南摩家

(上南摩)




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 南摩家は、上南摩を領した佐野系統の南摩家と、下南摩を領した皆川家臣の南摩家がある。この項では、上南摩を領した南摩家を紹介する。

 南摩家は、現・鹿沼市南部の南摩地方を領していた豪族。系図によると、佐野家から出ている。以降、中世においては佐野家の鹿沼地方支配の一端を担った。戦国期は宇都宮、壬生などに従い、文献や軍記物にも名が見える。
 天正期の南摩・深沢合戦は、宇都宮家や常陸の佐竹家の軍も鎮圧に数年手を焼き、周囲に南摩の名を知らしめた。


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南摩家通史

上南摩の城郭

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戦国期当主列伝

南摩長綱 なんま ながつな

 26代南摩当主。南摩数馬備前守満綱の子。主馬丞。備前守。上南摩城主。上南摩上ノ城城主。号して一山道円居士。

 活躍期は戦国初期であると思われるが、生没年は不明。1523年、河原田合戦時に登場する南摩舎人之助は、父の満綱か、この長綱の時代と思われる。


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南摩綱豊 なんま つなとよ

 27代南摩当主。長綱の子。孫太郎。出羽守。上南摩城主。上南摩上ノ城城主。

 戦国中期であると思われるが、活躍、所業など一切不明。

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南摩綱善 なんま つなよし 15??1598

 28代南摩当主。綱豊の子。孫太郎。はじめ筑後守。のち備前守。上南摩城主。上南摩上ノ城城主。慶長3戌戊年(1598年)1021日没。法名:広厳寺殿輝雲道光大居士。


 戦国時代後期に活躍。南摩当主は、綱善の代になってからようやく足取りがつかめる。
 元亀3年(1572年)末から始まった「南摩・深沢合戦」時の南摩当主を務めていたと思われる。上南摩村は、他の地域からすれば、比較的悠長だった。しかし、村始まって以来の大合戦、長陣で、戦国の血みどろ戦を嫌というほど味わったに違いない。
 このとき皆川俊宗の影響下だったが、佐竹、宇都宮勢の大勝利によって、南摩家は宇都宮方になった。

 天正7年(1579年)には、鹿沼にあった「宝城寺」が、上南摩城のすぐ東側に移ってきた(現在は無住)。1579年には壬生義雄が、徳節斎周長を討っており、残党の征伐、従属など戦が続いた事から、宝城寺は戦火を逃れるために移ったのだろう。その頃には、南摩の地は落ち着いていたといえる。
 はっきりした年代は分からないが、この頃から南摩家は壬生義雄に属したと思われる。鹿沼城を奪還した壬生義雄は鹿沼に勢力を拡大した。
 久我の久我家は元亀3年(1572年)壬生家に合戦で負けて、当主が討ち死に。加園の渡辺家は天正4年(1576年)壬生家に従属した。この中で南摩家も壬生に従属せざるをえない状況になっていった。

 綱善が佐八神主に宛てたもので、祈願の礼で初穂料を納めている文書が3点ある。1点は天正14年(1586年)29日付け(追筆なので不確定)で、他2点は年欠である。
 この三点を見ると、筑後守の受領が1点。備前守の受領が2点。筑後守から備前守に変えていることが分かる。

 小田原征伐時、壬生義雄と共に小田原城に籠城する。壬生配下という事から考えて、小田原城の「竹ノ花口」を守備していたと思われる。
 北条家は敗北し、戦後、綱善も所領没収され、上南摩城麓の「堀の内」に住居を構えて帰農する。そこで失意のうちに没し、菩提寺である広厳寺に葬られた


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南摩泰綱 なんま やすつな 15??16??

 綱善の子。孫太郎。吉兵衛尉。号して天山道一居士。年号不明3月死去。法名:仁誠院殿一閑慶純居士。

 綱善が最後の城主で南摩家は城を出ているので、泰綱は南摩城主ではないが、南摩を名乗っている事から当主ではある。天正期後半の生まれであろうか。

 系図によれば、鳥居彦右衛門元忠(下総矢作藩主)に仕え、大目付役を勤めた。娘が一人おり、○○(不明)忠良の母とある。
 関が原合戦で元忠が討死すると、子の忠政は陸奥岩城平10万石の藩主となった。泰綱は岩城平藩に仕え、そこで没する。岩城平の長源寺に墓があるとされる。
 藩主の鳥居忠政は元和8年(1622年)に山形藩20万石の大転封を受けており、泰綱は岩城平に葬られている事からすると、1622年以前に死去していたと思われる。


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南摩家系譜



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