益子家宗 14881545

 

 

 益子家14代目当主。益子勝宗の子。因幡守。宮内大輔。

 

益子家宗は一級史料によると戦国時代前期の人物として確認できる。

家宗は益子惣領家を継いだ人物と考えられるが、後世に編纂された下野国誌や各益子系図に見られる益子家宗は戦国末期の人物とされ、江戸時代以降はこれが通説として流布している。本項の家宗とは全く世代の違う別人物である。結論から言うと、益子系図に記されている戦国末期の益子家宗は、系図伝承上の間違いで架空の人物と考えている。

本項では残された史料に基づいて、戦国時代前期に実在した益子惣領・益子家宗について検証する。判断材料になった史料を順に紹介する。

 

 

 

1、鶏足寺建立について

益子町にある鶏足寺の創建は、永正3年(1506年)益子因幡守紀家宗によるという。しかし、寺伝の別説によると大永2年(1522年)高塩伊勢守による建立ともあるが、これは誤りであろう。山本古屋城の高塩家が益子家のお膝元に寺を建立できるわけがない。火事のために史料が焼失しているうえ、寺伝が混乱しているので確証は無い。

はじめに益子因幡守と名乗り、宮内大輔は権力を得たのちに名乗ったのだろうか。しかし、家宗はこの時19歳である。寺を建立するには年齢が若すぎるが、若くして寺を建立した例は全国にあるので考えられなくもない。父の益子勝宗による建立の可能性もあるか。一応、益子家宗が永正3年頃に生存していたという伝承があるという事だけにとどめておく。

 

 

 

2、谷中家文書 益子家宗感状

益子家宗は常陸国の合戦にも関わっている。益子領の南端、常陸国中郡の谷中家には益子家宗発給の感状が残る。これによると、大永2年(1522年)磯部原の合戦にて、谷中大学は戦功を立てたという。伝承によると谷中大学は吉所城に在城した。吉所城は岩瀬地方では一番大きい規模を誇る橋本城とされており、戦国時代の初期にすでに常陸国の中郡地方に益子家の影響力が強く及んでいた事がうかがえる。

 感状を発給したという事は、益子家宗は当主か、それに次ぐ権力を持っていた事になる。

 

 

 

3、益子の鹿島神社所蔵棟札

益子町中心部にある鹿島神社所蔵の棟札に益子家宗の名がある。

 

下野宇都宮守護藤原朝臣盛綱

鹿島大明神 大永七年丁亥十一月十四日

神主大旦那自紀伊守行宗十四代益子宮内大輔家宗

 

これによると、大永7年(1527年)1114日付けで、益子家の祖・益子紀伊守行宗(之宗)より数えて14代目が益子宮内大輔家宗を称し、宇都宮盛綱と併記されている。

益子14代目を称しているので、家宗は益子惣領の継承を内外に示したと考えられる。宇都宮盛綱という宇都宮当主は系図には見られないが、文字や年代から考えて宇都宮成綱を指している事は疑いない。大永7年(1527年)の時点で宇都宮成綱は亡くなっているが、かつては成綱の家臣であったことを記したと解する。

家宗の父・益子勝宗は分家ながらも、益子惣領から権力を移譲された立場である。その少し前の時代、益子諸系図によると益子惣領は益子完正で、そのあたりの数代は出雲守を名乗っている。家宗はそれ以上に権威のある官途を名乗ることによって益子家を統率しようとしたと考えられる。つまり、益子家古来の官途である宮内大夫(宮内大輔)を名乗る事によって、惣領家を凌駕して惣領となったのである。

 

 1527年は大永の内訌が終息して宇都宮忠綱が没した年である。宇都宮興綱が宇都宮当主になった頃であるが、棟札には宇都宮盛綱(成綱)の名を記してある。まるで、宇都宮忠綱にも興綱にも仕えずに、益子家宗は宇都宮成綱の家臣であるという意志によって新体制に抵抗しているように見える。家督を簒奪した興綱に対して最小限の抵抗心であったかもしれない。角が立たないように、表面上は宇都宮興綱に従っただけのように感じてしまう。

その後、影響力の強い結城家から勝清が益子家に養子に来た。このような不穏状態の益子家を抑えようとしたのだろうか。

表向きは、宇都宮興綱と結城方に味方していたと思われる。なぜなら、家宗が反抗して無理やり隠居、勝清を強制的に養子とされれば、その後は家宗の名は歴史上に出てこない。しかし、このあと西明寺の三重塔造営に益子家宗の銘が確認できる。ゆえに家宗は次世代の興綱や結城家に協力していたと思われる。

 益子勝宗、家宗父子は日和見だったのだろうか。大永の内訌に関連した記録が無いのでどうにも判断ができない。後世に名が残っているので、勝ったほうに与していたはずである。少なくとも負けた側ではない。

 

 

 

4、西明寺三重塔の露盤外面陽刻

益子の名刹・西明寺にも名を残している。西明寺の三重塔(重要文化財)は、益子家宗によって天文元年(1532年)に着工、天文12年(1543年)に完成した。しかし、天文12年の時に家宗が存命だったかは定かでない。本史料は西明寺の造営という重要な事業なので信憑性は確実である。

三重塔の露盤外面の陽刻で、北面と西面に益子家宗の銘がある。

 

(北面) 天文七歳二月吉月

 

(西面) 桝型并鉢八葉本願

     宮内大輔

     紀家宗生年五十一

 

相輪の下部にある伏鉢に天文七歳二月吉月と銘がある。

この史料によると、建造途中の天文7年(1538年)2月のとき、家宗は51歳なので、逆算すると生年は長享2年(1488年)となる。

また、西明寺三重塔の水煙軸には、

 

大壇那家宗小壇那佐藤備中宗次

 

と陰刻されている。益子家宗が大旦那となり、益子家臣と思われる佐藤宗次も造立に関わった事が分かる。益子家にとって重要な西明寺の造営に関わったということは、家宗は当主か、少なくとも当主級の人物である。

系図によると、益子勝宗は天文7年(1538年)9月に亡くなるが、68歳という高齢なので、家督は益子家宗が継承していたと思われる。

そして、ここに名を記すことのできる佐藤家は益子家の中でも有力な家臣と推測され、益子城の西方にある石並城(益子町石並)に拠った佐藤備中守であろう。

 

 

 

5、古河公方宛 宇都宮俊綱書状

年欠613日付で、宇都宮俊綱から、古河公方足利家の重臣・豊前山城守へ送られた書状がある。

 

文意

「先日以来、思いがけず音信が絶えている。御内儀(足利晴氏の指示)を簗田高助より受け、これに従い鮎沢筑後守と進み、伊達口は騒動無し。ただし、益子勝宗の息子が在城する地の西山は、落ち着いたという程でもないと申してきた(騒動の最中という事)。時期が過ぎるのにまかせる。」

 

 

この文書の推定年代は、益子勝宗が亡くなった翌年1539613日から、宇都宮俊綱と名乗っていた下限の15451010日の間と推測される。

宛名の豊前山城守(??1569)は古河公方の重臣で、北条氏康寄りの人物であった。のちに北条家の家臣となり、永禄12年(1569年)108日、三増峠の戦いで討死した。もしくは先代の豊前山城守だろうか?

 

文書によると、西山の地で「勝宗息」(勝宗の息子)が在城して戦が続いているという。西山は西明寺城の東側の地域なので、西明寺城周辺で戦闘が続いているという事であろう。寄せ手は不明である。もしくは田野城付近にも西山という地名があるが、勝宗息が在城しているというので、やはり西明寺城周辺での戦闘のほうがふさわしい。

文中に「勝宗息」とある。これは「益子勝宗の息子」という意味だが、勝清は結城家の人物なので益子勝宗の子ではない。だからといって、これが確実に益子家宗というわけではない。あくまで益子勝宗の息子という事である。しかし、その時点で生年や活動時期から考えると、西明寺城にて戦の中にある益子当主は益子家宗である可能性が一番高い。文中に、落ち着いたという程でもないと申してきたというので、勝宗息は宇都宮俊綱側の人物とみられる。

 

 宇都宮俊綱は、なぜ文中で「勝宗息」と書いたのだろうか。受領名や実名で書かずに益子勝宗の息子と記したのは疑問がある。益子家宗であれば、この頃は50代である。本来ならば宮内大夫や家宗と記されるであろう。実名を知らない程に遠い存在だったのか、それとも幼少すぎたのか。

 

 これは古河公方家臣の豊前山城守宛ての文書である。相手に分かりやすいように書いたとすれば、益子勝宗の名が古河公方に名が通っていたと思われる。それは、宇都宮家の中で重臣であったり、戦で活躍したり、古河公方と外交のやり取りがあった事が理由かもしれない。

理由は分からないので可能性の話をする。例えば、勝宗の名は古河公方家中に知られており、それに対して嫡子の益子家宗の名はあまり知られていない場合、勝宗の息子と言ったほうが古河公方の中ではすぐに理解される。

また、系図上の益子勝宗は天文7年(1538年)922日に亡くなっている。家宗が家督を継いだ直後であれば、周辺大名にあまり知られていない可能性はある。だとすれば、勝宗子としたほうが古河公方の家中に分かりやすい。あくまで推論だが、この文書は益子勝宗が亡くなって間もない1539年〜1541年頃の書状と推測する。

 

「勝宗息」が益子家宗を指すならば、なぜ西明寺城の家宗が合戦をしているのだろうか。誰と戦っているのだろうか。

これは、天文の内訌(芳賀高経の乱)に関する合戦なのではと思った。

 

 

 

6、天文の内訌(宇都宮家、芳賀高経の乱)に関して

天文8年(1539年)頃から宇都宮家中で天文の内訌が勃発。芳賀高経は、主君・宇都宮俊綱に反旗を翻した。上記の書状にある西明寺城での合戦は芳賀高経が起こした天文の内訌に関連している可能性を見出す。

しかし、天文の内訌に関する論文や史料の中で、益子の名を全く見たことが無い。従来から目にするのは、宇都宮尚綱、芳賀高経が中心で、他に、結城、小山、皆川、小田政治、塩谷孝綱、那須家、壬生綱房あたりの名が登場する。

 

宇都宮家重臣の益子家は何をしていたのだろう。

 

芳賀高経が他家を頼って謀反を起こし、長老の塩谷孝綱らも一枚かんでいる深刻な内乱である。宇都宮家臣たちは、宇都宮俊綱と芳賀高経のどちらに付くかの選択は迫られたはずである。さらに他家も介入した大乱となり、結果は第一の重臣である芳賀高経が天文10年(1541年)に殺害された。この間、益子家の動向は全く分からない。

 しかし、乱後について考えてみると益子家の動向がうっすらと導き出せる。まず、芳賀高経が殺害されたあと、高経の子・高規は益子家に匿われたという。ここで益子の名が出たが、乱後の事であり、これだけで益子家の去就を判断するのはとても難しい。匿ったとされるが、芳賀家の子を監視するために益子家が身柄を預かったと思われる。

なぜなら、益子勝宗3男とされる益子定宗(宗之とも)は、益子出身でありながら芳賀高経の跡を継いで芳賀高定と名乗った。この前に益子家宗が謀叛に加担していたら、その血縁である芳賀高定は芳賀家を継ぐなどありえない。よって、芳賀高規の事も匿ったわけではなく、監視のために益子に留めたと考えられる。高規は成長後に芳賀家督を譲られて芳賀高継と名乗った。

 

以上の事から、益子家は、芳賀高経の乱では宇都宮俊綱側に付いたと考えられる。

ここで1541年頃の勢力図を示す。

・宇都宮俊綱 壬生綱房 小田、佐竹、古河公方足利晴氏 益子家宗か?

・芳賀高経(殺害) 塩谷孝綱 那須家、皆川、小山、結城家

 

天文10年(1541年)頃、宇都宮俊綱は結城家から妻を迎えた。両家の融和のためであろう。家宗の跡は結城家から入った益子勝清が益子系図上の当主となっているが、いつのタイミングで当主となったかは不明である。益子勝清はすでに益子に入部していたと思われるが、結城家と親交を結んだので、この時に勝清が益子家督となったかもしれない。

しかし、宇都宮家と結城家はほどなくして敵対してしまった。以後、水谷正村が芳賀郡に侵攻し、宇都宮家はこの対応に苦慮する。

また、天文10年に大沢の圓通寺が焼失したときは戦火なのか、単なる火事なのか不明である。この時は現在地でなく、御座内の294号線のあたりに寺があった。天文の内訌で益子が戦火に見舞われたのだろうか。詳細不明の火事である。

 

 以上、天文10年(1541年)頃の出来事を並べて検証した。天文の内訌(芳賀高経の乱)では、益子家の動向は宇都宮俊綱に協力したと推測できたが、益子家宗本人の事績は見当たらなかった。

ただ、推測として「5、古河公方宛 宇都宮俊綱書状」で前述した通り、宇都宮俊綱に西明寺城での戦況を報告してきた「勝宗息」は益子家宗の可能性があり、彼の立場は宇都宮俊綱側であったと考えられる。

 

 

 

7、天正17年(1589年)益子家宗の謀叛は誤伝

通説では益子家宗は天正17年(1589年)に討伐されたという。各系図や軍記物にあるように、益子家宗が西明寺城を攻められて600町を没収されたという話なのだが、それは誤伝と思われる。

まず、史実の益子家宗は戦国時代前半の人物である。そして、これまで述べてきたように益子家宗に反逆した経緯はみつけられなかった。そして、次代の益子勝清が結城家出身で、益子系図によると謀叛して下館に逃亡したとの記述があるという事に着目した。本来は、戦国時代中盤の天文17年(1548年)に益子勝清が攻められて下館に退去した紛争を指している可能性が高い。

つまり、単純に天文17年と天正17年の伝承間違いであると推測する。これは次頁の益子勝清のところで詳しく記す。

 

 益子家宗が益子系図に誤記された理由は、次のように考えられる。

 

・存在感の強すぎる益子勝宗が長生きして1538年まで生存し、勝清謀叛が1546年である。その間たった8年間だけが家宗の表舞台とすれば、混乱した時代では家宗の名はかき消されてしまった。実際に家宗は40年ほど活動した。

 

・家宗の時代に宇都宮家の内乱が多すぎて、まるで家宗が謀叛を起したように誤伝してしまった。ゆえに後世に系図作成する時に混乱した。

 

・益子勝清が所領を失ったのは天文17年(1548年)。これが、謀叛したのは益子家宗と誤伝して、さらに天正17年(1589年)の誤りとなった。ゆえに益子系図では、益子家宗は天正年間の人物となってしまった。間違えるにもほどがある。アホか。しかし、これは私の推測です。

 

・益子系図の作成はリアルタイムの記載ではなく、後世になってから記憶や伝承を元に記載されたのであろう。ゆえに、記憶や伝承が混乱していれば当然に系図内容も混乱する。もうダメだ。

 

 

 

まとめ

これらの史料によって、益子家宗は長享2年(1488年)生まれで、それまでの益子惣領家に代わり益子家を率いた、新たな益子惣領の家系と考えられる。つまり、元は益子分家の人物という事。現在残されている一級史料があり、それによれば軍事面、寺の修築などに関わった事が分かる。その活動時期は永正から天文年間の約40年間に及ぶ。

 

そして、家宗は1541年以降に死去し、益子家督は結城家からの養子・勝清が継いだと思われる。

 

 益子家宗の史実に少し近づいただろうか。

 

 

 

 

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