壬生家臣団





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合羽吉房 あいば よしふさ

 壬生家臣。主計助。

 壬生家盛衰記に「主計之助」が登場し、壬生綱房の臣として働きに秀でたるものとして「房」の字を賜り「吉房」と名乗る。その時他にも、黒川、渋江、高野らも「房」の字を賜るが、徳節斎には沙汰が無かった。この恨みが、のちの謀反につながるらしいのだが・・・
 
 壬生義雄による徳節斎の謀反鎮圧軍にも従軍している。
また、1587年に壬生義雄が、今宮神社を修復した時の奉行衆にも名を連ねている。

 
文献によって「会羽」とするものもある。江戸期に鹿沼城は廃城となるが、合羽家は周辺の名主的役割を勤め、寺子屋も開いていたという。現代は、鹿沼城跡西側に昔ながらの立派な屋敷がある。屋号を西城とし、西城建設という建設会社を営んでおられ、名字は「愛波」と書く。御当主の名は代々世襲で、「伊兵衛」だそうだ。

 合羽、熊倉(東城)、鈴木、福田と合わせて「壬生四天王」とする俗説があるが、それを裏づけできる資料が無く、後世の創作であろう。しかし、合羽家が壬生家の鹿沼支配に大きく寄与した事は疑いない。


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青柳十介 あおやぎ じゅうすけ


 天正7年(1579年)に、鹿沼引田で早乙女藤三郎に討ち取られている。年号から見て、「徳節斎の乱」で徳節斎側に付いたと見られる。
 引田より少し西の地域に住していたと思われる。



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安部源十郎 あべ げんじゅうろう

 壬生義雄が発給した文書に、天正11年9月晦日付けの阿部源十郎宛のものがある。前が欠けていて内容はわからない。おそらく、何かの安堵状であろう。おそらく壬生家臣であろう。


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荒井忠光 あらい ただみつ

 周防守。日光大工。
 天正15年(1587年)丁亥 卯月27日、壬生義雄が今宮神社を修復した時の「日光大工」として名を連ねる。壬生家臣ではないだろう。
 鹿沼の寺社修復、造営などの際、大工として多く名が見られる。荒井(新井)周防守、荒井周防守忠光などの名で記してある。



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稲葉信久 いなば のぶひさ

 壬生家臣。大和守。
 天正15年(1587年)丁亥 卯月27日、壬生義雄が今宮神社を修復した時「奉行衆」として名を連ねる。



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稲葉方久 いなば かたひさ

 壬生家臣。大和守。
 壬生義雄が、徳節斎の謀反鎮圧のために従軍した武将。稲葉信久との関係は不明である。


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板橋親棟 いたばし ちかむね 15??1594

 武蔵板橋出身。北条家臣。壬生家客将。板橋将監。今市板橋城主。板橋親盛の子。常安入道。法名:常安院殿孝誉源忠大居士。


「寛政重修請家譜」によれば、豊島次郎常家の子孫である。まず板橋家の家譜について述べる。板橋姓を称したのは、戦国期の板橋信濃守忠康の代からで、北条家に仕えて武蔵板橋に居住した。文禄3年(1593年)に死去しているから、天正期に活躍した武将だろう。この系譜には将監の名は無い。
 忠康の子・忠政は天正18年(1590年)の北条家滅亡で徳川家康に仕えた。寛永年間以降所領を徐々に加増され、1250石の旗本として近世武家を保った。
 この忠康は、死去した年から考えて、板橋将監の子か孫の世代と思われる。


 さて板橋将監であるが、伝によれば、武蔵板橋に館を構え住み、扇谷上杉家に仕える。やがて北条家の攻勢により扇谷上杉家は滅亡し、親棟は北条氏綱に従ったという。

壬生綱房の請いにより天文年間、下野の壬生家に客将として招かれる。天文期に宇都宮方の遊城坊綱清の板橋城を攻め、居城とする。

以後、今市方面を守備していたと思われる。この方面から見て、宇都宮家と対峙していたのだろう。

1579年、壬生義雄が鹿沼の徳節斎を攻めたとき、親棟は壬生義雄に協力した。ただちに徳雪斎方の猪倉城主・鹿沼右衛門尉を攻めて、戦死させ鹿沼城を占拠した。鹿沼城を落ち延びた壬生徳雪斎を追撃し、討ち取った(徳雪斎は行方不明説もある。死因については諸説あり)。

1587年、宇都宮方の小倉城、倉ヶ崎城を攻め、落城させる。

 また、「上総介代々」(一色文書)文書に、壬生義雄時代の「上総介家来」として列せられている。この部分の記述は三人のみなので、最も信頼のあった者か、子飼の将が記されているのであろう。板橋将監は老将なので、最も信頼の厚い武将という事になる。

 瑞光寺文書の板橋家譜抜書にも板橋家とその子孫の事が記されている。
 1590年の小田原の役には小田原城に入城し奮戦したが、戦は終わり開城する。戦後、板橋に戻って秀吉と家康のもとに恭順し、入道して常安と号した。
 文禄4年(1594年)死去。活躍した年代から考えると、年齢は80歳近いだろう。
 板橋に残る地名に、「じょうあんじ」がある。これは、板橋将監の死後に建てられた常安寺跡と思われる。そして、そこにある数多くの墓石の奥に板橋将監の墓が残る。
 そして、板橋の福生寺には、4代の孫・板橋正氏によって作られた位牌があり、
「常安院殿孝誉源忠大居士」と刻まれている。

 なお、文書に登場する「板橋下野守房好」は奥羽三春城の石川家臣であり、板橋親棟とは全く別家の人物である。



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板橋行常 いたばし ゆきつね 15??1635

 今市板橋城主。板橋将監親棟の子。母は勅使河原氏娘。太郎。加賀守。瑞光寺第13世住職・吉松源良。寛永12年(1635年)死去。


 父・将監は猛将で、しかも対宇都宮家の最前線となる板橋城に拠る行常は、父と共に合戦に明け暮れた日々だっただろう。

 父の死後板橋城にいたが、壬生家も滅亡し、日光山も往来の力を全く失っており、孤立を余儀なくされた。行常は城を出て、母方の武蔵勅使河原家を頼って逃れた。
 瑞光寺文書には、昔追い落とした日光山の遊城坊が追い落としたと記されているが、当時の日光山にも遊城坊にもそんな力は無いので、単なるこじつけであろう。
 
 行常は出家し、のちに荒廃した板橋城に戻ったが、父を弔った常安寺も破壊されていたので、鹿沼玉田の瑞光寺に入った。瑞光寺の第13世の吉松源良が、この板橋行常である。

 子の大隈守行武(行高)は、勅使河原五郎右衛門と名乗っていたが、再び板橋大隈守と名乗り、笠間に移った。そこで仏門に入り、道全入道正高と称す。元和4年(1618年)に死去、笠間鳳台院に葬られる。

 その子・兵左衛門正吉は、当時の城主であった松平丹波守康長に仕えたという。この点は、「姓氏家系大辞典」の系図と「瑞光寺文書」の記述の一致が見られる。


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岩本兵庫助 いわもと ひょうごのすけ

 壬生家臣。
 永禄2年(1559年)1月8日の鹿沼の今宮権現(現・今宮神社)修造にあたり、奉納された鰐口を作った大工。卓越した鋳造技術で、16世紀中ごろとしてはかなりの優良品であるという。
 鰐口に銘があり、裏面右側に「岩本兵庫助」の名が記載されている。表面には問題の「壬生下総守綱長」の名がある。これはおそらく壬生綱雄であろう。この時の鹿沼城主は壬生徳節斎というのが定説である。それで徳節斎も「綱長」に比定される説があるが、1559年であれば綱雄も存命中である。壬生家中で当主である綱雄が今宮権現の修造の主になったほうが自然である。よって綱長は綱雄の事であろう。


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宇賀神隼人 うがじん はやと
 壬生家臣。
 元亀3年(1570年)9月6日、壬生当主から、武運長久の祈願を要望されている。ただし、文書作成は近世とされる。
 壬生当主とは、おそらく壬生義雄で、徳節斎(日光山、宇都宮方)との合戦に望んでの武運長久ではないだろうか。翌元亀2年(1571年)に引田合戦もあるなど、この時期壬生と日光山は対立し、合戦は数度あったと思われる。

 宇都宮家臣の宇賀地新八郎と同族と思われ、壬生家臣にも宇賀地姓がいた事がうかがえる。宇加地新八郎の子孫と思われる方々は、現代ではほとんどが宇賀神姓を名乗っている。
 壬生家臣の宇賀神隼人のような新職に先祖がたずさわり、「神」の字を譜すようになったと推測する。



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枝秀吉 えだ ひでよし

 壬生家臣。左京亮。
 壬生義雄が、徳節斎の謀反鎮圧のために従軍した武将。
 また、天正15年(1587年)丁亥 卯月27日、壬生義雄が今宮神社を修復したさい、「長」に名を連ねる。



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枝政吉 えだ まさよし

 壬生家臣。木工助。
 天文3年(1534年)、壬生綱房が今宮神社を造営したさい、「長」に名を連ねる。枝秀吉の先代か、その前の代の者と思われる。



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大垣隠岐守 おおがき おきのかみ

 壬生家臣。
 「上総介代々」(一色文書)によると、壬生義雄時代の4人の家老のうちの一人として列せられている。



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大垣右衛門尉 おおがき うえもんのじょう

 壬生家家老。藤井城守将。
 「上総介代々」(一色文書)に、壬生義雄時代に上総介家臣として列せられている。この部分は3人のみの記述なので、最も信頼のあった者か、子飼の将であろう。



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刑部宗次 おさかべ むねつぐ

 壬生家臣。伊賀守。
 天正15年(1587年)丁亥 卯月27日、壬生義雄が今宮神社を修復した時「壬生大工」として名を連ねる。



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小野口祐吉 おのぐち すけよし

 主水。壬生家臣。
 磯山神社(現・鹿沼市磯町)に奉納された鰐口の銘に「小野口主水祐吉」の名がある。
 永禄10年(1567年)12月15日壬生彦治郎が奉納主で、藤原氏勝ともあり、花押から判断しても壬生義雄の初名と思われる。その後ろに高木宗吉と共に、小野口祐吉の名が連署してある。



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神山綱勝 かみやま つなかつ

 下総守。伊勢守。壬生家臣。鹿沼姓も名乗る。右衛門尉。鹿沼城主。鹿沼貞綱。

綱勝は、鹿沼姓を名乗る文書もある。これはどういう事だろうか。
 佐八文書に神山綱勝は、「神山下総綱勝」や「鹿沼下総守綱勝」と記されている。これらの書状にある花押を比べてみると、損傷があり判断しずらいが、その形は同系統のものであり、神山下総守綱勝と鹿沼下総守綱勝は同一人物と解する事ができる。
 綱勝が鹿沼姓を名乗ったのは、おそらく改姓したからであろうが、彼が佐八から「鹿沼殿」と呼ばれていたのは、さらに鹿沼城主だったからであろう。
 伊勢守から下総守への受領の変更。これは、壬生綱房や、壬生一族と思われる壬生綱長が名乗っていた「下総守」が鹿沼の正当な城主にふさわしい受領名だからではないか。
 それゆえ、神山姓から鹿沼姓への変更と共に受領名も、伊勢守から下総守に変えたという指摘が「鹿沼市史・通史編」でされている。

 神山家(鹿沼家)が、いつの頃鹿沼城主だったかは定かではないが、文書を追って検証してみる。
 神山家が戦国期の文書上ではじめて登場するのは、6月4日付の宇都宮広綱書状である。そこには、壬生綱雄を殺害するにあたり、宇都宮広綱が内応させた神山伊勢守という者がいた事が記されている。内応させたのだから、壬生家中でそれなりの人物なのであろう。
 また、弘治年間〜永禄初期の12月12日付け文書では、神山伊勢守治持とあり、実名が記されている。広綱が内応させた伊勢守は、おそらく治持の事だろう。
 この時、徳雪斎はさかんに鹿沼の統治をうかがわせる文書を発しているから、徳雪斎が鹿沼城主、神山伊勢は城主を助ける役目だったに違いない。

 この後に史料上登場するのは、天正3年(1575年)正月3日に小倉某へ、半左衛門尉の官途を与えた旨の文書である。
 ここでは神山綱勝であるから、神山家は代替わりしている事になる。
 そしてこの後、徳雪斎は壬生義雄により討たれる。この時、神山家は2派に分かれたという。綱勝が壬生義雄派だったのに対して、神山左京亮は徳雪斎派である。
 この乱後、鹿沼の混乱がある程度治まってから神山綱勝に鹿沼城を委ねたのではないか。
 天正10年代に入り、宇都宮、佐竹勢が壬生領への侵攻を激化させた事で、宇都宮側に付き、壬生義雄が壬生、鹿沼両城を支配する。
 「下野国誌」の伝承が正しいとすれば、天正13年(1585年)12月に北条家が多気山城に攻めてきたとき、守備将の中に「神山下総守綱勝」の名が見える。この後、綱勝は今市の猪倉城に入り、宇都宮側として活躍する。

 以上の事から、神山家が鹿沼城主だったのは、天正7年から5年程と推測される。

 豊臣秀吉による小田原征伐が行われ、領国内の不要な城の破却がされ、綱勝のいた猪倉城も破却された。この後の足取りは不明である。
 「下野国誌」によれば、文禄の役に宇都宮国綱が名護屋に出陣した随行兵の中に神山下総守綱勝がいたというから、宇都宮家臣になったとも考えられる。
 また、宇都宮家改易後の慶長の役では、国綱と共に朝鮮に渡った旧臣として「神山助左衛門」や「鹿沼八太夫」の名が見える。

 また、関ヶ原合戦の前哨戦である会津攻めの際に、上杉景勝の書状に「鹿沼右衛門尉の名がある。上杉家の家臣となっていた。大国実頼(直江兼続の弟)に属し、塩谷義綱や越後上田衆の栗林肥前守らと共に、三依方面の山王峠を防備していた。
 徳雪斎の乱で鹿沼右衛門尉を戦死させたという記述は誤記ともとれる。

 関が原の敗戦後、綱勝は浪人となり、下野河内郡猪倉村に戻り、土着して末弟を養子にしたと言い伝えられている。その子孫は江戸期には猪倉村の村役人を務めたという。


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木村大隈守 きむら おおすみのかみ
 木村源七郎(宮内左衛門、大隈守)の父。

 永録9年(1566年)12月8日付けの書状で、昌誉(日光山関係者)から戦功を賞され、石那田郷を与えられている。
 永録9年の段階で日光山関係者から感状を貰っている事は、宇都宮方であったと推測されるが、壬生方にも寝返っている事から、壬生家臣に連ねさせていただいた。


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木村宮内左衛門きむら くないざえもん
 源七郎。大隈守。木村大隈守の子。

 天正14年(1586年)卯月15日付けで壬生義雄からの宛行状写しが残る。此度の一乱において宇都宮方と手切れし、壬生方に組した戦功により、篠井郷大網村(宇都宮市大網町)を宛がわれている。

 また、天正16年(1588年)戊子正月6日付けで、城村大隈守宛の書状写しがある。城村と木村は同一と思われ、年代的に見ると、宮内左衛門と同一人物か。内容は、宇都宮方と手切れし壬生に与した事を誉め、宇都宮を取った暁には引き立てる事を約束している。

 これらの書状を見ると、宇都宮国綱と壬生義雄の争いが起こっており、たびたび木村家は鞍替えしていた。両者の境界地点にいた土豪と思われる。

 天正10年(1582年)に、某春吉から木村源七郎宛の書状が残る。内容は、木村源七郎が一字拝領している。一字拝領して変わった名も、春吉という人物も不明。「諸家古案」に収録されている。



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黒川房朝 くろかわ ふさとも

 壬生家臣。はじめ刑部丞。のちに丹波守。壬生家家老。


 黒川家は壬生家の重臣で、福和田村を領していた。文献にも黒川姓の者が多く登場している。
 1521年の川井合戦での功で、壬生綱房から「房」の字を拝領し、房朝と名乗る。

 天文3年(1534年)壬生綱房が今宮神社を新造した折の惣奉行として「今宮神社棟札銘写」に名が見える。壬生綱房は坂田山に鹿沼城を築き、玉田御所の森にあったといわれる今宮権現を、城の麓である現在の位置に移し、新たに祭ったので、房朝の役目は相当に重要な任務だった。
 また、天正15年(1587年)丁亥 卯月27日、壬生義雄が今宮神社を修復した時にも奉行衆に名を連ねる。

 壬生義雄時代に、「上総介代々」(一色文書)によると、4人の家老のうちの一人として列せられている。



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黒川正勝 くろかわ まさかつ

 壬生家臣。丹波守。黒川房朝の子と思われる。壬生家家老。
 雄琴神社神官職の祖。

 天正15年(1587年)、多気山城からの夜討ちで、壬生城を攻められたとき、防戦に務め、壬生義雄が黒川某の戦功を賞し、8月21日付け書状で丹波守の受領を与えている。これと正勝は同一人物であると思われる。
 天正18年(1590年)の小田原征伐で、主君・壬生義雄と最後を共にした。



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黒川勝重 くろかわ かつしげ
 壬生家。黒川正勝の子。
 
 勝重の手記「壬生五代略記」によると、壬生義雄が小田原征伐時、酒匂川で陣没するとその遺品は壬生にいた勝重の元に届けられた。そして、壬生守護神である雄琴神社に納められたという。
 義雄由縁の遺品は、同社の宝物として次のように伝えられる。

・御守袋  錦の千草で糸は茶色の結び合い

・巻物九巻
 一円流心慮之巻
 一円流中太刀目録
 一円流兵法巻
 無双流捕手目録
 捕手腰廻之巻
 四転流棒目録巻
 竹内流鬼一法眼伝
 鬼一法眼密法巻
 軍馬古実誌巻

・御太刀

・御軍配扇

・金の採配

・銀の採配

・御扇



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後藤刑部少輔 ごとう ぎょうぶしょうゆう

 壬生家臣。「上総介代々」(一色文書)に、壬生義雄時代の4人の家老のうちの一人として列せられている。


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早乙女藤三郎 1558????

 佐乙女兵庫助の子。
 天正元年(1573年)北条氏政が小山領の淡志川城に攻め寄せたが、淡志川勢はそれを退けた。その最前線で一の功名と賞されたのが、わずか16歳の藤三郎である。この働きに対し、小山秀綱は藤三郎に感状を送った。
 
 また、天正7年(1579年)鹿沼引田で、青柳十介を討ち取った。これに対し、壬生義雄から領地宛行状が出ている(どこの領地を拝領したかはわからない)。年号から見て、徳節斎の乱を鎮圧した際の功と思われる。

 早乙女藤三郎は、以前は小山家臣のはずだったが、天正7年の時は壬生義雄に従軍している。
 早乙女家は、現在の栃木市から鹿沼市にかけて活動しているが、どういった経緯で小山家から鹿沼に流れてきたか不明。天正2年(1574年)に小山秀綱が北条家に降伏してから、壬生家に従ったのかもしれない。

 淡志川(粟志川)城は、栃木市大宮にあった。場所は未確認。
 大宮は、壬生家、小山家、皆川家の境で、北条家の北上の際に攻め立てられた要所である。徳節斎周長は、粟志川での戦闘がすさまじい旨の書状を佐竹義重に書き送っている。



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早乙女大和守 15??????


 佐乙女兵庫助、早乙女藤三郎との血縁は不明。
 小山高朝から中泉の北嶋郷(大平町高島)の一部を所領安堵された旨の書状が、天文11年(1542年)12月24日付けで残る。
 また、永禄5年(1562年)3月23日付けで、小山秀綱からの所領宛がい状が残っている。
 おそらく小山家臣なので、のちのち小山家臣団のページが出来次第、そちらへ移行する。


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一門

座禅院昌淳 しょうじゅん 15671631
 日光山50代目座主。→座禅院昌淳

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一門

禅泉院昌膳 しょうぜん 1518〜1542
 壬生綱房の子。日光山27代目座主。→座禅院昌膳


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篠田吉久  しのだ よしひさ

 壬生家臣。源左衛門。
 天正15年(1587年)丁亥 卯月27日、壬生義雄が今宮神社を修復した時の奉行衆に名を連ねる。



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渋江長光  しぶえ ながみつ 15??〜1631年

 渋江長宗の子。壬生家臣。大工職人。妻は赤羽氏。寛永8年10月5日卒。法名:大心院郷安宗聖居士。
 天正期には生まれていたと思われる。



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渋江長宗  しぶえ ながむね 15??〜1597年

 渋江房宗の子。壬生家臣。縫殿助。大工職人。慶長2丁酉年10月19日卒。法名:渋江院崑山永流居士。

 弘治2年(1556年)12月、都落ちで「押原荘」に土着していた千本松家の跡敷を継承して玉田郷(現。鹿沼市玉田)に入った。跡敷とは家の諸権益。以後、渋江家は源姓から千本松家の本姓・菅原姓に改め、家紋も京都の公家菅原家と同じ梅鉢紋を使用した。
 天正15年(1587年)丁亥 卯月27日、壬生義雄が今宮神社を修復した時の「大工」に名を連ねる。
 壬生滅亡後は、代々玉田の瑞光寺(曹洞宗)の檀家惣代を勤めた。



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渋江房宗  しぶえ ふさむね

 壬生家臣。縫殿助。常陸出身。姓は源氏。大工職人。

 常陸から出て、鹿沼の壬生家に仕える。戦功により、高野、合羽、黒川らと共に所領を倍増されたうえ、壬生綱房から「房」の一時を拝領する。
 天文3年(1534年)壬生綱房が今宮神社を造営したさい、「大工」に名を連ねる。



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一門
大門資長 だいもん すけたけ 15??15??

壬生綱房の三男。大紋弥次郎。壬生資長。左衛門尉。小倉城主?。村井城?

壬生綱房の三男で、壬生家の一族として重臣に名を連ねる。矢板に大門郷という地があり、そこから大門姓をとった可能性があると思われるが、その居館は村井城、酒野谷など諸説あり、定かではない。また、鹿沼市の南部に大門宿という場所もあり、どこに住んでいたか定かではない。
 村井城が有力か。

しかし、資長でないにしろ大門一族が鹿沼城の周辺である、これらの城館に住まわった可能性は高い。

 しかし、不思議なことに大門の名は、徳節斎の乱では見られない。小倉城攻めあたりでは大門弥次郎の名が出てくる。壬生一門のはずなのに、どうしたことであろう。徳節斎の乱の頃は資長は死去し、子の資忠は宇都宮に鞍替えしていたかもしれない。それなら、乱時に、史料に見られないのもうなずける。あくまで想像であるが。

 資長の読みは、壬生家の縁者であることから「すけたけ」とした。
 誕生年は、兄・綱雄の誕生年を考えると、永正年間か。


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一門
大門資忠 だいもん すけただ 15??15??

大門資長の嫡男。大紋資忠。図書助。弥七郎。小倉城主。

系図に壬生上総守殿弟とあるが、大門資長の子で、壬生義雄の従弟としたほうが妥当である。本拠は酒野谷辺りの城館であろう。
 他に板荷や村井の城館も大門家のものとされるが、壬生一門ともなれば、大門姓の者も多いと思われる。大門家の者が板荷や村井などに配置された事は容易に推測できる。

 永禄4年(1561年)11月19日付けで伊勢神宮への寄進状が残る。内容は、村井、栃窪からそれぞれ銭百疋、合計二百疋を毎年奉納するという事である。
 村井(現・鹿沼市村井町)は大門某がいたと伝わるので問題ないが、ここで特筆すべきは、栃窪からも奉納している点である。栃窪とは、現・鹿沼市だが宇都宮市との境であり、宇都宮家の有力支城・多気山城と目と鼻の先である。付近に宇都宮家の千渡城もあるにも関わらず、少なくとも永禄4年前後は栃窪辺りまで大門領だった事がうかがえる。

 なお、鹿沼市上野町にある「大門宿」は、壬生一族の大門家とは全く関係ない。大門宿に由来は、浄土宗の雲竜寺(現・寺町)が永正年間(1504〜1521年)に宇都宮の清巌寺の開山・玉蓮社義翁心上人を招き、現在地にあった末寺草久庵を現在の上野町大門宿あたりに移し創建された。
 いま大門宿にある「和尚塚」は雲竜寺跡とされ、大門宿も同寺の大門に由来するという。


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一門
大門弥二郎 だいもん やじろう 15??1587

 壬生家臣。大門資忠の子か、大門一族の者と見られる。壬生弥二郎。

 壬生家臣だが、宇都宮に属する。壬生家中はこの頃、宇都宮派と北条派に分かれて争っていた。
 倉ヶ崎城(旧・今市市)に拠るが、天正15年(1587)10月21日、壬生方の日光山門徒に攻められ落城。弥二郎は生け捕られて、斬り捨てられたという。
 このあたりの行動が理解できない。ただの蝙蝠野郎なのか、はたまた事前に申し合わせてあった策謀あっての寝返り劇だったのか定かではない。
 大門一族であろうが、続柄もはっきりせず、謎の人物である。


 この合戦は激戦で、宇都宮、佐竹勢は北条方の小倉城(旧・今市市)を同月25日に攻め落としたが、その日のうちに日光山などの北条勢が攻め返し、城将で宇都宮家臣の今泉、戸祭の両将は討ち取られている。
 北条家の勢力が鹿沼、今市にまで進出してきた事がうかがえる。


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高木宗吉 たかぎ むねよし

 壬生家臣。伊勢守。
 磯山神社(現・鹿沼市磯町)に奉納された鰐口の銘に「高木伊勢守宗吉」の名がある。
 永禄10年(1567年)12月15日壬生彦治郎が奉納主である。藤原氏勝ともあり、花押から判断しても壬生義雄の初名と思われる。その後ろに高木宗吉の名が、小野口祐吉と共に連署してある。



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高野勝吉 たかの かつよし

 壬生家臣。新左衛門尉。
 天正15年(1587年)丁亥 卯月27日、壬生義雄が今宮神社を修復した時の「長」に名を連ねる。



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高野房吉 たかの ふさよし

 壬生家臣。新左衛門。
 壬生義雄が、徳節斎の謀反鎮圧のために従軍した武将。



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高野吉宗 たかの よしむね

 壬生家臣。天正15年(1587年)丁亥 卯月27日、壬生義雄が今宮神社を修復した時の「大工」に名を連ねる。


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高橋吉長 たかはし よしなが

 壬生家臣。縫殿亮。
 天正15年(1587年)丁亥 卯月27日、壬生義雄が今宮神社を修復した時の奉行衆に名を連ねる。




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高村越前守 たかむら えちぜんのかみ

 久左衛門。越前守。鹿沼引田村出身。

鹿沼大芦川沿いの引田村に居る。普段は農業をし、壬生家の合戦には、武器を持ち出陣していた農兵と思われる。
 代々、越前守を襲名しているため、どの時代に何代目がいたかは定かではない。戦国期も数代いるはずである。

 元亀2年(1571)鹿沼引田で乱と呼ばれるほどの合戦があり、その戦功を賞して、徳節斎から「越前守」の受領を貰っている(4月9日付けの文書による)。これは、日光山と壬生家の合戦で、高村越前守は、日光山(徳節斎側)方に付いていたと思われる。
 同月17日付けの徳節斎からの安堵状で見るに、軍事力は「一騎馬上」。引田の宮内(現・高村家屋敷と石村神社の間一帯)を安堵されている。
 天正期に、壬生徳節斎軍の一翼に参加していたと思われる。

 しかし、高村家所蔵の史料によると、「寛治3年(1089年)越前守藤原周孝死去」とあり、さらに系図によると、藤原周孝―周苗―寿喜。寿喜が、平治2年(1160年)に高村豊前守藤原寿喜と名乗り、初めて高村姓を名乗る。次に周盆と続き、元弘年間(1331年〜33年)から永正年間(1504年〜20年)まで20代にわたり、高村越前守久左衛門を襲名。徳節斎に「越前守」の受領を貰う前に、ずでに越前守を称している。これは徳節斎が、新しい主君として改めて受領名を追認したと思われる。
 天正年間まで続くが、享保年間(1716〜22)に久左衛門が消え、高村越前守として日光東照宮に神官として仕えている。

 高村家は、豊臣秀吉による小田原征伐時、主君であった壬生家が滅亡してからは武家をやめ、明治に至るまで高村越前守を名乗った。周辺の集落を統制する名主的役割も担ったものと思われる。
 旧大芦村の村社だった星宮神社は、高村越前守が日光東照宮の造営と同時に創建したものといわれる。冬の日光は雪で造営の仕事ができないので、数人の身や大工を伴い館に帰り、作られたもの。社中の彫刻は東照宮に劣らない立派なものである。

 現在も引田あたりには高村姓が多く、代々続く本家もある。そこにはなかなか堅固な龍階城があり、戦闘体制も整えていたことがうかがえる。この場所は、東西に大芦川が流れ、北に板荷筋、南に久我筋の道が走っていたことから、かなりの重要拠点になる。普段は物見が城に登り、番をしていたのだろう。



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重大人物
徳節斎周長とくせっさい かねたけ 1512?1579


 鹿沼城主。徳節斎。徳雪斎。鹿沼徳雪斎。壬生綱長?(綱長は壬生綱雄の可能性が高い)。母は横手氏か。

 諸系図では、壬生綱重の子で壬生綱房の弟。もしくは、綱房の子で綱雄の弟とされており、その続柄は定かではない。世代を確定させるのなら、壬生綱房の弟で天正7年(1579年)まで生きるのは困難である。最近では、綱雄の弟とするのが妥当かと思ってきた。しかし、記念では壬生家の人物でない可能性も高まってきた。一般論では徳節斎周長は壬生一族とされてきたが、壬生姓を名乗った確証が無い事と、後世に作られた系図に名があるのみ。壬生一族とする理由も無い。よって、壬生周長として紹介するのは間違っている。徳節斎周長の名は、那須記をはじめ、数々の文献にその名を見ることができる。
 高村宛文書中に「かね長」と署名があるので、名の読みは「かねたけ」とした。しかし、これが俗名であるかは不明。高野山浄心院にある古文書を見ても、上杉、佐竹、結城家など戦国時代のものでも90点にのぼるが、自分の姓を記していないのは、ひとり徳節斎周長のみだという。自らの名字を記すことを、完全に避けているように思える。

 「皆川正中録」では、幼き頃から父より、兄の壬生綱房に随身せよとの命を受けている。軍記物では当然のように壬生家の人間として書かれている。近隣に聞こえた軍師として活躍。壬生家中では相当の権力を持っており、一門とほぼ同格である。これらは軍記物の創作もあり、史実と合っているかは疑問がある。

 1549年に壬生家は、本家である宇都宮家の居城・宇都宮城を奪取する。これは、宇都宮尚綱が五月女坂の合戦で討ち死にした事の混乱に乗じて奪ったものである。その後、宇都宮領内に侵攻してゆき、壬生家始まって以来の大領を治める至る。文献には見えないが、これに徳節斎も少なからず貢献していたと思われる。
 書状での初見は1551年の寄進状で、この時すでに徳節斎と号していた。1551年10月、芳賀高定の将、大島大炊助らが岡本郷へ進入したのを撃退した徳雪斎は、岡本郷石関の三貫文の地を伊勢神宮に永代寄進し、祈念依頼している。
 徳雪斎の発給文書として、綱房存命中の天文廿年(1551)11月吉日付壬生徳節斎周長寄進状が残されている。その時の綱房は「常楽寺過去帳」によれば66歳の老人である。そしてこの文書は綱房の晩年に徳雪斎の力が増大してきたことを示している。

 1551年、反乱の起きた結城家のため、古河公方から援軍を要請される。徳節斎もこれに従軍し、当主・綱雄を助け、常陸国・山王堂の戦いで大戦果をあげる。この時の大勝利は、壬生家の勢いを周囲に見せつけるものとして必要十分だった。
 この時期、壬生家は名声、兵力共に絶頂であった。援軍があるとはいえ、合戦に兵3千を動員できるのは、下野では最大勢力である。あの宇都宮家でさえ、多くて兵2500の動員数だったから、当時の壬生家の強さが窺い知れよう。

1555年3月に芳賀高照が真岡に出向いて暗殺され、壬生綱房も宇都宮城内で死去してしまう。綱雄はただちに宇都宮城に拠を移し、壬生家の単独政権となる。
 1556年、芳賀郡侵攻に従軍し、宇都宮(芳賀高定)側の拠点である飛山、八ツ木、祖母井など芳賀方の諸城を落とす。塩谷、那須、西方、今泉など宇都宮旧臣らも壬生軍に参陣し、総勢3千という大軍で芳賀郡に押し寄せてきた。これにより、宇都宮家崩壊は目前に見えたかのように思えた。

しかし、弘治3年(1557年)芳賀郡乙連ヶ原で宇都宮、佐竹、那須、江戸ら連合軍に大敗。那須、塩谷も抜けた壬生の兵力は1000を下回っており、5000を上回る宇都宮勢に対して成すすべも無かっただろう。
 宇都宮城を奪還され、壬生、鹿沼領のみ所領を安堵され、命も助けられた綱雄は壬生城に押し込められてしまう。謀反人の罪としては寛大なものである。この時、徳節斎は鹿沼にいたと思われる。


 宇都宮城を奪還されて以降の壬生家中には、滅亡の焦りもあっただろうから、天文年間の末頃から徳節斎と、壬生4代目の綱雄との間は次第に矛盾、対立する要因があった可能性も大である。徳節斎は、1557年の宇都宮城から撤退後すぐに、もしくは少し時期をおいて鹿沼で独立。宇都宮家に協力していた可能性が高い。
 事実、永録7年(1564年)時点では、「小山、宇都宮、座禅院(日光山)」と、「壬生、皆川」は対立関係にあった。この内容は、越後上杉家が小田氏治を攻めるときに、小田方の味方一覧を作成させたものに掲載されている。とすれば、1564年以前から両サイドは対立していたのである。そこで、壬生綱雄は1562年に暗殺された可能性が出てくる。
 そして、1569年に、壬生氏勝が、壬生家臣・宇賀神隼人に命じて戦勝祈願している。氏勝とは後の壬生義雄だが、鹿沼の徳節斎との戦に臨んだ可能性が高い。これが軍事に関わる最初の文書で、初陣の可能性もある。


 元亀2年(1571年)、鹿沼引田村(神領)で「乱」といわれるほどの合戦があり、引田村の高村越前守に戦功があった。越前守の受領を授かり、引田の宮内を安堵され、一騎駆けの戦功を賞賛されている。
 これは壬生家と徳節斎勢力(日光山含む)の合戦であった可能性が高い。徳節斎側(日光山も)の勝利によって鹿沼支配が強化された。
 そして、約1年後の1572年6月には、壬生と日光山の和議が成立している。「東州雑記」には、和議の仲介をした佐竹家に、壬生と日光山から御礼の進物が贈られているという。
 この和議には裏事情がある。
 元亀3年(1572年)1月4日、皆川俊宗が宇都宮城を占拠してしまった。上杉家との外交を担当していた宇都宮家臣・岡本慶宗を殺害し、一時的に実権を握った。皆川俊宗は北条家寄りだったため対立したのであろうか。
 これに対し、宇都宮、佐竹両軍は報復として、元亀3年(1572年)12月から翌年2月まで皆川領に侵攻した。この南摩・深沢合戦で、皆川方の10〜11の城を落城させ、皆川本城にまで迫った。佐竹勢は南摩で苦戦したものの、皆川領は掃討され降伏した。
 佐竹義重は、1572年6月に壬生(北条寄り)と日光山(宇都宮寄り)を和睦させ、壬生と協調体制にあった皆川俊宗を孤立させるようもくろんでいたと思われる。ゆえに壬生と日光山の和議を斡旋したのである。

 1574年3月26日の早朝、鹿沼勢が朝駆けで宇都宮領新里郷を急襲したが、芳賀高継など、多気山周辺の猛反撃に合い退却した。これは長年、壬生家による攻撃だと思われてきたが、徳節斎の鹿沼勢であろう。おそらく壬生家とは関係無い。
 新里郷は弘治2年(1556年)壬生綱雄が、佐八家に年貢200疋を寄進した所領であった。翌1557年に宇都宮城を奪還されて新里郷も失ったが、佐八家に毎年寄進するというものであったので、新里郷の復権は念願だったはずだ。鹿沼に入った徳節斎は、宇都宮家中での権力も増してきた背景もあり、綱雄以来の復権を主張したが、芳賀高継や新里の在地領主たちもこれに反発したのだろう。
 そこで1574年に徳節斎が新里郷を奪取しようと攻めたと思われる。

 同年10月13日には座禅院昌忠と共に、小田原商人・宇野藤右衛門に日光山門前町での外郎丸薬の独占販売権を認めている。
 この事から徳節斎は、鹿沼城にありながら鹿沼地方を治め、かつ日光山にも強い影響力を及ぼしていたことになる。

 1576年6月には、天台、真言両宗の争い(絹衣争論)に関与した。これは政治的な大問題に発展しており、別項で後述する。
 徳節斎は、日光山内の権力者「大納言某」と対立しており、古河公方・足利義氏は壬生義雄を通して、日光と徳節斎の和睦をさせようとしている。徳節斎が日光山内での権力を主帳した事での対立と思われる。
 徳節斎は、1577年春になってようやく和睦に応じる気配を見せるが、足利義氏は、なお油断するなと壬生義雄に書状を送っている。


 ここで、「皆川正中録」から物語を紹介する。1576年、壬生綱雄を鹿沼天満宮広場(現・天神町)にて暗殺したという。皆川正中録は史料事態が信憑性が薄く、これを簡単に事実としてとらえることはできない。
 この事件は、あくまで物語として把握しておく程度にしたほうがよい。徳節斎の最期に至る経緯は様々な説がある。一般的な見解は次のようである。
 綱雄を暗殺してのち、期を見た義雄に攻められる。
 兵力に欠いた徳節斎は鹿沼城を放棄、多気山城に逃れたが、かつてじっ魂の芳賀高継も冷たくなっていた。その間、兵を挙げた義雄により攻められ討たれたとも。また、日光山に落ち延びる途中、板橋将監に討たれたとも言われる。
 これは史実が混乱し、「皆川正中録」の物語を書くときにかなり混同してしまったと思われる。


 天正期の徳節斎書状から、以下の状況が読み取れる。

・日光山との関連書状から、日光山内に相当の権力を有していた。しかし、山内の権力者とも対立していた事。

・宇都宮との関連書状から察するに、鹿沼領主で宇都宮傘下と思われる。徳節斎の活躍していた時代は、芳賀高継の文書が驚くほど少ない。徳節斎が外交文書も出している事から、宇都宮家の事実上の執政者となっていた可能性がある。または、宇都宮家中では執政者が年代によって入れ替わっていた可能性も挙げておく。

・壬生義雄や北条家と対立し、佐竹などに援軍を要請している。

・天正期、佐竹家への援軍要請などからしても身分の関係上、徳節斎が直接に佐竹義重らに援軍要請できるはずが無い。宇都宮広綱を通して、もしくは宇都宮執政という身分を使って佐竹宛にしたためたものと思われる。


 永録13年(1570年)5月、大旦那として滝尾社宝殿の上茸を修造。「大般若経」を真読したのは、自我判別しにくいが、壬生義雄と見える。この上茸が行われた際、大旦那に「壬生徳雪斎周長」、御留守に「御留守惣政所座禅院昌慶」と「旧記」にある。この史料にだけ徳雪斎の苗字が「壬生」と書いてあるが、「旧記」は江戸時代に作られたものなので信用できない。やはり、史料上では徳節斎を壬生の姓と見るのは困難である。

 壬生家は滅亡したため文書がほとんど存在しないといっても、綱雄の発給文書が永禄年間に一点も残されていない。これは、綱雄が永録5年(1562年)に死去し、それから天正7年(1579年)までの15年ほどは、徳節斎による鹿沼支配と考えられる。


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豊田信久 とよだ のぶひさ

 壬生家臣。和泉守。
 壬生義雄が、徳節斎の謀反鎮圧のために従軍した武将。



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豊田吉忠 とよだ よしただ

 壬生家臣。和泉守。
 天正15年(1587年)丁亥 卯月27日、壬生義雄が今宮神社を修復した時の奉行衆に名を連ねる。



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鳩山勝吉 はとやま かつよし

 壬生家臣。将監。
 壬生義雄が、徳節斎の謀反鎮圧のために従軍した武将。
 また、天正15年(1587年)丁亥 卯月27日、壬生義雄が今宮神社を修復した時「献之筆者」として名を連ねる。


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鳩山朝久 はとやま ともひさ

 壬生家臣。惣右衛門。
 天正15年(1587年)丁亥 卯月27日、壬生義雄が今宮神社を修復した時の「酒奉行」に名を連ねる。



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福田対馬守 ふくだ つしまのかみ

 壬生家臣。対馬守。
 壬生義雄の後室(皆川山城守息女おこうの方)が福田某に、対馬守の受領を与えたという文書が残る。
 年号は慶長15年(1610年)正月5日。「のぞみにまかせてこれを成す状…」とある事から、これまでの功績などを申し出て、官途を要請したものと思われる。



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福田弥太郎 ふくだ やたろう

壬生義雄が、壬生徳節斎を討つため鹿沼城を攻撃した時の戦功を賞して、天正7年(1579)2月27日付けの書状で、所領を安堵している。
 神山左京亮の持っていた日向領の内13貫800文と、玉田隼人の7貫500文、御征作2貫500文を宛がい、これまで通り、神事と税役を怠らないようにと書いてある。
 この書状からも、壬生義雄は天正7年に鹿沼城に入り、それまで鹿沼は壬生徳節斎の勢力下であった事が読み取れる。


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藤倉勘斎 ふじくら かんさい

 
壬生家家老。羽生田城守将。
 「上総介代々」(一色文書)文書に、壬生義雄時代に上総介家臣として列せられている。この部分は三人のみの記述なので、最も信頼のあった者か、子飼の将であろう。



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藤田助宗 ふじた すけむね

 壬生家臣。兵部少輔。壬生義雄が、徳節斎の謀反鎮圧のために従軍した武将。また、天正15年(1587年)丁亥 卯月27日、壬生義雄が今宮神社を修復した際の「長」に名を連ねる。


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三上大膳亮 みかみ だいぜんのりょう

 壬生家家老。大膳亮。
 「上総介代々」(一色文書)という文書に、壬生義雄時代の4人の家老のうちの一人として列せられている。



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一門
壬生刑部丞 みぶ ぎょうぶのじょう15??15??

 関東管領・上杉憲政が越後に退去した時に同行した者の中に「壬生刑部丞」という名が見える。
「米沢藩古代士籍」(米沢市立図書館蔵)に『後下野壬生帰城直江奉公 壬生刑部丞』とあるので、おそらく壬生家の人物なのであろう。史料によると、直江実綱に仕えているらしい。しかし、彼の名は他の史料に見当たらないし、系図にも無い。


 上杉憲政が北条家の攻勢により退去したのは1552年。壬生家の者で奉公に行っていた者がいたのだろうか。今のところ、関東管領と壬生家のつながりは思い当たらない。


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横手一泊 よこて いっぱく 14??1493

 壬生家臣。壬生綱房の外祖父。俳号?。鹿沼日向城主?。法名・松楽院殿鶴峰道全大居士。

 文亀元年(1501)に壬生綱房は、横手一伯(すでに死去していた)を再開基として松楽寺を再興した。同寺は、暦応3年(1340)の創建で後に衰退したが、再興して臨済宗から曹洞宗に改宗した。
 曹洞宗に改宗している事から、壬生の常楽寺(壬生家の菩提寺で曹洞宗)との関係も見えてくる。

 壬生の系図には横手一伯の名は見えないが、横手という名の有力家臣はいた。また、全く関係が無いのに、「横手 ― 日向」の関係を示す記述が文献に多いのは不自然である。
 以上のことから、鹿沼の日向地方に縁の深い人物と言っていいだろう。


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横手繁世 よこて しげよ 14??15??

 壬生家臣。刑部少輔。鹿沼日向城主?。

 1509年、連歌師柴屋宗長が訪れたときに繁世の名が見える。横手一泊の子か、孫の世代の人物と思われる。
 壬生城主・壬生綱房と共に唄会を催しており、宗長はその後、鹿沼の壬生綱重の下へ行き、そこでも連歌を催している。

 この時、繁世は壬生に住んでいたことがうかがえる。壬生綱房の外祖父である横手一泊の一族で、壬生綱房とは何らかの姻戚関係にあると思われる。身辺に近い人物だったのではないだろうか。

 日向城主の可能性があるが、全く不詳。元は壬生に住んでおり、のちに鹿沼城西の日向に移住したのだろうか。ちなみに日向は、「日名田」や「日向田」と記す文献もある。
 日向城跡は、現在田畑と民家になっており、わずかな台地だが、ほとんどまっさらな土地である。角に土塁などが残るが、どこまで遺構かは判断できない。また、「堀ノ内」に居館があったとの説もある。
 


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横手右近正娘
 天正16年(1588年)戊子5月28日に、鹿沼の浪人・横手右近正の娘が武蔵多磨郡の横川八幡宮に鰐口を寄進した。
 「下野日光山鹿沼浪人横手右近正娘」という表現から、鹿沼市の日向にいた横手繁世の一族と判断するが、たびかさなる合戦で横手右近正は、家族共々浪人してしまったのだろうか。真相は分からない。


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