宇都宮家臣団
西部 方面





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飯岡惣左衛門尉
いいおか そうざえもんのじょう


 宇都宮家臣。府郡城主。現・鹿沼市府所。符部城ともある。
 黒川東にあり、壬生家の鹿沼城に対する最前線の城を守っており、宇都宮家と壬生家の攻防の舞台となっていただろう。壬生家の攻撃に真正面から晒されることになる。

 「大日本名蹟図誌」には、天正4年(1576年)3月に築城し、15年在城したが、天正18年(1590年)74日に、結城晴朝により落城したという。という事は、小田原合戦時は、府所城は壬生方へ付いていたという事になる。
 「菊沢村郷土誌」にある伝承によると、飯岡惣左衛門尉が多くの人夫を用いて一夜で城を築いたという。
 「上都賀郡誌」では、城一帯を「出城」といい、鹿沼城の出入り口のひとつとなっていたとしている。
 また、「栃木の城」では、宇都宮家がこの城を足場に鹿沼城を攻め落としたとしている。
 これらはすべて史実とは言えないが、これらを繋ぎ併せれば、なんとなく歴史がつながる。

 天正4年(1576年)に、宇都宮国綱の命で飯岡惣左衛門尉が府所に築城し、鹿沼城への喉仏に突き刺した格好になった。壬生が攻め落とせば、鹿沼城へ入るルートにもなり、また天正期に宇都宮家が鹿沼城を攻め落とした時は、おそらくこの城も足場にしただろう。
 やはり、攻防の舞台となっていたと推測できる。しかし、鹿沼城とはあまりにも近すぎる。激しい争いになる事は火を見るより明らか。宇都宮家の築城根性あっぱれ。
 「鹿沼の城と城館」によると、府所城の遺構を見ると、宇都宮系の城と酷似する点が多い事から、築城自体は宇都宮家か飯岡惣左衛門尉によると推測している。
 現在では城山と言われた水神山は近年までグラウンドとして利用され、周囲に掘も残っていたが、宅地造成で山ごと完全に消滅しており城の面影は無い。


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飯田民部助 いいだ みんぶのすけ

 宇都宮家臣。飯田城主。現・宇都宮市飯田。
 「那須記」によると、太鼓奉行とある。さらに注釈には自出があり、清和天皇の第6王子貞純親王嫡子経基の7代あとの飯田太郎実信の末葉という。


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石川五郎兵衛 いしかわ ごろうびょうえ

 宇都宮家臣。
 天正10年(1582年)411日付けで、宇都宮国綱から戦功を評す感状を受け取っており、その写しが残る。
 文面は以下の通り。

「今度古賀志表において、十郎自身手を砕き防戦せしめ候ところ、同心いたし相動くの段、粉骨比類なく候、向後なおもって戦功抽すべき事もっともに候状件の如し、」

古賀志は、宇都宮家臣・北条松庵の所領があり、武子川から宇都宮市にかけての地域。この地域では当時、壬生との合戦が激化していた。
 十郎というのは芳賀当主であろう。芳賀勢が防戦していたところに石川五郎兵衛が合力し、戦功を上げたと思われる。

 太沢弾正左衛門尉に宛てた同内容の書状も残る。

 なお、鹿沼の石川城主・石川内膳正との続柄は不明。


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石川内膳正 いしかわ ないぜんのかみ

 宇都宮家臣。石川城主。現・鹿沼市上石川にある。
 「那須記」に、天正4年(1576年)に多気山城築城時に宇都宮国綱に従う者として、「石川内膳正」の名が見える。
 そこにある自出注釈によれば、清和天皇の7代目・義家の子・義国の弟、石川左兵衛尉義の末葉という。

 「栃木県の歴史」によれば、石川家7代目の因幡守の時に石川館に拠り、天正19年(1591年)に石川館を離れて、「安良居地」に幽居したという。そして、因幡守の嫡子・四郎右衛門の弟「越前」が慶長7年(1602年)に石川館跡へ移住して堀ノ内と改めたという。現在も城域に石川氏の御宅が数件ある。
 石川城の東側にある「荒屋敷」、「永林寺」が、「鹿沼の城と城館」で掲載されている。石川氏の御宅がある事から、何か関係がある可能性がある。
 また、「鹿沼名義考」によると、文政年間に、石川堀ノ内から古銭が出土したという。
 戦国期は、茂呂城や千渡城と共に、壬生家に対する重要な防衛ラインだった。それゆえ、壬生家との合戦の際には、必ずと言っていいほど出陣していただろう。


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石川新五郎 いしかわ しんごろう

 宇都宮家臣。
 「那須記」に登場する、石川内膳正の弟。宇都宮家に背いた壬生家の鹿沼城(徳節斎が城主)を攻めるときに、敵が大勢である事から、諸将の軍議で鹿沼城内の進退を確かめ、聞かねば鹿沼城を攻めると決定した。その使者に選ばれたのが石川新五郎である。
 大事な使者なので初め辞退したが、若年だが老士に勝るとの評価を受け、単身敵の鹿沼城に乗り込み、徳節斎に宇都宮国綱の意向を示した。
 徳節斎が、自分を引きずり出し討とうというものであろうと言うと、これに対して新五郎は「国綱ほどの大名が偽って人を討つなどあろうはずがない」と言い、宇都宮国綱の面目を保ち鹿沼城をあとにした。

 これに国綱は喜び、新五郎に犬垣郷のうち国屋村矢柄八分を与えた。これが、天正4年に多気山城を築城して鹿沼を攻め落とす要因となる。


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市田備中守 いちだ びっちゅうのかみ

 宇都宮家臣。茂呂城主。師城、下茂呂城とも。
 「那須記」によれば、大比良義次らと共に多気山城の普請奉行になっている。そこの注釈に拠れば、烏丸大納言家臣の末裔という。
 現・鹿沼市茂呂に茂呂城があった。市田備中守の名は、「宇都宮記」や「那須記」など、多数の軍記物にも見える。
 
 「那須記」の鹿沼城落城の場面では、「先陣は小林豊後守、市田備中守承て打ち出ける」、「手なみのほど見せんと大勢にて破って入り、火花を散らし戦いける」や、突撃したのちに人馬疲れ果て打ち負けて黒川沿いに退き、宇都宮勢は「市田討たすな」と突撃する場面もあるなど、かなり威勢の良い登場の仕方をしており、壬生家に対する戦で相当活躍していた人物と思われる。

 同書・壬生城落城の項での宇都宮と壬生の合戦で、鬼神と言われた壬生家臣・竹間兵吉が討たれたあとに戻ってきた、父の竹間源五を討ち取っている。

 「日本城郭全集」では、茂呂城は鎌倉期に築かれ、戦国期に手を加えられたこと、市田家は代々備中守を世襲した事が述べられている。元亀年間に築城説があるが、その時に拡張工事を行ったのだろう。


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宇賀神新八郎 うがじん しんぱちろう

 宇都宮家臣。千渡城主。宇加地。
 「那須記」に、「千渡城主 宇賀地左京助」が見えるが、新八郎と同一人物と見てよいだろう。注釈にある自出によると、宇多天皇の8代目佐々木源三秀義の次男に三郎盛綱がおり、さらにその長男・加地太郎信実の8男・八郎左衛門信朝から数えて3代目の宇加地次郎有朝の末葉だという。
 いつの時代からか分からないが、本姓の加地に、「宇」の字を付けて、宇加地となったようだ。これは宇多天皇によるものなのか、宇都宮家から拝領したものと思われる。
 壬生家臣にも宇賀神隼人など、同じ姓の者がおり、元は同じ一族と考えられる。
 宇賀神(宇加地)家は、元は越後国にいた。観応の擾乱後に抜群の戦功のあった芳賀高名は、越後守護代を賜った(宇都宮氏綱が越後守護職)。そのとき、越後在地領主で、芳賀家に被官化したのが宇加地家である。芳賀家が下野に戻ると共に、こちらに移り住んだ。


 「那須記」に、天正4年の多気山城拡張後に多気山城の4方向に置いた番頭として「千渡ニハ宇賀神新八郎」とあるので、多気山城の出城として重視されていた。それだけでなく、茂呂城、深津城などと共に、対壬生家への重要な防衛ラインとして機能していた。
 千渡城(上城址とも)は1590年以降廃城となり、城主の宇賀神家は城の西側の西窪に帰農した。現在、宇賀神姓は千渡、茂呂など広く分布している。

 江戸時代になると城跡は荒れ果てたので、千渡の領民が、山の裏にある下飯田(現・宇都宮市)から宝性寺を千渡城跡に移させた。一説には、千渡の領民の威勢が良く、飯田から引っ張って来たという。飯田の領民からすれば、いい迷惑ではなかっただろうか。
 千渡城は北に山を背負い、南に緩やかに傾斜している台地にある。現在の方性寺は本丸跡で、実際は宝性寺周辺の水田から武士川まで続く、相当広い城域だったと推測する。


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小池内蔵助 こいけ くらのすけ

 宇都宮家臣。石那田城主。「宇都宮記」には小池内蔵介、「那須記」には小池大内蔵助として、宇都宮国綱に従う者として名が見える。
 所領は日光市にほど近い、宇都宮市石那田町周辺であろう。


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大橋兵部丞 おおはし ひょうぶのじょう

 宇都宮家臣。篠井城主。
 「那須記」には、「志野井城主 大橋兵部掾」ともある。篠井は日光市に近い位置にあるが、ここは宇都宮家の勢力だったようだ。
 しかし、宇都宮勢力と壬生勢力の間を鞍替えしていた木村家が、昌誉(日光山門徒?)から石那田郷を賜っているなど、宇都宮市北部は、宇都宮、壬生、日光3勢力の領地が入り乱れていたようだ。



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金沢兵庫頭 かなざわ ひょうごのかみ

 宇都宮家臣。多気城に隣接した、周辺の小領主と思われる。宇都宮市下荒針町に金沢の地名が残る。

 「那須記」に自出が注釈で記されており、桓武天皇の14代目、江馬四郎義時の六男に金沢五郎実泰がおり、その五代あとで武蔵国に住んだ金沢五郎貞時の末葉であるとしている。
 また、同書にある天正4年の多気山城拡張後に多気山城の4方向に置いた番頭として「多気の荒九鬼の城に兵庫守被入置」とあるので、多気山城の出城番頭になったようだ。麦倉民部丞が城主だったはずだが、入れ替わっている。交代制にしたのだろうか。

 他の番頭城主は福岡、千渡、田野で前線を守っている事から、荒九鬼城は荒針(宇都宮市大谷町荒針)にあったと思われる。
 大城郭の番頭に抜擢されるのだから、相当重要なポジションだっただろう。
 なお、「宇都宮記」には「倉沢兵庫頭」とあるが、誤記と思われる。


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小林豊後守 こばやし ぶんごのかみ

 宇都宮家臣。深津城主。鹿沼市深津にある。
 
「那須記」の天正4年(1576年)に宇都宮国綱に従う者として名が見える。また、「宇都宮記」には「源沢(森津)城主 小林豊後守」とある。
 軍記物に多く名が見え、宇都宮勢の先手を仰せつかったり、戦での働き様が記されてあったりと、石川内膳正と共に、戦功が評されている人物である。
 「栃木県史」には、鎌倉時代以前に深栖家が拠った館が廃されたあとに小林家が城館にしたとの推測を掲載している。また、「北犬飼村郷土誌」によれば、永録年間に、宇都宮家臣の小林豊後守が築き、慶長2年(1597年)の宇都宮家改易時に廃城となったという。

 いずれも史実とは確認できないが、宇都宮家臣・小林豊後守が深津に城郭を据えて領主化していったとすれば、おおよその事は合致しているように思われる。
 現在、城内と伝わる範囲には城主のご子孫宅が何件かあり、土塁や堀が残っているが、破壊された部分もかなり多く、「鹿沼の城と館」によると、地籍図でも復元は困難だという。
 
 ちなみに、深津城のすぐ東に犬飼城がある。かなり隣接しており、城郭の防御方向や南側に姿川が流れている事から考えて、宇都宮家の壬生方面への防衛ラインと見える。南側の数
km先は壬生領である。城の造りから、戦国期の宇都宮系のものだという。
 なお、戦国期の犬飼城主は不明。


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戸室惣左衛門 とむろ そうざえもん

 宇都宮家臣。宇都宮市大谷町戸室の地名から見て、多気城に隣接した周辺の領主と思われる。「那須記」に、天正4年の多気山城築城時に従っている武将の一人として記されている。


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福田右京助 ふくだ うきょうのすけ

 宇都宮家臣。小池城主。宇都宮市上小池、下小池町周辺の所領と思われる。
 「那須記」の出自には、仁王55代目文徳天皇の第7王子に右大臣・源能有がおり、その17代あとの福田帯刀康射の末葉という。
 「宇都宮記」には福田左京助とある。どちらが正しいかは不明。


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麦倉民部丞 むぎくら みんぶのじょう

 宇都宮家臣。多気荒九鬼城主。多気城周辺の小城主と思われる。城の所在は不明だが、荒針にあったと思われる。
 「那須記」に、天正4年の多気山城築城時に従った城主として、

・荒九鬼城主 麦蔵民部
・同所    金沢兵庫守
・同所    戸室惣左衛門尉
 とある。荒針、金沢、戸室は多気山と隣接しているため、その可能性が高いのである。荒九鬼城は天正4年の多気山城大改修で出城になった。


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山崎丹波守 やまざき たんばのかみ

 宇都宮家臣。上師城主。
 上茂呂城は、現・鹿沼市茂呂にあった。茂呂山東の台地に地名「堀ノ内」があり、ここが城跡と思われる。
 ここは、茂呂城や深津城よりも壬生領に近く、最前線にある城館である。


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山野井将監 やまのい しょうげん

 宇都宮家臣。壬生町の小林城周辺の領主と思われる。
 「皆川正中録」で、1491年に宇都宮忠綱が鹿沼を攻めた上野台合戦で、宇都宮家臣として登場する。
 両軍昆着状態の中、鹿沼勢の大将・鹿沼右衛門尉教清が踊りでて宇都宮勢を討ち散らしているところへ、剛の者・山野井将監が進み出で、丸さ6寸、長さ9寸の樫の棒で鹿沼教清の馬の足をなぎ払い、落馬した教清の首を討ち取ったという。
 しかし、その刹那、鹿沼勢の襲田五郎左衛門尉に討ち取られてしまった。
 鹿沼教清の討死により、宇都宮勢の勝利となったが、この内容は「皆川正中録」の物語なので、信用性は薄い。
 山ノ井丹波守と同族であると思われるが続柄は不明。実在の人物かどうか不明。


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山ノ井丹波守 やまのい たんばのかみ

 宇都宮家臣。小林城主。小林城は、現・壬生町の北小林にあったと思われる。天正期、この辺りまで宇都宮家の勢力下になっていた事は興味深い。

 「那須記」に自出が記されており、宇多天皇の8代あと佐々木源三秀義の子・定綱の8男・山中十郎頼貞の末葉であるとしている。

 同じ項に、宇都宮勢が徳節斎と戦う模様が書かれており、そこに山野井左京助(宇都宮記では、山野井左兵衛介)が登場する。山ノ井丹波守と同一人物であるかは不明だが、宇都宮国綱が、「市田備中守(茂呂城主)、山野井は近辺なれば・・・」と言っているので、左京助は、丹波守か、その一族と思われる。


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