壬生家の起こり




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 戦国時代の壬生家の自出は諸説あるものの、比較的有力な次の3つに大別した。

1、宇都宮家からの入嗣説。
2、氏族制時代の、乳部の君の末裔。
3、京都公家の下野下向説。






・はじめに、「宇都宮家からの入嗣説」

 世間でよく耳にするのが、宇都宮家庶流・横田系図にある、横田親業の子・朝業が「壬生三郎」を称しているものである。
 しかし、早世とある。
 生年を考証すると、1295年前後〜1310年前後の人物になる。早世とは、幼少の時に亡くなったとは限らない。子を成さずに亡くなったときも、早世とされる場合がある。
 壬生三郎と名乗っている事から、壬生姓は継いだと思われる。よって、壬生家はそれ以前に存在したのである。しかし、早世とあるので、宇都宮系が室町〜戦国時代まで続いた事にはならないのである。

 また、壬生胤業の「業」は横田家の通字であると考えられるという。しかし、これは不確定である。「業」の字は誰でも名乗れると言われればそれまでであろう。
 また、「胤」の字を君島家の通字とする説もあるが、これも同じく全く根拠にならない。


・私見の説

 初代・壬生胤業は謎の多い人物である。彼の所業がはっきりせず、文書も一通も残されていない。「胤」は「はじめ」を意味し、「業」は「なりわい、所業」との解釈もできる。これは、新たな壬生家の出発を意図した後世の送り名ともとれる。壬生胤業は架空の人物であったように思えてならない。

 すると、壬生綱重はどの家の子息かという問題が出てくる。

 横田の出というのは有名な仮説であるが、何度も横田家から養子を迎えているのもおかしな話である。戦国初期に、武茂、西方家(または鬼怒川以西の宇都宮重臣)から入嗣したと推測する。


 根拠はほとんど無いが、簡単に述べる。戦国直前、武茂家の権力は芳賀家と双璧を成すほど凄かった。それまでに壬生家が絶えていれば入嗣も可能だろうが、当時の武茂家に当主はいない。武茂太郎(芳賀成高の子)は、宇都宮家を相続して宇都宮正綱となったので、当主は途絶えてしまったのだ。それよりも、西方家のほうが可能性は高い。壬生のすぐ隣で近い位置にある。しかも、西方家は武茂家から別れた支族である。
 
 また、鹿沼市上田町に、一向寺(現在は廃寺)があった。一向上人の開基で関東五向寺のひとつ。一向寺は宇都宮城にもあり、宇都宮家の強い庇護を受けていた。その末寺と思われる。宇都宮7代・景綱から、武茂家代々、宇都宮正綱、成綱など、武茂系の人物は一向寺に深く帰依しており、壬生家が鹿沼城の目の前で、これを庇護していたということは、武茂系の出身という有力な根拠となりうるだろうか。
 1287年には存在し宇都宮街道の北にあった。それを鹿沼城主・壬生家の庇護で上田町に移動し常念仏を行っていたが、1590年に壬生家が滅亡すると荒廃してしまう。



 また、鬼怒川以西の出身と考えたのは、戦国初期に壬生家が増長してきた時には、芳賀、益子、塩谷らと対立している事である。鬼怒川以西に根付いた宇都宮重臣は、ほとんどが宇都宮一族である。そして、鬼怒川以東は芳賀、益子、塩谷、君島など宇都宮一族ではない外来種が多い。
 壬生家が鬼怒川以西の重臣とは、ほとんど対立が見られないというのは、宇都宮一族(多功、今泉、譜代など)からの出身という仮説も十分にあり得る。

 戦国直前、宇都宮成綱の時代に武茂家臣らの増長ぶりは目の余るものであった。武茂家の征討、衰退を経て、戦国初期の宇都宮成綱と芳賀高勝の一連の対立で、壬生綱重が戦功を上げ、重用されるようになったとの見解もある。武茂―西方の流れで先年の仇を果たし、戦功によって西方家から独立して、宇都宮家の直臣となったとも思える。これは推測の域を出ないが、横田やら君島などと言っていては、埒が明かないのである。
 もし西方家の出だとしたら、壬生綱重の生年1448年という事から考えて、西方綱貞の子であろうか。宇都宮成綱の時代に、壬生綱重は初老にさしかかっていた事になる。


 これらは即興で立てた説であって、今後の研究課題としたい。


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・次に、「氏族制時代の、乳部の君の末裔」という説を挙げた。

 「乳部の君」とは、氏族制の時代にいた部属である。この乳部が訛って「壬生」になったとも考えられている。

 第10代崇神天皇の長子・豊城入彦命(とよきいりびこのみこと)は、天皇の命により東国鎮護の任にあたり、その後、下野国の君(朝臣)となった。その子孫が下野に広がり、乳部(=壬生部とも、読み:にゅうべ)の君も発生した。これはおそらく壬生の地であろう。
 これが豪族として一定の勢力を持っていたが、戦国時代の壬生家まで続いたとは到底思えない。

 その間には、平安末期〜鎌倉時代に勢力を増してきた宇都宮家の存在がある。宇都宮家は、初期の勢力拡大で、周辺地域に一族を配置、または豪族を取り込み、下野の大勢力になっていった。
 その過程で、乳部の名跡を一族の某に継がせたとしてもおかしくはない。そして、都賀郡の抑えにする。その取り込みの時代は、横田系図にある「壬生三郎」の生年1300年前後より以前と思われる。入嗣する事が出来るのは、宇都宮家の影響力が大きくなっている事になる。


・南北朝期、壬生某の存在が確認される文書がある。

 真岡市寺内の荘厳寺にある不動明王の中から、ある文書が発見された。そこには「ミふ殿」と記されており、時代は南北朝時代の願文という。他に、小山、中里(真岡市中)、小沢(茨城県つくば市)、小栗(茨城県協和町)など、周辺地の在地領主と思われる名が多数見られる。
 これは、不動明王などの仏像の解体修理を行った時に、体内から大量の印仏が発見された。印仏とは仏の画像を大量に推した紙で、用紙には書状の反故紙が用いられたので、本来は捨てられるべきものだった。
 この印仏は貞和5年(1349年)に行われているので、それ以前の文書であろう。

 次いで、「日光山祖列伝」の応永元年(1394年)に、日光山の第37代御留守権別当に就任した昌は、壬生家の出身であるという記述もある。


・以上の事から、南北朝時代〜室町時代には壬生家の存在が確認できた。

 これは年代もほぼ繋がることから、同一の系統としてよいであろう。そして、一地方領主として存在していたと思われる。
 また、一族の中から日光山座禅院主も務める者がいるという事は、少なからず、日光、鹿沼地方にも影響の及ぼしていた事は想像に難くない。

 しかし、この系統が戦国時代の壬生家に直結しているとは言いがたい。あくまで、壬生に拠った壬生家が存在していた事実が確認されたにとどまる。また、宇都宮系から出たとの説もこれでは確定できない。
 宇都宮家の影響力が、少なからず及んでいた事実がうかがい知れる程度である。


 そして、壬生一族という昌瑜の登場から、戦国期の壬生家が登場するまで約100年の空白がある。


※「乳部」は、氏族制の時は文字の使用が無く、単に言葉で「にゅうべ」と言っていた。文字の伝来後、乳部、入部などと、適当に当てはめられた。これが壬生に訛ったという。美夫とも。
 この部続は、貴族の子弟に乳をささげ、または産湯をつかったり、禊の手伝いをする役である。簡単に言えば乳母であり、保育官、貴族の者に接した。よって、皇族、地方の有力な豪族、外戚から成る名誉の部族である。

 京の壬生、武蔵の秩父もこれに関連するという。


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・「京都公家の下野下向説」では、壬生胤業は京都の公家・壬生官務家(小槻家)の後裔という。
 家伝では寛正3年(1462)に、公家ながらも武芸を好む壬生胤業が下野国都賀郡に下向して、武家を興したという。
 そして、壬生城築城について、「寛政三年、壬午十月、壬生筑後守胤業はじめて築く、壬生氏住するに依りて、当初を壬生を云、古名は上ノ原といいし所なり」という。


・仮説の根拠を述べる。

 上記のように、豊城入彦命の子孫が下野に広がり、乳部の君も発生した。そして、豊城入彦命の弟で皇位を継いだ第11代垂仁天皇の皇子・於地別名(おとわけのみこと)の後胤が小槻を称した。戦国期に壬生胤業が来たのも、これに機縁するとされる。
 さらに下野壬生の地は、慈覚大師円仁の生まれた地であり、円仁は下野の壬生(乳部)家の出身といわれている。近くに東大寺の寺領も存在する。
 壬生胤業の父とされる壬生晴富が、奈良東大寺の造営次官も兼ねていた事もあり、京の壬生官務家(小槻家)がその縁所である壬生領に入ったというのだ。


・しかし、この下向説の可能性は低い。

 この説は、否定する理由が多い。
 本来、壬生官務家(小槻家)は、平安時代末期から宮中の左太夫(書記官)を代々世襲してきた中級貴族の家柄である。家領も少なく、遠国の下野に根付けるような状況ではない。
 筆を執る事を職業としている公家が、武芸に好むとは到底思えない。武家とは住む世界が違うのである。武辺者の異端児お公家様が発生する可能性は無いでもないが、これは想像の域を超えているので割愛する。
 また、平安末期、鎌倉、南北朝という戦乱を経て、数百年前の東大寺領は横領されずに、果たして保障されていただろうか

 京の戦乱を逃れて地方に逃げた公家は数多おり、各地方ではそれなりに処遇が良い。壬生官務家ほどの名家ならば、下向すれば壬生御所と呼ばれてもおかしくはない。そして、周辺豪族や民衆から敬われるはずである。 しかし伝承では、壬生城は小規模(胤業の時代は)、さらに、壬生家は宇都宮家の下で勢力を持っていたという。
 これは奇怪である。宇都宮家は名家であるが、戦国時代直前の宇都宮家には壬生家を支配するほどの力は無い。

 
 それに、戦国期の少し前に下向してきたならば、京の壬生官務家と手紙や交流があっても良いのではないか。戦国時代の壬生官務家には、下野に関する文書は全く無く、系図にもあやふやな点が多く、
2代目綱重以降の当主も生年がはっきりしない。
 初代「胤業」の名も、「彦五郎」の名も、壬生官務家の系図には見られない。

 壬生家は滅亡したとはいえ、名家にあらざる系図の杜撰さも、御下向説の否定要素となるであろう。

 壬生官務家は、豊臣秀吉による小田原征伐後に下野に立ち寄った。壬生官務家の者は、壬生を名乗る大名が下野におり、北条に味方したて滅亡した事を、そこではじめて知らされたという。滅亡の危機に瀕するような重大な事項を、京都の本家に知らせないはずは無い。

 これらの事から、戦国時代は壬生官務家と、下野の壬生家は無関係と思われる。


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・結論

 壬生領主の歴史としては、ある程度の仮説が成り立つ。

 太古より乳部という部族が壬生におり、それが豪族化した。鎌倉時代に入ると宇都宮家の勢力拡大に伴い、影響力を及ぼしてくると、傘下に入り、時には養子も受け入れたかもしれない。ここまでは、乳部の系統は続いていたといってよいだろう。
 そして、文書が確認される1300年以降室町時代を経て、一族から日光山の権別当を務める者も出て、1400年代初期まではこの系統がいた事は推測できる。
 この時点で壬生家は、宇都宮家の勢力下に置かれていたであろう。


 しかし、戦国期の壬生家が、太古の乳部の跡目を継いでいるかは定かではない。

 その後、

・上杉禅秀の乱(1416年)
・永享の乱(1438年〜翌年)
・結城合戦(1441年)
・享徳の乱(1454年〜1482年)
・長享年中の大乱(1488年〜1505年)
・古河公方の内紛(1506年〜)

 という大乱続きの関東の中で、壬生家の動向も存在も不明になる。これでは判断のしようが無い。

 宇都宮家中は、古河公方の内紛に影響を受けている。宇都宮錯乱(1512年頃)によって芳賀高勝が討伐され、芳賀家の戦力は約半分になったといってよい。
 そこで彗星のように壬生家が登場し、宇都宮家の「宿老」となっている。そして、室町時代までにいた壬生家との関わりは分からない。
 室町期から壬生家は続いていたかもしれない。

 または、それまでの壬生家は絶えていて、壬生領は宇都宮家直轄となり、戦国期になって新たに壬生姓を名乗る者が宇都宮家の一族か臣から出て、再度壬生を領したとの推測も立つ。

 ただ、突然配下になった外様の臣が、家中最高幹部の「宿老」になれるはずがない。よって、戦国壬生家2代目・壬生綱重は、宇都宮家に近しい人物と見て良いだろう。

 壬生3代目・壬生綱房が宇都宮家から独立するために、遠祖に小槻今雄を定めたのは周知のこと。壬生胤業の時代に、はるばる近江から壬生に雄琴神社を誘致したというのも、壬生綱房による故事付け政策の一環だった可能性が高い。そして、「雄」の字を、嫡男の壬生綱雄に名付けている。代々壬生家は、宇都宮家から「綱」の字を拝領していたが、これにより宣戦布告したと言ってよい。

 戦国壬生家の生い立ちがあまりにも不鮮明なため、後世の研究の対象にされ、公家下向説などほとんど否定されている状況であるが、当時の武士たちは系図改ざんなどは当たり前である。
 系図は、状況によっても、金によっても変えられる。壬生綱房は、戦国乱世の下克上という野望のために、壬生家の独り立ちという状況を成り立たせるために家系を変えていったのではないだろうか。



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・小山家の出という説もある。

 これは、物語の「皆川正中録」のみで言われている事であるが、その根拠は全くない。
 史実では、室町後期の宇都宮家衰退期に、小山持政が宇都宮家を後見していた時期があった(1456年〜1470年頃まで)。そのときに壬生領を横領したか、壬生綱重が小山持政に従っていた可能性もあるが、その仮説を成り立たせるだけの根拠が見当たらない。
 しかし、小山家の影響下になっていた可能性はある。



・文書、情勢から壬生領の支配者を考察してみる。

 1460年〜1470年頃の小山持政の時代は、壬生の周辺地域は小山家の影響下に入っていたといって良い。
 鹿沼市大和田、下野市細谷、家中などの所領のやりとりが1471年の書状で明らかになっており、これらは、現・壬生町の周辺になっている。このあたりは犬飼郡の中にあり、家中郷と呼ばれていたようだ。すると、この頃は、あまり「壬生」と呼ばれていない可能性がある。
 以下は、「壬生」ではなく、あくまで「壬生周辺地域」についての情勢である。壬生の周辺地域に関する書状と周辺事情を並べると以下の通り。


 1411年、宇都宮持綱(13代)が、西刑部郷平塚村の代わりに、西方内大和田郷(鹿沼市大和田?)半分を一向寺に寄進、諸役を免除。

 1423年、宇都宮持綱が足利持氏と対立して、塩谷教綱によって殺害される。子の宇都宮等綱は流浪して、足利持氏が1539年に死去して宇都宮城に復帰。その間、武茂綱家が宇都宮城を切り盛り。

 1425年、右兵衛尉(芳賀成高?)が大和田郷一町分を一向寺に寄進。

 1441年、結城合戦。宇都宮、小山は共に幕府方。小山持政は下野守護に復帰。

 1454年、享徳の乱。鎌倉公方・足利持氏は関東管領・上杉憲忠を殺害。持氏VS上杉の構図。宇都宮等綱は関東管領上杉、幕府方。小山持政は足利成氏方。

 1456年に、宇都宮等綱は、古河に移った足利成氏に攻撃され隠居。あとを継いだ宇都宮明綱は、小山持政の後見を受けるが、明綱は1563年に死去。宇都宮正綱も、足利成氏方として転戦する。

 1466年、宇都宮正綱は、どこかの所領を一向寺に安堵した。

 小山持政は1460年、1466年、1468年、1471年の4度、「寝返れば恩賞を与える」との要請を、幕府方(足利義政)から受けている。窮地に立たされ、1471年に幕府方に寝返った。その恩賞が、以下の二通と思われる。

 1471年、小山持政が、家中郷大和田村を白河直朝に与えた。それまで同地は、小山家の影響下である土豪・細井中務丞(下野市細谷)の所領だった。

 1471年、片見政広(小山持政の家臣)が、大和田郷のうち、中わた(現・家中町?)だけは、片見に任せてほしいと、白河直朝に依頼した。

 1471年直後に小山持政は死去。小山家は、山川家より養子を迎えるが、凋落の一途をたどる。

 1486年、宇都宮成綱が、成高寺に茂呂山(鹿沼市茂呂?)を寄進。

 1503年、宇都宮成綱が、犬飼郷の下稲葉郷(壬生町)大井出郷(西方町家中)、下平出(宇都宮下平出)を成高寺に寄進。

 1504年、沙弥長胤(宇都宮成綱)が、下稲葉郷を成高寺に寄進。

 1508年、大蔵(不明)が願主になり、今宮権現に大般若経を奉納。壬生綱房の遷宮より以前なので、押原御所(御所の森)時代か?

 1508年、藤原元綱(不明)が今宮権現社殿を新たに建立。壬生か、宇都宮系の人物と思われる。

 1509年、連歌師宗長が、鹿沼を訪れる。すでに、鹿沼の館主は「筑後守綱重」、壬生の亭主は「中務少輔綱房」。このとき壬生綱重は、大平ー壬生ー鹿沼ー日光ー下横倉を安全に移動できる身分。

 1521年、芳賀高孝が、酒谷(鹿沼市酒野谷)の東音寺を、成高寺に寄進した(加園・東園寺との誤記の可能性もある)。



 以上の状況を見ると、
 1425年までは、大和田郷(鹿沼市南部)は宇都宮家の勢力下にあった。西方、家中などとあるのは、その時代での勢力配属先を言うのであろう。
 1430年代〜1450年頃までは宇都宮家の勢力下であると思われる。
 1456年に宇都宮等綱が敗れて、宇都宮明綱が小山持政の後見を受ける事になった頃、壬生の周辺は小山家の影響下になったと思われるのだが、それについて貴重な情報がある。
 瓦井左京という宇都宮家臣は、上田村(壬生町)字内森に住していたが、1461年に宇都宮明綱の鷹狩りに同行した折「池ノ森に移って一村を建てるように」と命じられ、池ノ森村(鹿沼市)の開発に着手したという。同年に日吉神社を勧請し、同村の鎮守とした。

 これは、壬生周辺が小山支配下に入ったからであろうか、それとも宇都宮家が鹿沼南部の支配を固めようとしたからであろうか。宇都宮家の衰退様を見れば、前者の説が有力であろう。また、すでに否定しているが1462年に壬生胤業が下向して宇都宮正綱に従ったというのは虚実であろう。その時の宇都宮当主は明綱であり、このような凋落ぶりでは、下向した壬生家を庇護することは到底無理である。

 1471年に小山持政は、幕府から恩賞として大和田郷を与えられた。これはとても広い範囲で、家中郷というのは、現在の鹿沼市南部〜家中町〜下野市細谷辺りまでと思われる。ここに当然、壬生町も入っていると思われる。このときに壬生周辺は、小山持政の所領となったようだ。
 しかし、すぐに持政は死去し、小山家の屋台骨が揺らいできた。
 1478年に足利成氏は、上杉家と和睦。
 1482年に足利成氏は、幕府とも和睦。

 この間に宇都宮家に対する小山家の影響力が薄れ、1480年代に鹿沼南部は再び宇都宮領となり、1500年初期に下稲葉(壬生)、家中(西方)、酒谷(鹿沼)の各郷を寄進している事から、1500年代に入ってからは、壬生周辺の地域は完全に宇都宮領になったと解してよい。
 宇都宮家中では、宇都宮成綱が当主。1488年に芳賀高益が死去、権勢を増してきた芳賀景高は1497年に死去。その子・芳賀高勝も続いて権勢を振るうが、1512年に宇都宮成綱により自害させられている。
 壬生綱重は、この時期に芳賀家の娘を娶っている事から、待遇も良かったに違いない。

 ちなみに下稲葉郷や酒谷郷は、後世には壬生家の所領となっている。そして、1509年には、鹿沼、壬生に壬生家が住んでいる。
 これにより、1475年頃〜1500年頃に、壬生に住す宇都宮系の人物が出てきたと推測できる。




・また、蛇足程度に地名由来の仮説も載せる。

 「壬生」の地名の由来は、み=水、ぶ=生える、出る。
 つまり、水が出る地域と推測する。黒川も流れており、豊富な場所という意味である。
 また、小倉川(思川)の西岸に「癸生川」の地名がある。東岸の「壬生」と対する、十干の呼び名だろうか。壬(みずのえ)と、癸(みずのと)と読み、癸生川という姓も壬生家臣に数名いる。地名から姓が発生したという説もここ挙げておく。
 乳部が壬生にいた事はあくまで説であって、地方領主が「壬生」の地名をとって豪族化したとも考えられるのである。



以上。

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