南摩家通史
(上南摩)
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・出自
南摩朱鳥所蔵藤原家南摩氏系図によれば、南摩家(上南摩)は、佐野成綱の孫・郷綱より始まったとされる。
南摩郷綱は応永年間に南摩城を築いて以後、南摩地方を治めたと思われるが、中世的な史料はほとんど無い。
鹿沼城に拠った鹿沼家も佐野家の出とされており、佐野一族による都賀郡の支配を強化する過程で南摩を領したのだろう。ちなみに付近の久我家も佐野の出とされる。
・戦国時代
「皆川正中録」で、1523年の河原田合戦で登場する南摩舎人之助は、上南摩城に拠った南摩家当主であろうと推測する。
舎人之助は、渡辺家と共に宇都宮忠綱に従い、皆川領の河原田に出陣。皆川宗成と対陣する。しかし、皆川援軍の小山、結城領軍が鹿沼を乗っ取った事から、舎人之助や渡辺右衛門尉らは何と、小山、結城に寝返ってしまう。
背後を突かれるのを恐れて、宇都宮軍は敵の追撃にあいながらも撤退。こののち鹿沼を支配したのは壬生家だが、南摩家の動向は明らかでない。
山に囲まれた地域なので、小領主として、他の地域に比べれば安住の地だった可能性がある。
また、「南摩古城跡略記」によれば、1561年に碓氷峠で上杉軍と戦った面々に、南摩舎人之助がいる。
これは上杉輝虎が関東管領職を継ぎ、関東諸将を幕下に加えようとするものに対する防戦の項だが、佐野、宇都宮、壬生、鹿沼、加園、上南摩、下南摩等が出陣。不運にて、渡辺右衛門尉が討死している。
対して、粟野城主平野大膳、横尾兵庫、神山親左衛門、岩出左京、松崎雅楽、大島左近、南摩舎人之助等は小身だが、厚運にして切勝凱旋したという。
時は流れて元亀3年(1572年)正月、皆川俊宗によって、宇都宮城は占拠されてしまった。宇都宮家はこれに対する報復をするため、佐竹家の援軍を得て、皆川領に向けて出陣した。
これが、南摩における戦国期で最大の合戦であった。元亀3年末〜翌元亀4年(1573年)2月まで起こったのが「南摩・深沢合戦」である。当時の南摩地方には皆川俊宗の勢力が及んでいたため、宇都宮、佐竹両軍の通過点となる。そこで、南摩地方でも戦闘が行われた。
佐竹義重の書状(2月14日付け)によると、深沢城他、11の城を落として皆川城に迫った事が記されている。
また、この皆川攻めの際、感状が最も多かったのが南摩地区で、佐竹一門の真崎義保が討ち取られているなど激戦をうかがわせる。
元亀4年の、南摩・深沢合戦における佐竹義重の感状は4点ある。
・官途状・茂木大膳亮義範宛(於南摩)、下野茂木領主。正月16日
・官途状・真崎雲井亮宛(於南摩)、常陸真崎領主。正月26日
・官途状・平野大膳亮宛(於深沢)、下野粟野領主。正月2月3日
・受領状・信太駿河守宛(於南摩)、常陸信太郡領主。2月9日
南摩家は皆川方であった事から、上南摩城と上南摩上ノ城も攻略されたと思われる。
皆川家はほとんどの城を落とされ降伏した。当時の合戦は滅亡まで追い込む事はほとんど無いから、降伏すれば小領は安堵される。皆川俊宗も勢力は衰えたものの、領主としては存続した。
そして、天正元年(1573年)9月7日、徳節斎周長が、佐竹義重に来援を頼んだ書状の中に、北条家が小山領の粟志川を攻めており、鹿沼とは間近な状態を報じている。そこで南摩と西方を堅固にして防備に務めているから、佐竹義重は西方に出陣してほしいと訴えている。
この時の徳節斎が南摩や西方に防衛前線を張れたのは、宇都宮方で相当な軍事的外交権を有していたからである。この事から、南摩・深沢の合戦ののち、南摩家は、宇都宮方(徳節斎周長の配下)に従属したと思われる。
そして、鹿沼城の徳節斎周長が死去したあと、南摩など鹿沼地方に勢力を伸ばしてくるのが壬生義雄である。そして天正年間、鹿沼地方は、宇都宮家と壬生家の激しい争いが繰り広げられるのである。
南摩綱善は次第に壬生義雄の支配下になってゆく。それは、1590年の小田原征伐で小田原城に籠城し、落城後に所領没収されてしまった事からも明らかである。
以降、城主に返り咲くことは無かった。
・天正期「南摩・深沢合戦」の背景
元亀3年(1572年)から始まった、南摩・深沢の合戦をもっと大極的に捉えると、周辺領主の外交と複雑に絡み合った中で行われた事が分かる。ただ単に、皆川俊宗を攻めたわけではないのだ。
永録7年(1564年)、上杉謙信が小田氏治攻撃のさいに記した軍様で、「小田氏治味方地利覚書」という史料がある。その中に、
―小山、宇都宮、座禅院が、壬生(壬生城勢力)、皆川と取り合い(対立)していた―とある。
ということは、永録7年(1564年)以前に、徳節斎&日光(宇都宮方)VS壬生(壬生城)の構図が成り立つ。
この間、徳節斎と壬生義雄は対立しており、1571年4月の引田の乱をはじめ、数度の合戦があったと思われる。それらの合戦を経て、徳節斎の鹿沼における支配は次第に確立していった。
対して壬生義雄は、壬生城に拠って、鹿沼攻略をうかがっていた。
そんな最中の、元亀3年(1572年)正月14日夜、皆川俊宗は、上杉謙信との外交を担っていた宇都宮家臣・岡本宗慶を殺害し、宇都宮城の実権を握ってしまう。
越相同盟を成立させた皆川と、宇都宮家外交官・岡本との権力争いか。もしくは北条よりだったため、宇都宮家中を北条に従属させようとの論争、あるいは俊宗のたくらみだろうか。
しかし、宇都宮城占拠は長くは続かず、宇都宮、佐竹連合の報復を受ける事になる。
元亀3年(1572年)6月には、壬生と日光(宇都宮方)の和睦成立、仲介した佐竹家に進物が贈られている。
これは、壬生義雄と結んでいる皆川俊宗を孤立させる狙いがあり、この和睦を待って、佐竹義重は宇都宮広綱と出陣してきた。壬生義雄にしてみれば、和睦の仲介をした佐竹軍を攻撃できるはずがなく、皆川俊宗は外交戦略でまんまと孤立無援に追い込まれた。
しかし、南摩では、小規模な勢力相手では稀に見る長陣となり、1573年2月まで続く激戦となった。ここに南摩領民(農兵)たちの強さがうかがえる。
・南摩家臣団
近世段階で見られる資料で、南摩旧臣のものは比較的豊富にある。
家臣団を挙げると、23名の譜代衆が上南摩村内に存在し、居住地も村内ほぼ全域に渡っている。
それは、大貫、石川、久保田、広田、青木、落合、安生、奈良、駒場、湯沢など主要な名字を網羅している。
また、その中に家来筋と言われる5家があり、これが南摩家臣団の中核をなしていたものと思われる。南摩家から麻、綿、漆の色成を免除されており、譜代衆の中でも1ランク上の位置づけであった事が分かる。
これらの事から、南摩家は、上南摩村をほぼ全域治めていた小規模領主だった事が分かる。
・南摩家のその後
戦国時代の終わりと共に、南摩家による南摩支配も終わった。綱善は南摩に帰り、慶長3年(1598年)に死去した。
子の泰綱は江戸期、鳥居忠政に従い、岩城藩10万石に移った。元和8年(1622年)に山形藩22万石に加増。
次代の鳥居忠恒が寛永13年(1636年)に跡継ぎのいないまま死去すると所領没収。異母弟・忠春が高遠藩3万石を賜るが、南摩俊綱は浪人したことだろう。
しかし、俊綱は幸運にも、寛永20年(1643年)保科家に仕えて、会津で550石を給された。
藩主の保科正之は、1536年まで高遠3万石にいたが、鳥居家山形藩没収によって山形藩20万石を賜った。高遠3万石に転封された鳥居家とチェンジしたも同然。藩主も幸運の持ち主であった。1642年には、会津藩23万石を賜る。
そこへ南摩俊綱は仕えたのだ。浪人があふれかえるこの時代、会津藩士として仕官できるのは、並たいていの事ではない。以後、会津藩家臣として幕末を迎えるに至る。
しかし、南摩家による南摩支配は終わったものの、江戸時代を通じて、南摩当主と南摩農民(旧臣)との関係は維持されていた。
正徳3年(1713年)の資料によれば、会津に移った南摩家は勤番で江戸に行く事があり、勤番を終えて岐路に着く途中に、上南摩に立ち寄る事を旧例としていた。
会津に移った後も、数年に一度は上南摩村を訪れ、菩提寺であった広厳寺や城山を訪れ、所縁を確認していたのだ。さらに、帰農した旧臣らと主従関係を再確認していた。
文化元年(1804年)には南摩数馬が上南摩村に迎えられて来訪した。
弘化3年(1864年)には、南摩綱善三百回忌の法要が上南摩で催され、会津藩士・南摩舎人助とその次男の参加があった。
明治維新の時に帰農したが、明治30年頃に東京に転住したという。
・その他の南摩家の人物
・南摩重綱
主計頭。南摩綱善らとの関係は不明。
年欠、正月29日の書状で、佐八掃部宛てに祈祷の礼を述べ、今後毎年の代参を以来している。
花押は明朝体だが、綱善、綱之とは異なるので別人か。
・南摩綱之
主計頭。綱善、重綱らとの関係は不明。重綱と同じ「主計頭」を名乗っているので、親子か同一人物の可能性がある。
年欠の11月廿日付け書状で、佐八神主に祈祷、土産の礼を述べた。また、同じ日付の書状で、米一駄を進上している。
また、御師佐八が、自分の檀那とそこに納める土産を記した「下野国檀那之事」の「鹿沼之分」の中に、「南摩備前守」(綱善と思われる)、「同上様」(綱善の室)や、「南摩孫四郎」の名が見える。
また、天正12年8月18日付けで日光山の堂行堂に、「南摩おつほね(局)」が念数一連を奉入したと堂行堂施入帳に記されている。綱善の室か、母だろうか。
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