綱房・綱雄・義雄暗殺疑惑



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三代目
綱房暗殺説


「押原推移録」「皆川正中録」の中に、綱房が、弟の徳雪斎に打たれたという記述がある。だが、天正四年(一五七六)のことで、綱房はとうの昔、壬生系図などによれば、一五五五年に死去している。仮に存命中としても、推定九一歳である。・・・かなり、あり得ない。確証の薄い資料であるため断言はできないが、ここに書いてある殺された本人は綱雄とするのが妥当であろう。

また、一五五五年といえば、それまで一応の協力関係にあった芳賀高照が、真岡の芳賀高定に呼び出され、自害させられた年である。綱房はそののち同じ月、すぐに宇都宮城内で死去している。このとき壬生家は宇都宮城領し、真岡に退いた芳賀高定とにらみ合っていた。

 綱房死去を、芳賀高定による暗殺という見方もあるが、当時壬生家は宇都宮伊勢寿丸を奉じる芳賀高定をかなり警戒していたので、対策はかなり万全にしていただろう。芳賀高照が真岡に行ったのは、芳賀高経の法要を餌に高定が誘き寄せたのであって、両者は簡単に行き来できていたわけではない。もし、高定の刺客が宇都宮城に忍び込めたとすれば、綱房と高照を殺せばよい。しかし、城内に忍び込めないので、これから先の長い高照を誘き寄せた。と自分は考える。綱房は当時70歳だから、あの世に片足突っ込んだ状態で、あと幾ばくもなく死ぬと高定は見ていたか。

 綱房暗殺説を正当化できる根拠が見つからないので、否定したい。



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四代目
綱雄暗殺説



常楽寺過去帳などによれば、綱雄は1562年に死去したとなっているが、それとは別に1576年に起こったという暗殺事件説がある。

「押原推移録」によれば、

「然るに弟徳節斎、兄綱房を恨る事ありて、天正四年丙子二月廿五日、綱房天神の祠前(今の天神町なり)に詣でられし処を窺て、腹心の家来に命じて、大杉の蔭より射殺せしむ」とあり、

その時壬生義雄は、

「天正四年壬生城に在て、父綱房の横死を聞て大いに驚き、急に鹿沼城に発向し、叔父徳節斎を殺して仇を報し、その摩下を安んして、みつから鹿沼城に居し、老臣をして壬生城を守らしむ」とある。


また、「皆川正中録」では、

「天正四年丙子二月廿五日、綱房天神の社に社参ありしに、徳節斎家来に命じて天神の森なる大杉の蔭より、綱房を射殺せしめたり、壬生城に在りてこれをききたる上総介義雄は大いに怒り、いそぎ徳節斎を討つべくとして軍勢を出す」とあり、壬生義雄は、宇都宮広綱の助力を得て、徳雪斎を討つことに成功するのである。


 これらは、綱雄(もしくは綱房)が徳雪斎によって殺されたとする、あくまで「物語」である。この物語は、綱房と綱雄の混同など、誤りがひどくてとても信用できるものではない。また、杉山博氏も指摘されているように、徳雪斎の兄・綱雄暗殺については関係資料は一切無い。暗殺についての書状は、宇都宮広綱と神山綱勝の間で執り行われている。むしろ、神山綱勝が関与していたと見るべきではなかろうか。
従って、これを史実として扱うことはできないのである。



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五代目
義雄暗殺説


天正十八年(一五九〇)小田原征伐時に北条家に従い、戦後領地没収、お家断絶となった壬生義雄。だが、秀吉は義雄に本領安堵をしようとしたという。義雄は戦の途中で病没していた。子には亀姫しかおらず、嫡子が無かったため壬生家は断絶となる。

・・・というのが史実、通説だが、ここで『異説小田原記』という興味深い史料がある。それを紹介させていただくと、


義雄ノ区説

天正十八年、豊関白東、伐スル相之北条氏也、義雄隷北条氏、与諸将竹浦口、北条氏滅シテ、豊関白将-封セント義雄、皆川山城守広照妬、七月八日飲マシム義雄毒酒於酒匂川上

壬生物
語異説


皆川広照は、最初は北条家の小田原城に入ったものの、昔より親交のあった徳川家康を介して投降。戦の途中に寝返るという決死の覚悟で、北条から豊臣に鞍替えして本領を安堵されたのに、最後まで北条に組して本領安堵をされた壬生家にも同じように本領安堵。広照にはいかんともしがたいものがあったろう。

それで義雄をねたんで毒殺したというのだ。義雄が死ねば、壬生家に領地の近い皆川領に併呑されるとでも思ったかはわからないが(戦後、鹿沼など壬生家旧領は結城晴朝・秀康のものになる)、広照の義父である。

もしこの毒殺説が本当で、義雄がもし生きていたとすれば、壬生家は存続しただろうか。宇都宮家の傘下にならなければ、一万石ほど大名として存続していただろう。もし宇都宮家傘下になっていれば、一五九七年の宮家改易に連場だが、単独大名ならば壬生家は宮家とは運命を共にしなかったと思われる。そして関ヶ原時は関東小大名なら当然徳川方。少なくとも江戸初期までは壬生家は続いていたことになるだろう。

 これも信憑性に欠けるのであくまで参考資料としたい。

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