川上家





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 垂仁天皇に始まり、本姓は越智姓という相当の名家。穴浮姓、河野姓と変わり、前九年の役での戦功で越前国河上城を賜る。民は「河上殿」と尊称するので、姓を河上と改めたという。

 元暦元年(1184年)に通広は木曾義仲に従って、義仲討死の折、共に忠死を遂げた。子の通経は、母が岡田親義(佐竹一族)の娘ということから、常陸の佐竹家を頼った。孫の通員に至り、佐竹家を嫌って宇都宮頼綱に仕え、田原郷を領して宿老に列する。
 通秀は南北朝側の宇都宮公綱に従うが、子の通時は足利尊氏に味方し、薩?峠での戦功により尊氏より感状を貰っている。公綱からも寒河郡のうち300貫を宛がわれる。
 景通は、応永23年(1416)の上杉禅秀の乱では宇都宮持綱に従い、鎌倉公方・足利持氏より感状を貰う。のちに足利持氏は、宇都宮持綱討伐の兵を向けた折、塩谷駿河守は持綱を塩谷の幸賀にて討つ。景通も共に忠死したという。
 子の通朝は奥州に流浪した宇都宮等綱に供するが、等綱が病死すると宇都宮に帰還。その子・通高は宇都宮正綱に従い、上野川曲に出陣した。

 戦国期は数々の合戦に出陣し、戦功を賞されている。宇都宮家より塩谷郡道下郷を賜り、のちに付近の原荻野目に移る。




・戦国期の当主。

川上通高 1441年〜1509
 河上五郎太夫。母は祖母井信濃守の娘。永正6年(1509年)67日卒。享年69歳。法名:春岩了意。通高は宇都宮正綱に従い、上野川曲に出陣して功名抜群と伝わる。父の通朝は、古河公方・足利成氏に追われて流浪した宇都宮等綱に従い奥州にいたが、寛正6年(1460年)等綱の死後は宇都宮に戻った。この時に通高も宇都宮明綱に仕えたと思われる。



川上通方 1465年〜1530
 河上右衛門尉。母は那須の稲沢上野の娘。享禄3年(1530年)410日卒。享年66歳。
 川上家の者が、下総関宿城の城代も務めていた。これは宇都宮家が古河公方と親密だった頃のものとすると通方の時代と思われ、「川上右衛門尉、同丹波守、同和泉守、同織部」と名がある。これが川上家の中心となっていた4人と思われる。こののち、宇都宮在番ならびに玉生、川崎(城)守護に赴いている。重要な城の城代として各地に転戦していたことがうかがえる。



川上通里 1521年〜1568
 河上右衛門尉。母は壬生上総介の娘。永禄11年(1568年)712日死去。享年48歳。法名:損館冷月道光居士。
 天文14年(1545年)と思われる宇都宮俊綱の103日の軍勢催促状があり、風見源衛門尉宛に、きね河(衣川)に野武士引き連れ、急遽出陣するように。また、委細は風見源衛門尉に言い含めてあるとの旨が書かれている。その中に「河上右衛門殿」とあり、その他の宇都宮家臣も、塩谷郡に拠った武将たちである。風見がこの辺りの軍勢の召集役であったのだろう。その頃、川上家は塩谷郡辺りに住していたと思われる。

 系図によれば、天文16年(1547年)927日(年号は系図の通りに記した)の五月女坂の合戦で宇都宮尚綱が討死した際、通里は走り廻り、その働きは莫大だったという。
 永禄11年(1568年)712日、宇都宮広綱は上杉謙信による小田原北条家征伐に参加。通里もこれに従軍した。小田原の戦場において蓮池辺りまで進軍すると、城中から敵兵が大勢出撃してきた。このとき、通里は馬を真っ先に進めて防戦し、ついに討死してしまう。宇都宮広綱はこれに感激した。さらに、笠間長門守が通里の首を故郷の妻子の元に送るよう手配し、柿沼加賀が持参した。
 このとき、嫡子・通直は21歳のときに病死、次男・通昭は11歳のときに出家しており、川上家には嗣子がいなかった。

 また、通里と思われる人物に関する文書が残る。
 まず、川上衛門里吉宛で、天文18年(1549年)925日付けで、那須勢と五月女坂で合戦があり、戦功により加増されている。これは、尚綱が討死する2日前の事で、それ以前から五月女坂付近で那須家と合戦があった事がうかがえる資料である。
 さらに、永禄11年(1568年)、笠間長門守利長から川上右衛門への感状が内室宛てにある。これは川上右衛門里吉が小田原で討死した際のもので、柿沼加賀が召しだされ、里吉の首を故郷の妻の元に届けた。
 川上系図では通里であるが、文書では里吉である。しかし、所業、時代ともに一致する部分があるので、同一人物と思われる。



川上通正 1541年〜1615
 弥右衛門。母は薬師寺阿波守の娘。元和元年(1615年)卒。享年75歳。法名:象骨穐氣居士。
 通里の子であるかは不明。
 那須の雲岩寺にて義頓と名乗っていたが、宇都宮広綱は河上家の断絶を残念に思って師に所望して、義頓が17歳のとき、還俗させて通正として川上家を存続させた。このとき下田原郷の道下村を知行として与えられた。
 しかし、これには食い違いがある。通正が17歳のときは、弘治3年(1557年)である。通里が討死したのは1568年だから、これではおかしい。通里が討死していない時に通正が還俗する必要は無いからである。また、宇都宮広綱は当時15歳前後であるから、上記のような活動などできないと考えたほうがよい。
 還俗した年は1568年以降と考えたほうが良い。

 天正13年(1585年)325日薄葉ヶ原にて那須軍と戦い、功名比類なきにより土屋村を加増され、感状も下される。
 天正13年(1585年)328日付の宇都宮国綱書状で、川上弥右衛門宛てで土屋村の加増されたとあるから、この記述は一致する。

 また、川上系図を披見して川上家の本姓は越智姓である事を知った宇都宮国綱は、重宝のものであるので、これを失くした者は一生涯の不覚であるから大切にするように。との書状を川上式部太夫に送っている。通正時代のものと思われる。

 慶長2年(1597年)1013日に宇都宮家が改易されると、君島主膳と共に宇都宮国綱の次男・則綱に従い、那須の興野に流浪する。



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・別本系図

 川上系図は別にもう一つ存在し、前述の系図とは、当主や所業などの年代が違っている。通代以前の代は欠落しているが、通代の先代は記述部分が一部ある。それによると川上某は、天文18年(1549年)の五月女坂合戦で宇都宮尚綱が討死したとき、供に討死したという。享年57歳。法名:象骨秋氣居士。法名が、上記の川上通正と同じという所が系図の混乱ぶりを示している。また、享年が57歳と75歳という所も引っかかるが、現時点では明らかにできない。


川上通代 1516年〜1561
 川上家当主と思われる。河上越前介。母は壬生家の娘。永禄4年(1561年)死去。享年46歳。
 弟に、通里が見える。通里は後に右衛門尉と名乗り、相州にて討死・・・とある。上杉謙信による小田原の陣のときに討死したものであろう。



川上通昭 1540年〜1596
 河上五郎太夫。天正13年(1585年)薄葉ヶ原で那須資晴と戦ったとき、功名比類なき者と評され、宇都宮国綱より感状をもらっている。慶長元年(1596年)3月、宇都宮にて死去。享年57歳。



川上通茂
 河上刑部介。妻は那須の月次讃岐隆林の娘。
 慶長2年(1597年)宇都宮家が改易になり、宇都宮国綱は武蔵国浅草に隠居した。その時、国綱の庶子・弥四郎則綱は那須の興野家のもとに行き、通茂は君島主膳と共に宇都宮則綱に仕えた。則綱の母が興野家の娘という縁をつたったのである。
 しかし、慶長14年(1609年)321日に宇都宮則綱が13歳で死去すると、那須資晴に永楽20貫で仕えたという。しかし、慶長14年はすでに永楽銭の使用が禁止されていたため、永楽20貫というのは従来まで使用されたものでなく、年貢取立てなどで使用された「永」という仮想単位と思われる。長年使われてきた永楽銭の名残が、まだまだ東国では根強く残ったのである(1永=4文程度)。

 次弟の川上図書通屋は病弱で、宇都宮に在したという。3弟の通治は浅野長政に100貫で仕え、寒川右近と号した。4弟の河上采女通篤は細川藤孝に120貫で仕え、家名を変えて田原右近とした。5弟の五郎通は、蜂須賀光隆に30貫で仕え、久米右衛門と称した。



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・川上系図

 

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