益子勝清 15041554

 

益子家当主。結城政勝(政朝か?)の次男。宮内大夫。宮内大輔。天文23年(1554年)819日卒。享年51歳。法名:平享寺殿通安宗因大居士(通安宗円とも)。

 

益子勝清は益子系図に見える人物で益子家当主とされる。系図によると、益子勝光の子で、勝清の子に益子勝家と勝宗がいる。戦国時代前期の世代とされる。

だが、この系図の生没年を見ると年代が全く繋がらない。これを少しでも史実に近づけようと思う。

 

 

結城家の次男

 益子勝清は益子系図によると結城政勝の次男とされる。しかし、結城政勝は1503年生まれで、系図上の勝清は1504年生まれである。結城政朝の次男としたほうが妥当であろう。つまり、結城政朝次男で、結城政勝次弟となる。系図には間々このような誤記もある。ここでは、益子勝清は結城政朝の次男として解説する。

 現在のところ、勝清の一級史料は見当たらない。これでは実在したかうかがわしい。しかし、戦国時代中期頃の益子家の動向を解明するうえで、勝清の代は“存在すべき代”なのである。益子系図は諸家系図なので、名は勝清でないかもしれない。本頁では便宜上、「益子勝清」と仮定して解説する。

 

 

 

益子家の養子に

 勝清が養子として益子家に来た頃は、宇都宮家や益子家周辺はどのような状況であったのか。残念ながら養子として入部した年代は不明なのだが、宇都宮家と結城家が親密な時代であった事は確かであろう。

結城政朝は宇都宮成綱の娘を娶っており、この男子ならば益子勝清は宇都宮成綱の孫にあたる。そして、宇都宮家と結城家は姻戚関係であり、古河公方・足利高基を支持する立場も同じで両家は親密であった。その中で重臣・益子家に入嗣する事は可能だったのだろうか。

紀党益子家は、宇都宮家中でも第一の重臣・清党芳賀家と並び称される2番目に有力な重臣である。いかに当時は友好的だった結城家といっても、やはり益子家に他家の人物が入嗣するのは異例であるように思える。

 

しかし、もう少し時代をさかのぼってみると、益子家が結城家から養子を迎えるのは系図上では初めてではない。益子系図に疑問もあるが、これが史実ならば益子家と結城家の関係性について、一般的通説は見直さなければならない。

南北朝時代の益子出羽守祐光は、結城祐朝4男であるという。その子孫が市塙益子家の系統であり、その系統が戦国時代の益子家に色濃く受け継がれている。また、益子正宗(正宗寺開基)の母は結城朝祐娘である。

そして、本頁において検証している戦国時代の益子勝清は結城政勝の次弟である。

 

宇都宮重臣だが、このように他家から養子、婚姻関係になるだろうか?

婚姻を結ぶならば、宇都宮家や芳賀家は、佐竹家や那須家と婚姻関係を結んでいる。益子家も他家から妻を迎えている。これはあり得るだろう。

そして、養子を迎えるのも若干例はある。

例えば、那須資親に宇都宮成綱の子、結城晴朝の猶子として宇都宮朝勝、蘆名家に佐竹義重の子・蘆名義広。千本家には茂木義政が入った。さらに、上杉謙信の元に北条家から上杉景虎が入嗣した。

ほとんど失敗しているが何例もある。

 

まさか益子家に他家の結城家から養子に来た人物がいたとは意外だった。

確かに、腑に落ちる点はいくつかある。

 

・宇都宮家と合戦をした。

・結城配下・水谷家の下館に逃亡した。

・系図上で年代、血縁がはっきりしない。

 

先代と思われる益子宮内大輔家宗は、益子分家ながらも、惣領家に代わり益子家を率いた人物であると推測される。ゆえに益子家惣領を象徴する「宮内大輔」を名乗ったのだろう。そして、鹿島神社棟札にて堂々と益子14代目を称した。勝清は、14代目・益子家宗の跡を継承する形で益子に入部したと考えられる。

勝清が、なぜ家宗の次代の人物だと筆者が考えたかというと、益子系図によると勝清の受領名は宮内大輔である。これを名乗った勝清は、家宗に代わって益子家の惣領を継いだと考えられる。また、益子系図をすべて信じるわけではないが、益子家を継がないのであれば、わざわざ他家の結城家から養子に来ることはない。やはり益子家を継承したのだと思う。

 

先に述べたように、血縁的に見れば宇都宮成綱娘の子である勝清ならば、益子家の養子として入部してもおかしくはない。戦国時代初期は、宇都宮と結城両家の連携、親密さが際立つ。あるいは、結城政朝がのちに宇都宮家の力を奪うために、はじめから狙っていたというのは考えすぎだろうか。

肝心の養子に来た時期だが、宇都宮興綱の時代と考えられる。つまり、先代の宇都宮忠綱が大永3年(1523年)〜大永6年(1526年)頃に没落し、宇都宮興綱と結城政朝の力が増した頃に、益子勝宗、家宗父子は保身のために勝清を益子家に迎えたのだろうか。それとも、結城家の影響力が強くなったのか、宇都宮興綱と結城家の同盟の条件だったのか、理由はそのあたりだろう。

宇都宮興綱が宇都宮当主となった1527年当時は、勝清の年齢は益子系図より計算すると24歳である。益子家宗は40歳となる。

 

さらに、宇都宮俊綱の正室は結城政朝の娘で1541年頃に婚姻したという。よって勝清は、宇都宮俊綱とは従兄弟となる。これは、天文の内訌(芳賀高経の乱)で対立した宇都宮家と結城家の融和のためだが、結城家の影響力が強すぎて、宇都宮家は逆に危険な状態であったように思えてしまう。ともあれ、戦国時代初期に結城家の人物が益子家に養子として入った。

 しかし、養子に入った可能性のある1527年頃から、のちに天文15年(1546年)に勝清が反旗を翻すまでの約19年間は、益子惣領・益子家宗の事績しか見ることはできない。

 

 

 

宇都宮家との合戦

 天文15年(1546年)に勃発した宇都宮家との合戦について考察する。これは謀反なのか、どの勢力と合戦をしたのかは不明である。これに関連すると思われるものを挙げる。

 

 天文8年(1539年)那須政資と高資の内紛が起きた際、宇都宮家は那須政資(父)を支持したが、結城家は那須高資(嫡子)を支持した事によって両家の対立が始まった。また、宇都宮家中では、宇都宮俊綱と芳賀高経の対立が激化し、宇都宮家における天文の内訌(芳賀高経の乱)が勃発した。1541年までこの影響で戦闘が行われていたが、芳賀高経が106日に殺害されて乱はひとまず鎮火した。

 この乱と関係があるか不明だが、天文10年(1541年)411日、益子町大沢の圓通寺が延焼した。益子家宗の時代か、勝清か。詳細不明で、単なる火事かもしれないし、兵火による延焼かもしれない。当時の圓通寺の場所は現在地でなく、御座内村に所在していた。七井城のすぐ東で294号線あたりにあった。そこが火事となり、天文12年(1543年)に、益子家(家宗か、勝清か)が圓通寺に山林を寄進した。圓通寺の再興については、勝清の次代の人物が、天文22年(1553年)から永禄2年(1559年)の7年間を費やして現在地の大沢仲之内に伽藍を配置したという。

 1541年頃に宇都宮俊綱のもとに結城家から輿入れがあり落ち着くかと思いきや、その後の天文13年(1544年)頃から結城家との争いが再燃した。

真岡方面では主に以下のような戦闘が行われ、これが益子勝清の謀叛に発展した可能性がある。

 

・天文10年(1541年)芳賀高経が宇都宮家に謀反。捕縛、殺害される。

宇都宮家と結城家が婚姻するが、こののち争いが再燃する。

 

・天文13年(1544年)中村城が落城。水谷正村が久下田城を築城。

・天文13年(1544年)芳賀家八木岡貞家が久下田を攻撃するも撃退された。

・天文14年(1545年)9月、八木岡貞家討死、八木岡城落城。

・天文14年(1545年)この頃、宇都宮俊綱は真岡に在城して対応。

・天文15年(1546年)益子勝清が宇都宮と合戦。

・天文16年(1547年)宇都宮家が水谷を攻めるも撃退される。

・天文16年(1547年)713日 結城政朝死去。宇都宮が結城攻撃。撃退。

 

また、この頃に「宇都宮興廃記」によると、古河公方の使者として、水谷正村と益子勝宗が宇都宮に来たという。水谷正村と共に来たのは益子勝清の可能性がある。

これらの中で宇都宮家と合戦になる。

 

この頃、宇都宮俊綱は真岡城に在城して周辺を指揮している。結城家との合戦に本腰を入れようとしていたのか、結城との合戦の連続、芳賀郡で那須家との戦闘、笠間家臣の寺崎ともやり取りをしている。矢板、喜連川方面でも合戦が多く、感状などが多く現存している。

 これでは四面楚歌、これらすべてを相手に宇都宮俊綱はよく耐えていたと思う。外交戦略や宇都宮家の方針によって窮地に立たされた事は確かである。しかし軍事面で見れば、合戦に次ぐ合戦、各方面の防衛線を強化するなど、これらを相手に戦っていた宇都宮俊綱と芳賀高定らの軍事能力は高いと言わざるを得ない。また、宇都宮家中では芳賀高経や塩谷孝綱に付いた者は最小限で、多くは主君の宇都宮俊綱に協力したに違いない。宇都宮俊綱から多くの家臣が合戦の戦功として感状を賜っている。これらにより宇都宮家は守り切ったのだろう。

しかし、ここまで劣勢の中、他家から養子に来た勝清は、宇都宮家のために死力を尽くすだろうか。

 

否。

勝清は天文15年(1546年)宇都宮家と合戦におよんだ。

 

先代の益子家宗が亡くなったのちに反逆したと思われる。

系譜によれば、勝清は「宇都宮奥綱(または、與綱=ともつな)」と合戦したとある。宇都宮当主の「宇都宮興綱」か「3代目・宇都宮朝綱」とも読めるが、興綱は天文5年(1536年)にすでに死去している。3代目宇都宮朝綱は鎌倉時代の当主なので、宇都宮家で有名な人物の名を系図に書いてしまったのだろうか。よくある誤記である。話を戻して、宇都宮興綱の時代は勝清の実家である結城家とも懇意にしていた。ゆえに、合戦があったとは考えにくい。よって、天文15年(1546年)時点で結城家と対立していた「宇都宮尚綱」を指すと思われる。

この頃は、結城配下・水谷正村が宇都宮家の芳賀領あたりに侵攻していた。益子家の当主といえども、勝清は結城家の一族である。宇都宮家と対立して結城家に味方した事は、結城政朝、もしくは結城政勝にとって目論見通りだったかもしれない。

 

 一説に、系譜によると益子勝家は天文14年(1545年)3月に生害されている。勝清の謀叛と関係があるかもしれない。つまり、益子勝宗に殺されたわけではなく、勝清が反対勢力である益子勝家を殺して、宇都宮家に謀叛を起こした可能性がある。しかし、勝家の実在は今のところ確認されないし、殺害についても立証する史料は無いのが残念である。私の考えでは、益子勝家が自害したのは下野國誌の応永2年(1468年)説を取るが、史料が無くて真実を検証するまでに至らない。

 

勝清が宇都宮家と合戦に及んだ理由は、通説では宇都宮家の課す軍役が重かったことにあるというが、これは何を根拠にした記述か分からない。益子氏関連の書籍でよく目にする記述だが、何の判断材料も無いので理由も分からずただ推測で書いたに違いない。

だが、一理ある。理由の一つではあると思う。現存文書を見れば、結城家や那須家との合戦は実際に多い。このため軍役は増加していたはずである。または劣勢に立たされた宇都宮家を見限ったか、結城家との血縁関係など、このあたりも含めて複数の理由があって謀反に及んだのだろう。

勝清は結果的に結城家に加担したが、始めは宇都宮家重臣の益子当主として働いており、のちに謀反に至ったと考えられるが、このあたりは判断に使える史料が無くて動向はどうにも分からない。

 

何らかの理由で窮地に立たされた勝清は、実家の結城家を頼みに謀叛を起こした。しかし、宇都宮家との合戦で歩が悪くなったのか、天文17年(1548年)益子から退去してしまった。

数年前から結城方の水谷勢の攻勢により、宇都宮家の芳賀領周辺の中村、八木岡などは浸食されていた。この影響が隣の益子家に波及していた可能性は高い。益子領でも結城方が優位に立てるかと思いきや、こちらは宇都宮家に軍配が上がった。

益子家中はすべて謀反に加担したわけでなく、宇都宮家に味方した益子一族や家臣たちが多かったことで勝清方は劣勢になったのだろう。

しかし、2年ほど抗争したというのだから勝清派が少数だったわけではない。四面楚歌の宇都宮家が討伐を遅らさざるをえなかったのか、益子家も分裂したか、または西明寺城が堅固すぎて攻略に時間がかかったか。敗退した益子勝清は水谷領の下館に落ちのびた。

 

 

 

勝清は“存在すべき代”

 宇都宮家に仕えていた益子家は、戦国時代に謀反を起こしたとの伝承がある。これを成り立たせるのが益子勝清の存在であり、勝清が存在すべき代と私が考える所以である。

つまり、戦国時代前半の益子家は宇都宮尚綱あたりまで順当に仕え、勝清が謀叛を起こし、その後、益子家の縁者が継承して再び宇都宮家に仕えたというシナリオであると考えている。

 

 そのため、天正17年(1589年)の益子討伐は誤伝かと考えられる。突然、戦国時代末期の話になって申し訳ない。

伝承では、戦国時代末期の天正17年(1589年)に益子家宗が討伐され、益子領600町は没収されたという。現在はこれが通説となっているが、天正17年に討伐されたという年号は、実は勝清が益子を退去した天文17年(1548年)の誤りではないかと考えている。

実際に謀反したのは益子家宗ではないが、勝清が叛した事件が誤伝したのであれば、戦国時代中盤の益子勝清が敗北し、下館に退去した事件だったことになる。

ちなみに、天正17年(1589年)時点の状況を簡単に並べてみると、益子家と笠間家の合戦は決着している。茂木家との抗争も終了している。また、益子系図によると、天正14年(15861117日、益子は落城し、翌年15年(1587年)から慶長2年(1597年)まで益子忠宗が益子城を預かったという。これはおそらく七井家の乱が討伐されたもので、益子当主らに咎は無い。益子城には益子治宗と忠宗がおり、天正18年(1590年)時点での益子城主は、毛利文書によると益子右衛門尉(治宗か)である。

つまり、天正17年時点で益子家が討伐される理由は無いのである。益子家が益子城を退去した可能性があるのは次の3通りと考える。これは合戦でなく、文字通りの退去命令による退去と思われる。

 

・天正18年(1590年)の豊臣秀吉による天下統一後に君島家が益子城を預かったあと。君島家が一時的に在城しただけで、この後も益子家は益子城にいた。もしくは天正年間の城代配置転換があったかもしれない。

 

・文禄4年(1595年)に宇都宮国綱の養子問題にて家中が割れた時。益子家は芳賀高武と対立して出奔か。系図によると紀伊の浅野長政のもとに。

 

・慶長2年(1597年)に宇都宮家が改易された時。行先は常陸国、結城家など多数の説がある。

 

よって天正年間の益子討伐は無い。戦国時代に益子家が討伐されたのは、私見では天文17年(1548年)で益子勝清が謀叛に及んだ時と考えている。

 

 

 

敗北後、下館へ

益子勝清は宇都宮家に敗退後、水谷家の下館に逃亡した。水谷正村は結城政勝の娘を娶っている。益子勝清とは伯父、甥の関係にあることから下館に寄食したのもうなずける。結城にいるよりも、再起しやすい下館に住したのだろうか。しかし、復権を果たせぬまま、6年後の天文23年(1554年)819日、下館にて死去した。享年51歳。

 

系譜によると、勝清の法名は平享寺殿通安宗因(通安宗圓とも)大居士である。益子系図によると、平享寺(平光寺とも)は下館にあったとされるが、この寺は場所不明である。系図では勝清の弟・次勝が住職を務めている。勝清が養子となったおり、弟も共に益子へ来ることはあまり考えられない。

益子次勝については別系図に益子丹波守次勝という人物いる。それによれば天文年間まで益子にいたという。次勝の子は益子越後守次廣で、佐竹義久から天正18年(1590年)正月18日付けで北村(茨城県常陸大宮市か)を知行として宛がわれた。この系統は陸奥国赤館にて佐竹家臣となっていた。よって系図にある、下館に平享寺を建てたという記述は誤りである。

平享寺は結城家側の親族の誰かが建立したのであろう。系図が混乱したゆえの誤記と思われる。同寺は勝清が下館に移った後か、死後に建立されたのだろう。

平享寺という名から察するに、合戦に敗れて落ちのびた勝清は再起を図らずに、下館にてひっそりと平穏を享けたかったとも考えられる。勝清の真意は分からない。

 

 勝清が退去したのちは、益子家の縁者である益子右衛門尉治宗(のちの睡虎斎宗竹)が益子家を継ぎ、彼は宇都宮家の一翼として活躍する。

益子勝清と治宗は血縁関係ではない。

 

  

 

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