壬生系図いろいろ




 天正18年(1590年)に滅亡してしまった壬生家の系図はまとまりが無く、諸説ある。考証した結果、現代では「下野国誌」にある系図が主流になっているが、それ以外の系図も掲載してみた。史実を追うと、どれも矛盾している事から、参考程度に見ていただきたい。

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「上総介代々」(一色文書)
 南押原村の個人所蔵であったが、現在は所在不明。
 通常の系図類と違って線で結んでおらず、俗名と戒名を箇条書きしている。それを系図で作成したのが以下の図である。



「彦五郎」の名は五代共同。四代目に綱房とある。氏勝に娘が二人おり、芳賀氏妻と今川氏妻というが不明。
「常楽寺過去帳」もこれと同系等のものである。


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「一色文書」

 押原村の一色文書であるが、原本は火災によって焼失。これは非常に分かりづらい線で結ばれており、通常の役図形態にするのが困難である。誤記の部分もあるかと思われるのでご容赦願いたい。



 初代胤業は、天武天皇の末裔、今雄の嫡孫にあたり、彦五郎という。武道を好み、下野に下向、都賀郡壬生に城を築き、筑後守と号す。
・・・とある。
 2代目・彦太郎の注釈に、「次男中務太夫綱雄 大永三年初テ鹿沼城ヲ領ス、天文三壬辰年地名ヲ亀城ト号ス、天文三年ヨリ押原ト号、」とある。
 また、綱房に2人の娘があり、皆川山城守に嫁し隆康の母となる。もう一人は芳賀左衛門佐の妻という。真相は不明。

 この系図は、非常にうかがわしい。


 系図によって相当の違いが生じている。壬生家が滅亡し、後世とても混乱している状態が良く分かる。


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