黒田家






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 家伝によると、近江国守護である京極家から分家で別れた黒田家の家系である。すると、戦国時代で有名な黒田官兵衛と元は同じ家系になる。よって、同家は宇多天皇を祖とする宇多源氏であり、源姓を名乗っている。
 その後、今川家の家臣を経て、戦国時代に下野国に移住して宇都宮広綱に仕えたという。
 江戸時代に帰農して塩谷郡大宮村の名主、鬼怒川の河岸問屋、関守などを任されているので塩谷町大宮に江戸時代より前からいたと思われるが、実際のところ、戦国時代に下野国のどこにいたのかは不明である。

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・戦国時代の当主。
 戦国時代頃に相当する人物は、・・・黒田勝幸―邦勝―信勝―定勝・・・の4人が見える。

・黒田勝幸

 家伝によると、黒田備後守勝好の子。文明3年(1471年)6、近江国守護職・京極勝秀公の推挙により、駿河国の名門今川氏親公の重臣に列す。とある。これには不可解な部分がある。
 京極勝秀はすでに、応仁2年(1468年)に死去している。以下、京極家の応仁の乱における動向を述べる。

 黒田家は、近江守護である京極家の一族で、宗満が黒田姓を名乗ったことに始まる。以降、京極家の重臣として仕えた。そして、室町時代後期に応仁の乱が勃発し、京極持清(文明2年・1470年に死去)は東軍に属した。
 その子・京極勝秀は応仁2年(1468年)に死去しており、勝秀の子・孫童子丸は文明3年(1471年)に死去してしまった。
 黒田家に養子になっていた黒田政光(京極勝秀の次弟)は京極姓に復すが、幕府は孫童子丸後見役であった京極政経(京極勝秀の3弟)を家督とした。そこで政光は西軍に走り、京極政経らと対立する。六角家と組んではじめは政経らを圧倒したが、翌年の文明4年(1472)に死去した。

 しかし、京極家の史料を見てみると、黒田政光は文明3年の時点ですでに死去しており、京極高清(京極勝秀の4弟か、勝秀の子息)が政経と争って破れ、越前の敦賀に逃れたという。
 黒田勝幸はどうやら、この時のどちらかの家督争いに巻き込まれたようだ。

・参考までに京極家の系図を。


 そして勝幸は、文明31471年)に故あって駿河の今川氏親に仕えたという。しかし、この時の当主は今川義忠であり、氏親はこの年に生まれている。またもや誤りである。今川義忠は細川勝元の命で、応仁2年(1468年)に駿河に帰り、隣国の斯波家や叛乱分子軍などの領内外の敵を駆逐している。その最中に黒田勝幸は仕えた事になる。
 勝幸は、黒田政光が西軍に属する前に近江を離れたと思われる。なぜなら、黒田勝幸は東軍の今川家に仕えているからである。一度、西軍に属した他家の者を召しいれるとは思えない。

 もう一つ、系図に誤記と見られる部分がある。黒田政光の次代が黒田勝幸ならば駿河に落ちて行った年代は合致するのだが、系図には政光と勝幸の間に4代もの当主が見える。
 つまり、黒田政光―光勝―信勝―勝秀―勝好―勝幸…となっているのだ。文明3年(1471年)に駿河今川家に仕えたのが勝幸ではなくて、光勝とすれば年代的に一応合致する。以降は年代を追って戦国時代に突入すると考えれば問題ない(少々、代数は多いが)。

 そして、勝幸の次代にあたる邦勝の注記には、永禄3年(1560)とあり、系図だけを見ると2代で約90年も時代が進んでいる。これには無理があり(可能性は無いでもないが・・・)、やはり黒田政光のあとに光勝が駿河に移住し、―信勝―勝秀―勝好―勝幸…と戦国時代を歩んで行ったと解釈するのが妥当である。
 系図に多少の誤りがあるのはめずらしくない。黒田家の系図も史実に沿って解明してゆけば、おおよその系譜は繋がってゆく。系譜を明らかにするには、他に史料が残されていない今、現代に作成されたこの系図のみを手がかりに誤記を修正して史実に近づけていく方法しか残されていないのである。
 本項では、史料批判するのではなく、できるだけ史実に沿う系譜の可能性を示すことを目標とする。




・黒田邦勝

 勝幸の次代にあたる。山城守。永禄3年(1560年)5義元公の終息により、近江国守護六角義治公の推挙により、宇都宮広綱旗下になる。

 邦勝の代で下野国に移住したようである。永禄3年(1560年)の桶狭間で今川義元が討ち死にすると、なぜか近江の六角義治の推挙で宇都宮家に仕えた。戦国期、六角家とどのような関係があったかは不明。黒田家と六角家、また六角家と宇都宮家。宇都宮家と黒田家・・・どれも、ほとんどと言っていいほど接点が無い。
 邦勝は近江国に戻ったのだろうが、六角家に世話になったのだろうか。見たことも会ったことも無い六角義治から推挙を受けるのはおかしな話だから疑問が残る。黒田家が近江国を出たのは90年前だから、よく戻れたものである。そして、六角義治からの推挙で宇都宮家に仕えたという。下野に移住した時期は不明。六角家から宇都宮家へ移った経緯とはどういったものだろうか。

 同じ家系で、有名な黒田官兵衛を生み出す黒田家は高政のとき、永正8年(1511年)の船岡山合戦(この合戦は信憑性は無い)以降に備前国に逃れた。黒田政光は京極家家督争いのときに六角家に仕えたと思われ、その子といわれる黒田高政は六角家の戦に従軍するが、軍令違反で室町将軍足利義稙の勘気を蒙って近江を失領、備前国邑久郡福岡村に移住したのである。六角家と黒田家一応の接点はある。しかし、下野黒田家の先祖は、黒田高政が備前に移住する30年ほど前に、すでに駿河今川家に仕えている。

 黒田高政が備前国に移住できた理由としては、同じ宇多源氏を名乗る加地家が鎌倉時代からおり、備前国児島郡を中心に点在していた伝手を頼ったという。これが本当だとすれば、下野国には同じ宇多源氏を名乗る宇賀神家(宇加地家)が宇都宮家臣として白沢にいた。これを頼りに移住した可能性がある。突然訪ねるのは無理があるだろうから、事前の手紙等のやりとりがあった事が推測される。
 また、六角義治の人物像からして、縁の無い宇都宮家などに推挙などしてくれる人物には思えない。義治は永禄6年(1563年)に重臣を殺害し、六角家臣団は分裂する。このときに黒田家は下野に移住したとも考えられる。そのあと六角家は織田信長に蹂躙される。いずれにせよ、黒田邦勝の時代に下野国に移住してきた事は吉と思うべきであろう。




・黒田信勝

 邦勝の次代。左近正。天正13年(1585年)1024日卒。内室は天正18年(1590年)416日卒。
 天正元年(1573年)10月広綱公に属して壬生綱雄を攻略する。

 先代の邦勝が下野に移住したときには、信勝はすでに生まれていたと思われる。
 天正元年(1573年)10月に宇都宮広綱に従って壬生綱雄を攻略したというが、この時期壬生綱雄は死去している可能性が高く、壬生当主は義雄である。ちなみに鹿沼城は、宇都宮方の徳節斎周長が治めている事から、壬生城の壬生義雄を攻めたのだろうか。

 史実を探ると、天正元年(1573年)9月初旬に北条家が北上し、小山領の粟志川を攻めた。9月末に粟志川は落ちた。そのとき徳節斎周長は鹿沼、南摩、西方などの防備に務め、佐竹義重の来援を今か今かと待ち望んでいた。
 前年の元亀3年(1572年)5月に壬生家と佐竹家(間接的に宇都宮家とも)は和睦していたが、天正元年に北条家が攻めてきたときには、宇都宮広綱、佐竹義重、小山秀綱は共同で壬生陣中にて北条軍を迎え撃とうとしていた。このときの壬生義雄の動向は不明。
 しかし、翌天正2年(1574年)2月に壬生義雄を攻める要請が成されている事から、壬生義雄は天正元年9月の北条家侵攻により、北条方へ寝返ったと思われる。

 以上の事から、黒田信勝は天正元年(1573年)10月、壬生口で北条家を迎え撃った宇都宮、佐竹、小山連合軍に従軍したものと思われる。そのとき壬生家が北条方に寝返っていれば、壬生家と合戦があったのかもしれない。




・黒田定勝

 信勝の次代。山城守。黒田家初代とされる。慶長11年(1606年)88日死去。内室は慶長7年(1602年)821卒。

 戦国期の黒田家当主のなかで、塩谷町大宮に一番関わりの深い人物と見ゆる。没年から考えると下野国生まれの可能性がある。
 慶長2年(1597年)宇都宮家の改易と共に大宮村に帰農したという。黒田家の系図によると初代とされる。厳密にいえば帰農した初代で、系図ではこの代から当主の代数が数えられている。
 戦国時代から大宮に住んでいた証拠として、宇都宮家改易直後の家臣帳の大宮村に黒田姓が数名見られる。
 江戸時代には宇都宮藩主・奥平家より大宮村の名主を、元和7年(1621年)頃には宇都宮藩主・本多正純から河岸問屋、関守を任されている。

 実は、子である黒田内膳正則定(2代目)から5代目までは所業など不詳で、6代目頃からようやく江戸時代での業績が判明するという。つまり、現代の黒田家において定勝が初代とされているに過ぎず、そこから5代目までは当家でも所業は謎であるという。
 単に記録が無いだけか、または一族に大宮村を任せ、のちに黒田家が大宮村に戻ってきた可能性もある。いずれにせよ、戦国期には大宮村に黒田某がいたことは確認されている。

 ちなみに、黒田家の旧墓石は定勝のもの(戒名により判断)が一番古く、以降は江戸時代の当主の墓石が残っている。



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・黒田家系図。


 黒田政光以降、戦国時代に突入したと考えられる。何度も述べているが、黒田政光の次代は京極系図には見当たらない。備前に移ったとされる黒田家(黒田官兵衛の家系)と、下野の黒田家が、それぞれの系図で黒田政光の子から起こったとしている。
 下野の黒田家では江戸時代に入り、黒田山城守定勝を初代として代々続く。戦国時代は代数に数えられていない。当ページは戦国時代がメインなので、これ以降の系図は省略する。


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・周辺の遺跡。

「黒田家旧墓石群」
 現在でも残っている黒田家の墓石を見せていただいた。黒田定勝の戒名が刻まれているものが一番古く、それ以降江戸時代の当主の墓石が並んでいる。
 集合墓地のようなものと思われ、その辺りには数家の墓石が点在している。そこに寺があったかは不明で、現在では一帯に墓場があったとの言い伝えが残るのみ。菩提寺のあった可能性は高い。
 墓石は江戸時代のものだが、それらを見るとすべての墓石が西側を向いており、その視線の先には大宮城跡がそびえている。通常、墓石は南側を向いて建てられるはずなので、明らかに大宮城に対して何かの念がこめられている。
 黒田家は、大宮城になんらかの関連のある家だった事は疑いない。黒田家の墓石は江戸時代以降のものである。大宮城が機能していたのは戦国時代までであり、戦国時代までに大宮城と関わりが深くなければ墓石が大宮城の方角を向くわけがない。近江から移住した時に大宮に住んだか、もしくは天正年間に大宮城へ駐屯して土着したのであろう。



「大宮城跡」
 塩谷郡塩谷町大宮にある宝福寺裏の小高い山に遺構が残る。栃木県の中でも屈指の大きさを誇る。巨大な主郭とノ郭、その間の深い堀、横矢、二重堀など、相当の土木量を以って堅固な城跡となっている。

 大宮郷を領した家として宇都宮家臣の大宮家がある。室町時代に、宇都宮家臣・君島胤時(千葉一族の大須賀が下野に移住)の子が分家して、塩谷郡大宮を領して大宮胤景を名乗った。現在の大宮城跡の上には古墳が残っており、案内板によるとこの付近が昔の主郭のようだ。はじめはこの部分を改良して小城を築いたのであろう。
 この西南側に日々輝学園高校がある。同高校の校庭は遺構があった部分であるが、学校建設の際に自衛隊演習の名目で重機を入れ、すべて潰している。

 そして戦国時代。大宮の地は軍事的に重要視されるようになる。その要点を挙げる。
 まず、塩谷から北の三依地方や塩原地方では、宇都宮家臣の君島家が奥州の長沼家と戦っている。
 東には、宇都宮家重臣の塩谷家が那須家と戦っている。すると、川崎城(現・矢板市)や氏家方面に兵力を宛てられる。
 南では壬生家、小田原北条家の侵攻が厳しく、宇都宮家は大改修した多気山城に居城を移して、鹿沼城、日光山方面への防御を強めた。
 中でも、大兵力を要する北条家への大極的な戦略を考えると、宇都宮家としても大兵力の後詰が必要になる。上に挙げた、塩原、塩谷、多気山城すべて3方向へ兵を派遣できる中心地が大宮城と見ることができる。
 ゆえに、大宮が軍事基地として重要視され、天正13年(1585年)の大改修に至ったのだろう。室町時代に築かれたはじめの城の南東側に、大きな主郭と二ノ郭、それに伴う堀などを設けたと思われる。これにより、旧城のほうが下位の郭にも関わらず高地となっている。そこは深くて広い堀と技巧的な土塁などで対応したのだろう。こうして大宮城は大兵力を駐屯できる軍事施設へと変貌を遂げた。

 また、一般に大宮家の居城としているが、それには疑問がある。宇都宮家臣に大宮姓は戦国時代にも見られるが、室町時代はじめの頃は居城したであろう。しかし、約200年後の戦国時代まで大宮家が居城したかは分からない。
 史料によっては、大宮城に赤埴周防守が在番しており、比較的重臣と思われる武将を置いている。ゆえに、大宮家も引き続き大宮城に在番したか、または一族でそれぞれ他の城に赴いた者もいるだろう。

 大宮城跡の東側に隣接する大宮小学校は、江戸時代の黒田家屋敷のあった場所である。明治になって、小学校を建設するため譲り渡したという。相当広く開けた土地であり、戦国時代までの大宮城主の館、もしくは戦国時代後期には駐屯する家臣らの膨大な屋敷群があった可能性が高い。


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・下野 黒田家の出自の可能性。

 ここからは下野の黒田系図にとらわれず、下野塩谷町大宮に行きついたと思われる、あり得る可能性を追求して色々な黒田家からの流れを検証してみる。どれも確定できないので当サイトにあまり関係の無い内容であるが、黒田家を調べて面白かったので紹介する。
 下野の黒田家系図には、この黒田政光のあとに光勝なる人物が子として見える。これは京極系図の黒田政光には子の記載は無いのである。
 また、備前国に移住したという黒田高政の存在も明らかでない。しかし、黒田(官兵衛)家の系図には高政の名が見えるのである。
 どちらの系図も創作である可能性もあり、黒田政光のあとが系図の繋げどころなのであろうか。下野の黒田家が近江から出たという説を否定するわけではないが、すでに散々説明してきたので、ここからは違う説を唱えてみる。
 日本各地の黒田姓の中から、とくに可能性のありそうなもの(というか、面白いので)だけを調査して、以下の4系統について紹介する。もう少し文章をまとめてから、次の機会に更新したい。

・内大臣・藤原伊周の曾孫、藤原元忠が関東へ配流となり、常陸国新治郡八 郷村にて黒田元忠と名乗った一族。

・越前国黒田で足利義次が黒田姓を名乗り、遠江に下った一族。今川家に仕 え、次いで徳川家に、のちに帰農。

・松平(徳川)家臣の黒田家。一時、今川家臣、北条家臣にもなっていると いう。江戸初期には徳川の旗本、さらに大名になった一族。

・下野国の茂木町の黒田、もしくは小山市の黒田から発祥。


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