糟谷家
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ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 戦国時代に見える糟谷姓。 ・糟谷又左衛門 氏家桜野城主として名がある。桜野の領主であろう。 天文18年(1549年)、宇都宮尚綱が討死にした五月女坂合戦に出陣している。氏家周辺の城主も出陣しており、宇都宮軍の先陣をきって戦ったと思われる。 また、「那須記」に氏家桜野城主 糟屋又左衛門とあり、「宇都宮記」には桜野城主粕屋又左衛門とある。両方とも同記述だが、天正4年(1576年)の事であるので、五月女坂に出陣した又左衛門と同人物かは分からない。 ・糟谷石見守 芳賀高定より、天文年間から文書が数度発給されている。 ・糟谷小僧 茨城所在の史料で、宇都宮家各領主の一覧によると、天文13甲辰(1544年)時点で糟谷小僧が荊沢の支配を任されている。今宮祭祀禄にも同様の記述があり、これら二つの史料はどちらかが写したものであろう。 さて、糟谷家の人物と思われるが、「せがれ」とはどういった経緯であろうか。父が他界して幼少の身ながら、引き継いだのだろうか。詳細は不明。糟谷又左衛門は天文18年(1549年)の五月女坂合戦に出陣している事から、又左衛門の子という可能性もある。 その前の項を見ると、応永19壬辰(1412年)の荊沢には瀧九郎がいたが、戦国時代には糟谷家が任されていた事になる。 ・糟谷因幡守 天正16年(1588年)死去。永禄12年(1569年)の荊沢(現・日光市荊沢)の支配を任されている。永禄12年までの24年間、荊沢郷を任されて今宮神社(現・栃木県さくら市)の神事を行っている。 前述の糟谷小僧は、子供であるにも関わらず支配を任されている事から相当な家格の家である事が推測される。また、天文13甲辰(1544年)から約24年間経っている(1、2年の差があるが)事から、糟谷因幡守の幼少期の可能性もある。 ・糟谷源兵衛 糟谷因幡守の子。桜野城主と思われる。「今宮祭祀禄」に多く名が見られ、神事も行っている。 「氏家町史」にある現代訳も参考にしながら紹介する。 天正14丙戌(1586年)に塩谷(おそらく喜連川塩谷家)が宇都宮領に乱入し、宇都宮家と那須家との境が危険な状態になったので、糟屋源兵衛が大窪郷(現・塩谷町大久保)を預かり、頭役も担当した。 天正16戌子(1588年)には荊沢の頭役を務める予定だったが、父の因幡守が10月15日に亡くなっている。用意は整っていたが、口頭にて神事中止を申し入れている。 翌、天正17年己丑8月9日には源兵衛の母が亡くなったが、神事をこれ以上引き伸ばしはできないので、子の藤三郎に代行させた。 ・糟谷藤三郎 糟谷源兵衛の子。 天正17年(1589年)己丑8月9日に父・源兵衛が桜野郷の神事を行うはずだったが、祖母が亡くなり、急遽藤三郎が神事を勤めている。 たった7日で精進させ、七五三(しめなわ)を祭り上衣の儀を執り行って神事を勤めさせた。 「宇都宮氏家臣書上帳」にも名がある。 ・糟谷織部 続柄不明であるが、茨城県所在の資料で、「城館跡 館持並土著(着)之士 塩谷郡」の項に領主としての名が見える。「桜野 在往来の南二丁余畑地 天正17己丑(1589年)糟谷源兵衛・同織部・藤三郎」とある。源兵衛、藤三郎親子と共に桜野郷にいることから、糟谷源兵衛とかなり近い続柄であろう。 「在往来の南」とは、おそらく当時の東北道南側の地という意味であろう。二丁余という畑の具体的な面積も記されている。すると、現在のさくら市櫻野の地名や、桜野城伝承の記述と場所は一致している。 「宇都宮氏家臣書上帳」にも名がある。 ・粕谷土佐守 「宇都宮記」に、小倉の城主大桶又右門尉・同所粕谷土佐守と見える。「那須記」には糟屋土佐守とあり、両者は同一人物である。 これによれば、小倉(現・宇都宮市上小倉・下小倉辺り)には大桶と粕谷土佐守の二人の領主が存在している。 ・糟谷善七郎 ・同 民部 茨城県所在の資料で、「城館跡 館持並土著(着)之士 塩谷郡」の項に領主としての名が見える。天正15丁亥(1587年)の青谷(現・高根沢町大谷)に糟谷善七郎と糟谷民部の名がある。ここは桜野のすぐ南に位置する。他に大谷和泉守、阿久津丹後守の名も見られ、青谷郷の中で少領をもらっていたか、もしくは今宮神社の神事を持ち廻りで担当していたのだろう。 「宇都宮氏家臣書上帳」にも名がある。 ・粕谷政武 右京亮。天正15年(1587年)死去。 天正13年(1585年)粕谷右京亮政武は上郷衆(金枝光任、上平勝重、飯岡知貞、小宅高祐、鈴木重康ら)と共に大宮城(現・塩谷町大宮)の普請に関わり、大兵力を駐屯できる城郭に改修、在番した。 ちなみに、氏家今宮神社を中心に、氏家二十四郷のうち現在の塩谷町周辺の郷村領主を上郷衆、さくら市や高根沢町周辺を下郷衆と呼ばれていた。粕谷政武は上郷衆と呼ばれているので、塩谷町周辺か荊沢辺りにいたと思われる。桜野郷は下郷衆に入るからである。 天正15年(1587年)の倉ヶ崎城での合戦では、籠城して北条家と日光山の兵を迎え撃つが、城内の大門弥次郎が心変わりして北条家に寝返った。倉ヶ崎城(現・日光市の茶臼山)は落城し、柏谷右京亮政武は他の五将と共に討ち死にした。大門弥次郎は戦後に北条家に斬られているので、大門はなんと無駄なことをしたのだろうと残念でならない。 ・糟尾(屋?)三郎左衛門 ・糟谷佐左衛門 ・糟谷雅楽助 ・糟谷主膳 「宇都宮氏家臣書上帳」に名がある。この史料には宇都宮忠綱家中との記載があるが、実際には天正後期の宇都宮家臣を記したものといわれている。上記4人以外にも糟谷藤三郎や糟谷織部らの名もあるため、記された家臣団は戦国時代の後期のものであろう。 ・糟谷民部少輔 ・糟谷亦右エ門 「宇都宮弥三郎旧領高帳」に名がある。上記以外に糟谷織部の名もある。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 関連史跡。 ・桜野城 現・栃木県さくら市櫻野にあったと思われるが、現在は消滅している。氏家町史によると、城というより居館であろうとされている。 「氏家記録伝」によれば、原ノ古櫻野という所に館ありと記されている。古櫻野とは、現在の旧奥州街道よりも南側で、五行川を下った辺り。湧水地であり、水田地帯であった。その周辺に桜野城(桜野居館)や桜野八幡社などがあって集落を形成し、松原と呼ばれていた。 その後、宇都宮家の改易により桜野城も廃城になり、奥州街道の開通によって集落も移動し、桜野城は消滅した。 江戸時代の記録に小字名が記されており、「おせど」に桜野城があったと古老の言い伝えがあるというが、詳細は不明である。 諸記録から見ると、桜野城主は糟谷家であり、この周辺の領主と考えてよいと思われる。 那須家と合戦になれば最前線であったわけで、うしろに氏家勝山城が控えていたとはいえ、居館程度の規模であれば敗戦すれば落城は免れない。多難であった事がうかがい知れる。 |