をお守り給う故なり。
 この僧は湖上の北の州崎にて水定された故に、そこを城花房カ淵という。毎年()浜禅頂の時は、湖水に霊供を投じて弔う小聖役である。


※浜禅頂・・・中禅寺湖岸の霊場を、船で巡り拝む儀式。勝道上人が、弟子らと共に香価を供えての修行祈願が発祥といわれる。

安楽房

この寺も天正年中に断絶す。寺に付く旦那は、光栄房。往古の寺領は芹沼郷なり。

以上、36房。



●「衆徒部屋房二十五房」

房名

説明

西本房

この房は、座禅院の部屋房なり。昔の寺領は知らず。天正年中に断絶す。寺の旦那は什光房。

東円房

この房は座禅院に付く。古の寺領は知らず。天正年中に断絶す。旦那は、通乗房。

金蓮房

 この房の旧跡は、仏岩なり。この寺も天正年中に断絶す。寺の旦那は妙金房。古の寺領は知らず。

釈然房

この寺は遊城房の部屋房なり。天正年中に断絶す。寺領、旦那知らず。

実報房

この寺は浄土院の部屋房なり。天正年中に断絶す。旦那、古の寺領は知らず。

月蓮房

この寺は法門房の部屋房なり。天正年中に断絶す。寺の旦那は、大月房。古の寺領は沢又郷なり。

善光房

この房も天正年中に断絶す。寺の旦那は妙力房。この寺は、古は十妙房と号す。昔の寺領は知らず。

慈眼房

この房は天正年中に断絶す。旦那は円泉房。往古寺領は知らず。

学然房

この寺も天正年中に断絶す。旦那は祐源房。往古寺領は知らず。

文恵房

この寺は天正年中に断絶す。旦那は桜照房。昔の寺領は知らず。

行台房

この房も同じく天正年中に断絶す。寺領は小矢那久郷。寺の旦那は南台ノ林光房。この寺の称号、今は無し。

竹林房

この寺は、比叡山の竹林房(実名不知)が建仁年中に、山門の堂衆が蜂起して山上兵乱に及んだ頃、避難して当山(日光)に来た。一宇を建立し、竹林房と称して住す。この寺の跡は、善養寺谷什光房の旧地で、今の将軍家の御目付の旅館の地これなり。

法泉房

この寺は教城房の部屋房なり、是も天正年中に断絶す。寺の旦那は悦蔵房。昔の寺領は踏掛ノ郷なり。

唯心房

この房も天正年中に断絶す。寺の旦那は得定房。往古の寺領は知らず。この一房は正保年中に断絶す。

慈仙房

この寺は仏眼房の部屋房なり、天正年中に断絶す。寺の旦那は正定房。古の寺領は知らず。

乗門房

この寺、天正年中に断絶す。寺の旦那は師職清什。往古の寺領は知らず。

醍醐房

この房は天正年中より衆徒職断絶す。坊人妙栄住居旧跡の称号を改めず、今は一坊の跡となっている。

宝岳房

この房も天正年中に断絶す。寺の旦那、古の寺領は知らず。

東実房

この房も天正年中に断絶す。寺の旦那、古の寺領は知らず。

法積房

この寺も天正年中に断絶す。寺の旦那、古の寺領は知らず。

浄日房

この寺も天正年中に断絶す。寺の旦那、古の寺領は知らず。

能楽房

この寺天正年中に断絶す。寺の旦那は光禅房。古寺領は知らず。

不動房

この寺天正年中に断絶す。寺の旦那は智観房。往古寺領知らず。

大宝房

この房は道樹房の部屋房なり。天正年中に断絶す。寺に付く旦那は理宣房。往古の寺領は知らず。

大輪房

この房は桜本房の部屋房なり。元和年中に衆徒職断絶して留主居の桜眼坊住居。自然に一坊と成る。称号は改めず。

以上、25房。


 右(上記)は、当山三十六房と、二十五坊都併せて六十一房なり。住持は代々隣国の城主の次男、三男、一家一族などの子息を以って附属の附弟とす。右六十一房の寺領は各有り、多寡なり。
 天正18年(1590年)関白秀吉公関東御発向の時、当山(日光)の社領をことごとく没収し、御橋の内、山林畑などと足尾郷を社領とし、鉢石町を門前屋敷とされ、当山に寄進した。この時より衆徒寺は断絶していった。座禅院と共に9ヶ寺が残った。
 天正18年より元和3年(1617年)までの28年間、足尾郷を以って神事料とし、山林畑併せ門前屋敷などの年貢を権別当座禅院、その他衆徒に分配した。往古より各支配してきた房人80余房と門前の地代、或いは三度の会式坊人の役銭を以って相続し、古来の神事を随分倦怠した者なり。

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・解説。

 各房の由緒、弟子とする武家、領した郷村名や、付属する旦那なども記載され、非常に興味深い。戦国期に活躍した僧も多数見られる。
 天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐で、日光山は北条方に付いた。戦後、所領は没収され、上記のようなわずかな所領のみを安堵した。そのときに、日光山のほとんどの房は断絶していった。
 こののち、南光坊天海が日光に入り、江戸期を通じて再興していくのである。

 日光山の「過去帳」の中で、このような御房の由緒を書き上げたものは、近世では「元和年中」と「正保二年」のものもあり、江戸時代の日光の歴史を探るのに貴重な資料であるが、ここでは省略する。



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