笠間家臣団
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青木和泉守
福原地区に墓があり、そこに「宇都宮弥三郎総代・青木泉守」と記してあるという。笠間家の重臣・福原家の旗下に属していたのかもしれない。江戸後期の宇都宮旧臣史料でも、この地に青木姓がいることが確認される。
阿保良実
門毛城主。遠江守。阿保家は、笠間家中・羽石家の幕下にあったと思われる。門毛は下野と常陸の境目で、益子家と笠間家の境界線でもあった。それゆえ、昔から農民同士のトラブルも多く、その一番大きな争いが天正年間の長期にわたる争乱といえよう。この争乱は岩瀬地方を中心に、笠間家、益子家、結城家などが激しく争った。
天正11年(1583年)の田野合戦で、羽石秀政が水谷政村に敗退すると、羽石は阿保遠江守の門毛城に逃げ込んだ。しかし、黒羽の今井勘左衛門が水谷に密告し、水谷勢は門毛城に攻め込み、羽石秀政は水谷家臣・平沢五郎知義に討ち取られてしまう。
「水谷蟠龍記」によれば、阿保遠江守は羽石秀政をかくまった事を益子宮内太夫に詫び、降参が許される。そしてこのとき、吉田周防守を養子として迎え、門毛城を引き継がせたという。
阿保遠江守は笠間の属将で、田野合戦は同年の益子宮内太夫×高塩伊勢守(笠間家臣)の合戦が引き金となっていたため、劣勢になった阿保遠江守は益子宮内太夫に詫びを入れたのだろう。
阿保良房
六右衛門。
天正11年(1583年)羽石政秀が水谷勢に攻められ、田野城の籠城戦に敗退して門毛城に逃れると、黒羽の今井勘左衛門の密告で水谷政村が攻めてきて羽石は討ち取られてしまう。
良房は周辺の諸将を糾合、今井の館へ進撃した。
「笠間市史」によると、これに従軍した諸将は、阿保六右衛門良房以下、飯田八郎左衛門、同勘九郎光良、同十兵衛、足立、仁平、長堀、高畑勘左衛門、真崎九郎兵衛、岩瀬十兵衛、柳厳兵衛らである。またたく間に今井の館を攻め落とした。
これを聞いて今井を救出しようと攻めてきた結城家・片見伊賀守晴信の兵300と激突。激戦の末、阿保勢は敗退してしまう。片見晴信は橋本城に入り、結城家中郡支配の前衛基地として大きな布石を打った。
阿保良清
八郎左衛門。
天正11年(1583年)羽石政秀が水谷勢に攻められ田野城に籠城すると、羽石勢として田野合戦に参陣。しかし、羽石政秀は水谷政村に討ち取られてしまう。
秋山源左衛門
天正11年(1583年)羽石政秀が水谷勢に攻められ田野城に籠城すると、羽石勢として田野合戦に参陣。しかし、羽石政秀は水谷政村に討ち取られてしまう。
秋山政光
源治。来栖に住す。
西念寺文書の「小田原陣の控」によれば、笠間時広の代理として小田原に参陣した稲田頼国の家臣。
秋山彦太郎
「宇都宮弥三郎舊領高帳」に名がある。おそらく秋山政光らと同族であろう。
秋山彦次郎
「宇都宮弥三郎舊領高帳」に名がある。
秋山市郎左エ門
「宇都宮弥三郎舊領高帳」に名がある。
秋山彦七郎
稲村に住す。
慶長2年(1597年)10月、宇都宮家改易時の宇都宮旧臣として名がある。
秋山兵左エ門
稲村に住す。
慶長2年(1597年)10月、宇都宮家改易時の宇都宮旧臣として名がある。
安達大膳
安達大膳亮とも。文献によっては足立とも記される。
天正11年(1583年)羽石政秀が水谷勢に攻められ田野城に籠城すると、羽石幕下として田野合戦に参陣。しかし、羽石政秀は水谷政村に討ち取られてしまう。
安達内膳
来栖に住す。
西念寺文書の「小田原陣の控」によれば、笠間時広の代理として小田原に参陣した稲田頼国の家臣。安達大膳と同族と思われる。
安達兵部
安達大膳と共に「宇都宮弥三郎旧領高帳」に名がある。安達大膳と同族であろう。
安達弥左エ門
慶長2年(1597年)10月、宇都宮家改易時の宇都宮旧臣として名がある。
天野清右衛門
慶長2年(1597年)10月、宇都宮家改易時の宇都宮旧臣として名がある。
飯田八左衛門
羽石配下。富岡砦の将。
天正11年(1583年)田野合戦ののちに羽石政秀が水谷勢に討たれると、今井勘左衛門の館を諸将と共に落とした。すぐさま攻め寄せた結城家・片見晴信の軍を戦い敗北。橋本城を奪われ、中郡の支配を許してしまう。
飯田光良
勘九郎。飯田八左衛門と同族であろう。
天正11年(1583年)田野合戦ののちに羽石政秀が水谷勢に討たれると、今井勘左衛門の館を諸将と共に落とした。すぐさま攻め寄せた結城家・片見晴信の軍を戦い敗北。橋本城を奪われ、中郡の支配を許してしまう。
飯田十兵衛
天正11年(1583年)田野合戦ののちに羽石政秀が水谷勢に討たれると、今井勘左衛門の館を諸将と共に落とした。すぐさま攻め寄せた結城家・片見晴信の軍を戦い敗北。橋本城を奪われ、中郡の支配を許してしまう。
飯田内膳正
「宇都宮氏家臣書上帳」に中泉の領主として名がある。桜川市の中泉と思われる。すると、冨岡砦の飯田八左衛門よりも前衛を守っていた事になる。
飯野秀正
信濃。本戸に住す。西念寺文書の「小田原陣の控」によれば、笠間時広の代理として小田原に参陣した稲田頼国の家臣。
石井重正
孫七郎。笠間郡石井郷の土豪。
「笠間市史」を参照した。
石井氏系図によれば、天正後期、笠間孫三郎綱家より「孫」の字を拝領し、孫七郎と称すとある。
石井家の出自は、結城朝光の孫・朝忠が常陸大掾家に仕え、笠間郡石井に移住し石井と名乗ったことに始まる。嘉暦2年(1327年)4月23日付けの安堵状が残っており、このとき石井伊賀は大掾平高幹から、石井村の内25町の領地を安堵されている。大掾家の没落後は、笠間家と姻戚関係を結び、笠間綱久の代に石井、市毛に所領を得て戦国時代まで笠間家に仕えた。
磯部隼人佐
磯部稲村神社の神主。
磯部家文書によると、磯部原で佐竹家と那須家の合戦があった。佐竹勢が西ノ久保に布陣した時、炊き出しの火が風にあおられ、民家へ飛び火、さらに磯部稲村神社の社殿に燃え移うつり、焼失してしまった。佐竹義昭は合戦後、社殿を再建したという。それ以前と思われる天文8年(1539年)2月には、佐竹左京大夫が造営しており、戦国初期に佐竹家の進出が見られる。
しかし、この地域で佐竹家と那須家の合戦が起こるというのは不可解である。この合戦については検討を要する。
元亀元年(1570年)3月25日、宇都宮広綱により造営されている。これにより、宇都宮家の力もこの地方に及んでいることが分かる。
磯部忠光
越前守。磯部稲村神社の神主を勤める。
天正11年(1583年)羽石政秀が水谷勢に攻められ田野城に籠城すると、羽石勢として田野合戦に参陣。しかし、羽石政秀は水谷政村に討ち取られてしまう。
また、天正年間に結城家と秋田家の合戦があり、磯部忠光は秋田勢に属して敗北し、所領を激減されたという。しかし、これは伝承であり、史実ではないと思われる。秋田家は秋田実季の事であるが、秋田実季が常陸の宍戸城に来るのは関ヶ原合戦後の1602年であり、なんらかの事件を混同しているとしか思えない。
磯部祐貞
磯部稲村神社の神主。年代的に、忠光の次代と思われる。
慶長10年(1605年)神社のある場所は、稲村郷から分かれて磯部村に改名される。また、慶長14年(1609年)春に神社を修造した。
稲田頼定
九郎。「笠間市史」によると、永正年間の人物というが、事績については今のところ不明。
稲田頼国
新九郎。稲田城主。宇都宮一門、笠間家臣。稲田頼定の孫の代にあたると思われる。
稲田家は、宇都宮家5代・宇都宮頼綱の猶子である頼重が、承元元年(1207年)に稲田郷に居住したことに始まる。笠間を領したばかりの笠間時朝の介添えとして送られたのだろうか。稲田堀の内に館を構え、稲田と福原の内、324貫文を領す。
稲田西念寺文書の「小田原陣の控」によれば、宇都宮一門臣下連名調書に、「常陸国東郡笠間城主笠間左衛門尉時広、同分家福原主水正朝広」とあり、次に笠間家臣として笠間領内の土豪クラス16名が連ねている。
そして、「宇都宮一門 常陸国笠間郡稲田庄 稲田新九郎頼国」の項には、稲田家臣と見られる19名の名が記されている。稲田新九郎の出陣に際しての所持品目は、旗指物、馬印、控幕、長刀3振余、槍300筋余、鉄砲20丁余という。
また、宇都宮国綱が多功綱継に持たせた下知書には、本来ならば笠間家は宇都宮家の副将援軍として参陣すべきところを、笠間幹綱に反逆の兆しがあったので、宇都宮国綱は笠間を攻め、笠間幹綱は付近の片庭村に逃亡した。幹綱の父・笠間時広は老齢なので、稲田頼国に笠間旗下を属し、下野小山にて宇都宮国綱を待ち、小田原に向かわせる旨が書かれてある。
これらは天正19年(1591年)5月と記されているが、実際はおそらく天正18年の5月の事であろう。
稲田頼胤
新九郎。慶長年間に名が見える。頼国の子の可能性がある。
稲田遠江守
「宇都宮氏家臣書上帳」に名がある。稲田家の者と続柄は不明。
猪瀬国五郎
本戸に住す。西念寺文書の「小田原陣の控」によれば、笠間時広の代理として小田原に参陣した稲田頼国の家臣。
今井勘兵衛
「宇都宮氏家臣書上帳」に黒羽(現・桜川市)領主として名がある。黒羽は笠間家、益子家、結城家の激戦区の一つである。要害堅固な黒羽山城がある事からも、相当な重要な任務だったに違いない。
羽石秀政が田野合戦で破れて門毛城に逃れたことを、水谷政村に密告した今井勘左衛門との続柄は不明。
長年にわたり各大名の境界線だった現・桜川市周辺の領主たちは、一族で分かれたり、何度も鞍替えしている可能性は他の地域よりも高く、元は同じ一族だった者が多いであろう。
今井新左衛門
「宇都宮氏家臣書上帳」に今泉の領主とあり、現・桜川市の今泉に住していたと思われる。黒羽とも近く、今井勘兵衛とは同族と思われる。
岩瀬十兵衛
羽石配下。岩瀬館の将。
天正11年(1583年)田野合戦ののちに羽石政秀が水谷勢に討たれると、今井勘左衛門の館を諸将と共に落とした。すぐさま攻め寄せた結城家・片見晴信の軍を戦い敗北。橋本城を奪われ、中郡の支配を許してしまう。
慶長2年(1597年)10月、宇都宮家改易時の宇都宮旧臣として岩瀬重兵衛の名がある。
宇津宗右エ門
慶長2年(1597年)10月、宇都宮家改易時の宇都宮旧臣として名がある。
宇部新右エ門
慶長2年(1597年)10月、宇都宮家改易時の宇都宮旧臣として名がある。
大泉秀兼
小太郎左衛門。大泉(現・桜川市大泉)の領主であろうか。
天正11年(1583年)羽石政秀が水谷勢に攻められ田野城に籠城すると、羽石勢として田野合戦に参陣。しかし、羽石政秀は水谷政村に討ち取られてしまう。
大泉小次郎左衛門
「宇都宮氏家臣書上帳」に名がある。大泉秀兼の弟の可能性がある。
大島内膳
天正11年(1583年)羽石政秀が水谷勢に攻められ田野城に籠城すると、羽石勢として田野合戦に参陣。しかし、羽石政秀は水谷政村に討ち取られてしまう。
大嶺広基
「笠間城記」によると、笠間4代目・笠間朝貞に仕え、飯田(笠間市)を領したという。禄百石で、飯田の他に石寺(笠間市)、真端(旧・七会村)も領す。前原(飯田)陣屋に住す。そして、広基の子・広康、その子・広政のときに笠間家は滅び、大嶺家は宍戸城主・秋田実季に仕え、広康の末葉は今の飯田村にありという。
しかし、大嶺広基が4代・笠間朝貞(鎌倉時代)に仕えて、子の広康、その子・広政で戦国時代の終焉を迎えてしまうのはおかしい。笠間家の系図は混乱しており、名前も逆さになっていたり混乱が激しい。「笠間城記」にある4代・笠間朝貞の記述は、10代・笠間貞朝の誤りではなかろうか。
笠間貞朝は戦国時代初期の笠間家当主なので、大嶺広基がこれに仕え、孫の代で戦国時代が終焉すれば一応つじつまは合う。大嶺広康は戦国時代初期の人物と解したい。
また、各宇都宮家臣帳には、大嶺宗八郎、大嶺作左衛門、大嶺瀬兵衛、大嶺左右衛門、大嶺惣八らの名があり、一族と見られる。上記の数名は同一人物か。
他に大峰姓もあるが、同族か判別できない。
大嶺広康
大嶺広基の子。民部太夫。飯田城主。
文明年間(1469年〜1486年)に、前原の陣屋を猿田領飯田城跡の北西山麓に移した。
永禄12年(1569年)に三瓶神社を勧請し、飯田の鎮守とする。
前原陣屋から山城に移したのが文明年間で、永禄年間の三瓶神社勧請の間は約百年ある。これでは信憑性が無いため、父・広基の時に山城に移したのであろう。
大嶺広政
大嶺広康の子。「笠間城記」によれば、広政の代に笠間家は滅亡したという。それからどうなったかは定かではないが、関が原合戦後に宍戸に入部した秋田実季に仕えたという。以降、飯田にて宍戸藩士として仕えたと思われる。
小野春茂
右近。本戸に住す。
西念寺文書の「小田原陣の控」によれば、笠間時広の代理として小田原に参陣した稲田頼国の家臣。
小宅高清
采女之助。坂戸の小宅一族か。
天正11年(1583年)羽石政秀が水谷勢に攻められ田野城に籠城すると、羽石勢として田野合戦に参陣。しかし、羽石政秀は水谷政村に討ち取られてしまう。
加倉井久国
因幡之介。富谷住。
天正11年(1583年)羽石政秀が水谷勢に攻められ田野城に籠城すると、羽石勢として田野合戦に参陣。しかし、羽石政秀は水谷政村に討ち取られてしまう。
笠間左近
笠間家臣・寺崎家の系図によると、笠間綱家の弟に笠間左近某がおり、綱家に叛いたとある。左近は寺崎中務少輔らの奮戦によって退けられたが、その後も笠間近隣の宍戸家や江戸家などと共謀して再三にわたり笠間に侵入。そのたびに撃退されている。
なんらかの内紛があったのだろうか。
また、「和光院過去帳」に笠間左近が見られ、天正16年(1588年)12月5日、笠間左近大輔が討ち死にしたという。寺崎家の系図にある左近と同一人物かどうかは分からないが、何か関連性のあるものに思える。
片庭将監
「宇都宮弥三郎舊領高帳」に名がある。
片庭玄蕃
「宇都宮氏家臣書上帳」の常陸国の項に名がある。とすれば、笠間の片庭郷に拠った片庭家があったのだろう。「宇都宮弥三郎舊領高帳」にも名がある。
片庭小左エ門
「宇都宮弥三郎舊領高帳」に名がある。
片庭茂右エ門
「宇都宮弥三郎舊領高帳」に名がある。
片庭市左エ門
「宇都宮弥三郎舊領高帳」に名がある。川庭とも記載されているが、片庭であろう。
軽部治郎右エ門
慶長2年(1597年)10月、宇都宮家改易時の宇都宮旧臣として名がある。
軽部源左衛門
「宇都宮弥三郎舊領高帳」に名がある。軽部治郎右エ門と同族と思われる。
川井肥前
日草場に住す。笠間家が滅亡したあと、笠間城に入部した宇都宮家臣・玉生高宗に仕えた。天正19年(1590年)11月、江戸重通が侵攻してきた金沢の戦いに出陣し、江戸軍を撃退した。
小泉秀秋
次郎兵衛。現・益子町小泉の領主であろうか。
天正11年(1583年)羽石政秀が水谷勢に攻められ田野城に籠城すると、羽石勢として田野合戦に参陣。しかし、羽石政秀は水谷政村に討ち取られてしまう。
小泉七郎
天正11年(1583年)羽石政秀が水谷勢に攻められ田野城に籠城すると、羽石勢として田野合戦に参陣。しかし、羽石政秀は水谷政村に討ち取られてしまう。
小泉与兵衛
「宇都宮弥三郎舊領高帳」に名がある。小泉秀秋と同族であろうか。
高野家
笠間郡大郷戸の土豪。鎌倉時代末期、大掾家に属し、大郷戸の内、20町を安堵されていたが、大掾家没落後は笠間家に仕えた。
これにより、笠間家は初代の笠間時朝より、笠間十二郷を領したと伝わっているが、実際は南北朝の動乱期で笠間家の勢力が減退するまでには大掾家、佐竹家、江戸家らの進出を許し、笠間十二郷の一部を侵食されている事が分かる。
その他、笠間に程近い笠間郡箱田、市毛は、応永4年(1397年)に摂津能連が支配する事を足利義満から許されている。その他、寺社勢力からの領地返還を鎌倉府に直訴するなど、笠間家の領地支配の困難さがうかがい知れる。
小林九郎
天正11年(1583年)羽石政秀が水谷勢に攻められ田野城に籠城すると、羽石勢として田野合戦に参陣。しかし、羽石政秀は水谷政村に討ち取られてしまう。
小林政房
四郎兵衛。
田野合戦に参陣した小林九郎とは同族と思われる。西念寺文書の「小田原陣の控」によれば、笠間時広の代理として小田原に参陣した稲田頼国の家臣。
小松崎久本
内匠之助。
天正11年(1583年)羽石政秀が水谷勢に攻められ田野城に籠城すると、羽石勢として田野合戦に参陣。しかし、羽石政秀は水谷政村に討ち取られてしまう。
仙波藤十郎
慶長2年(1597年)10月、宇都宮家改易時の宇都宮旧臣として名がある。
以下、4名の仙波姓は犬田に住しており、戦国時代までに宇都宮家の勢力が犬田にまで及んでいたことが分かる。
仙波勘三郎
慶長2年(1597年)10月、宇都宮家改易時の宇都宮旧臣として名がある。
仙波伝之丞
慶長2年(1597年)10月、宇都宮家改易時の宇都宮旧臣として名がある。
仙波弥市
慶長2年(1597年)10月、宇都宮家改易時の宇都宮旧臣として名がある。
高塩宇左衛門
高塩伊勢守らと同族であろう。天正11年(1583年)羽石政秀が水谷勢に攻められ田野城に籠城すると、羽石勢として田野合戦に参陣。しかし、羽石政秀は水谷政村に討ち取られてしまう。
高塩三右エ門
「宇都宮弥三郎舊領高帳」に名がある。
高橋喜四郎
慶長2年(1597年)10月、宇都宮家改易時の宇都宮旧臣として名がある。
高幡五郎左衛門
高畑とも。天正11年(1583年)羽石政秀が水谷勢に攻められ田野城に籠城すると、羽石勢として田野合戦に参陣。しかし、羽石政秀は水谷政村に討ち取られてしまう。
高畑勘左衛門
高幡五郎左衛門と同族であろう。
天正11年(1583年)田野合戦ののちに羽石政秀が水谷勢に討たれると、今井勘左衛門の館を諸将と共に落とした。すぐさま攻め寄せた結城家・片見晴信の軍を戦い敗北。橋本城を奪われ、中郡の支配を許してしまう。
谷中大学
大永2年(1522年)の磯部原合戦で益子宮内大夫家宗に味方して戦功があったことから益子家宗から感状があり、橋本と谷中の地18町を褒美として賜る。
谷中家は吉所城(上城地区)に拠り、戦国時代に突入する。吉所城は橋本城とも呼ばれ、笠間、益子、結城らの戦国時代を通じて中郡の重要な場所となり、周辺では合戦が相次ぐことになる。
谷中玄蕃
橋本城主。笠間の属将。玄蕃允とも。
天正9年(1581年)に、関東古戦録に谷中玄蕃(笠間方)と加藤大隈(益子方)の争いが記されている。両者は領地の接する地域にいたため、昔から紛争が絶えなかった。
天正11年(1583年)谷中玄蕃は富谷に向けて出陣。これに対して加藤大隈父子は奮戦し、中村源七郎が谷中玄蕃を討ち取った。
玉尾忠右エ門
天正5年(1577年)結城晴朝は数千騎を率いて富谷城に陣取り、益子方の加藤大隈(富谷城主)に橋本城を攻めさせたという。おそらく結城家は、益子家に協力し、後詰を務めたのであろう。
玉尾忠右エ門は、谷中淡路らと共に弓矢を以って橋本城を守り、加藤大隅の軍(結城勢も)を見事撃退している。
玉生玄馬
西念寺文書の「小田原陣の控」によれば、笠間時広の代理として小田原に参陣した稲田頼国の家臣。
寺崎出羽守
中務少輔。笠間一族。
「笠間市史」を参照。
「新編常陸国誌」によれば、寺崎は新治郡寺崎村より出る。寺崎出羽は笠間幹綱に仕う、後佐竹義重に仕え秋田に赴く…とある。
寺崎家の系図によると、笠間家から分かれて笠間城の乾の方角にあたる寺崎村に居住。寺崎姓を名乗り、笠間家に仕えたという。
寺崎中務少輔の項には、天正8年(1580年)笠間左近某が、兄の笠間綱家に叛いたので、中務少輔は兵を率いて綱家を助けて功あり。笠間綱家はこれを賞して出羽守を名乗らせたという。
さらに、笠間左近は近隣の江戸家や宍戸家と共謀して笠間領に侵攻してきたので、寺崎出羽守父子は奮戦して宍戸勢を退けたと系図に記されている。
天正10年(1582年)笠間綱家より大綱郷(旧・七会村)を宛がわれている。
また、天正年間の末頃、笠間綱家家臣・路川大和守が謀反を起こした時も、寺崎出羽守はよく防ぎ、綱家を助けたという。
寺崎広良
中務少輔。寺崎出羽守の子。
通説では、小田原征伐前後に笠間綱家が謀反して、宇都宮軍に追われたあとの消息は不明とされている(討ち死にとも)。しかし、寺崎家の系図では笠間綱家は宇都宮の館に幽閉されたと記述がある。
寺崎中務少輔広良の父・寺崎出羽守もこれに従い同所にいたが、広良は増田長盛に伏して赦免を請い、許される。のちに寺崎父子は佐野天徳寺に住すとある。笠間綱家のその後の消息については記されていない。
そして、広良は文禄元年(1592年)10月に常陸に帰り、佐竹義重に仕える。その後、秋田転封に従って移住したという。
戸倉家
鎌倉時代、笠間盛朝2男の時朝が笠間領北辺の戸倉(旧・七会村徳蔵)荘に入り、戸倉三郎時朝と名乗ることに始まる。佐竹家との境であり、宇都宮家との中継にもなる要所である。戸倉氏居館跡と思われる地は、七会村西小学校の建設のため急遽発掘調査が行われ、中世の遺物が発見されている。
しかし、初代の戸倉時朝以降の事跡は一切不明である。
慶長2年(1597年)宇都宮家が改易された時に記された宇都宮家臣帳の「旧臣姓名書」に「笠間町徳蔵新左衛門」とある。鎌倉時代に起こった戸倉姓と同一かは不明。
中島右近
西念寺文書の「小田原陣の控」によれば、笠間時広の代理として小田原に参陣した稲田頼国の家臣。
中田馬之助
富谷村に住す。慶長2年(1597年)宇都宮家が改易された時に記された宇都宮家臣帳の「旧臣姓名書」に名がある。
永田勇祐
西念寺文書の「小田原陣の控」によれば、笠間時広の代理として小田原に参陣した稲田頼国の家臣。
中原左近将監
天文18年(1549年)10月7日付けで、小田氏治より所領安堵状を受け取っている。また、年欠の12月17日で小田氏治より書状がある。おそらく天文年間は小田家の勢力にあったのだろう。
こののち上杉輝虎の侵攻などで小田家の勢力が衰退すると、中原家は宇都宮家、または笠間家に属したのだろう。次代と思われる中原将監は宇都宮家中・笠間家の属将として活躍している。
中原将監
天正5年(1577年)結城晴朝は数千騎を率いて富谷城に陣取り、益子方の加藤大隈(富谷城主)に橋本城を攻めさせたという。おそらく結城家は、益子家に協力し、後詰を務めたのであろう。
将監は、谷中淡路らと共に弓矢を以って橋本城を守り、加藤大隅の軍(結城勢も)を見事撃退している。
また、天正12年(1584年)5月12日付けで宇都宮国綱からの官途状が残る。これらの事から、笠間家と宇都宮家の密接な関係が読み取れる。正保3年(1646年)の宇都宮弥三郎録には、木植に住しているとある。
中原庄左衛門
木植に住す。
天正11年(1583年)羽石政秀が水谷勢に攻められ田野城に籠城すると、羽石勢として田野合戦に参陣。しかし、羽石政秀は水谷政村に討ち取られてしまう。
奈志原広助
本戸村に住した笠間家臣。慶長2年(1597年)宇都宮家が改易された時に記された宇都宮家臣帳の「旧臣姓名書」に名がある。
仁平大膳
天正11年(1583年)羽石政秀が水谷勢に攻められ田野城に籠城すると、羽石勢として田野合戦に参陣。しかし、羽石政秀は水谷政村に討ち取られてしまう。
仁平永馬
慶長2年(1597年)10月、宇都宮家改易時の宇都宮旧臣として名がある。
長堀律師松月
大月に住す。
天正11年(1583年)羽石政秀が水谷勢に攻められ田野城に籠城すると、羽石勢として田野合戦に参陣。しかし、羽石政秀は水谷政村に討ち取られてしまう。
長堀国師
大月に住す。長堀律師松月と同族であろうが、続柄は不明。
中山広利
綱之進。西念寺文書の「小田原陣の控」によれば、笠間時広の代理として小田原に参陣した稲田頼国の家臣。
芳賀貞道
十郎。芳賀家の一族であろうが、続柄は不明。笠間家中にいた可能性もある。
天正11年(1583年)羽石政秀が水谷勢に攻められ田野城に籠城すると、羽石勢として田野合戦に参陣。しかし、羽石政秀は水谷政村に討ち取られてしまう。
萩原大学
慶長2年(1597年)10月、宇都宮家改易時の宇都宮旧臣として名がある。
長谷川信綱
豊前。
天正18年(1590年)笠間家が滅亡すると、笠間城に入った玉生高昌の旗下になったと思われる。11月9日付けで宇都宮国綱により所領安堵状が残る。それによれば、福田の郷内1貫180文、大貫内5貫820文、都合7貫文の地とある。この安堵状があって宇都宮家(玉生高昌旗下)に属し、11月の金沢の合戦に至ったと思われる。
「笠間城記」によると、天正18年(1590年)11月に江戸重通が進軍してきたという。それを笠間城の玉生美濃守高昌が迎え撃った。長谷川豊前も玉生勢として活躍した。
江戸家は鹿尾遠江守と江戸織部以下、1800騎が水戸を発し笠間に攻め入ろうと大淵の金沢に到着。これに対し玉生美濃守は馬上3騎、精兵百人を福田村に伏せ、江戸勢の退路を遮断。玉生は兵を一丁田に構え、旗を個々の山に立て覆兵の合図を待った。
進軍してきた江戸勢に伏兵が突入し、玉生美濃守も合図を聞き、敵の前を撃った。これにより山あいの江戸勢は大混乱。
福田の士・長谷川豊前信綱と、弟の長谷川豊後綱重は各20人余の兵で金沢に向かい、江戸勢の鹿尾遠江守を見つけ組みとめ、軍配団扇を奪い且つ、首を取った。そして、勢いに乗じて敵兵10人を斬った。弟・豊後は9首討ち取った。敵将・江戸織部もこの戦で討ち死にし、玉生美濃守は総計100首余りを取って帰陣。江戸家は大敗を喫した。
また、「宇都宮弥三郎旧領高帳」に見える長谷豊前とおそらく同一人物であろう。
長谷川綱重
豊後。長谷川信綱の弟。
天正18年(1590年)の金沢の合戦で、兄・長谷川豊前と共に手勢20人を率いて江戸家の兵9首討ち取る活躍を見せる。
「宇都宮弥三郎旧領高帳」に見える、長谷豊後とおそらく同一人物であろう。
羽石時義
羽石政秀の舎弟。左衛門尉。
天正11年(1583年)羽石政秀が水谷勢に攻められ田野城に籠城すると、羽石勢として田野合戦に参陣。しかし、羽石政秀は水谷政村に討ち取られてしまう。
福田有長
福田家8代目。笠間郡福田の領主。福田城主(福田字寄居)。六郎。帯刀。左衛門尉。
「笠間市史」を参照。
延徳元年(1489年)、古河公方・足利成氏より感状を賜っている。現在、笠間市福田字寄居にある香取神社の境内が居館跡と思われる。
笠間家臣・福田家は「秋田家諸士文書」によると、下野芳賀郡領主、紀姓の下野大夫の分かれ、鎌倉末頃常陸笠間に住し、福田を称すとある。
系図によれば福田家のはじめは、福田有熈(六郎、左衛門尉)が笠間郡福田に移住、福田を姓として笠間家に仕える。4代・福田有盛(六郎、下総守)、5代・福田有実(六郎、右馬之助)は笠間家朝に仕え、応永年間(1400年前後)に安堵状や受領状などを受けているという。6代・福田有定は嘉吉2年(1442年)福田に屋敷を安堵されるなど、代々笠間家に仕えた。
福田有光
福田家9代目。笠間郡福田の領主。福田城主(福田字寄居)。六郎。尾張守。
系図によると、笠間綱親、綱広の二代に仕えたとある。
しかし、笠間市史に元亀3年(1572年)10月に芳賀高広なる人物から受領状を受け取り、尾張守と名乗る事を許されているとある。芳賀高広という人物は不明だが、これは笠間高広の誤りではなかろうか。佐竹文書になにゆえ芳賀高広受領状として伝わっているのか不可解である。
福田家広
笠間郡福田の領主。家廣。福田城主(福田字寄居)。太郎次郎。大炊頭。法名:秋山月堂。
天正13年(1585年)9月、笠間綱家より「家」の字を一字拝領する。天正16年(1588年)11月19日と、天正19年正月に笠間綱家より授かった書があり、いずれも家宝としたという。天正19年(1591年)正月の書は、笠間綱家より、福田大炊頭(家広)宛の官途状である。
天正19年(1591年)笠間において討ち死にした。小田原の陣に際して笠間家は反逆の意思を見せ、宇都宮国綱に攻められた。この時に福田家広は笠間方として出陣して討ち死にしたのか、または宇都宮軍に加わって討ち死にしたのか不明である。
福田家は笠間家滅亡後に福田家は佐竹義重に仕え、のちに秋田へ移った。
福原善九郎
福原城主。出自は不明。
笠間家の歴史を見ると、代数は繋がらないものの、福原の名がいたる所に現れるため、笠間一族か宇都宮一族と思われる。代々拠ったと思われる福原城も笠間の前衛として地理的に重要な位置にある事から、重臣と呼ぶに相応しい地位であろう。
福原家は曹洞宗源慶院(福原字関戸)の大檀那となっている。
また、鳳台院(笠間市箱田字間黒)の第7世住職・蟠龍育和尚に帰依し、弘治2年(1556年)に堂宇を建立した。
福原城は、現在の福原駅周辺とされる。鉄道、田畑開発などで遺構は破壊されているが、残った遺構は駅前通りの台地一帯に見られる。地元ではその中心部を御城と呼んでおり、別称・善九郎屋敷ともいう。城内には古井戸跡と、城主の供養塔とされる五輪塔が数基ある。また、付近に字名が残っており、古屋、西堀、本堀などにより、大枠の城の範囲が予測される程度。
福原朝広
主膳正。笠間利長の子。笠間時広の弟。福原城主。
西念寺系図によると、天正年間に福原美濃守朝広の娘(西念寺住職第十六世光了の母)が西念寺に入っている。美濃守朝広は、主膳正朝広と同一人物とすれば、天正年間の存在が確認できる。
ちなみに福原美濃守は「宇都宮弥三郎舊領高帳」にも記載がある。
天正18年(1590年)小田原の役で豊臣秀吉の下に参陣。笠間時広の弟であるから、相当の重要な地位にいたに違いない。ゆえに小田原参陣という重要な任務も仰せつかったと思われる。
福原内蔵
「宇都宮弥三郎舊領高帳」に名がある。福原朝広と同族であろう。
福原雅楽
「宇都宮弥三郎舊領高帳」に名がある。福原朝広と同族であろう。
鉾田友右衛門
稲田村に住す。稲田頼国の配下だろうか。宇都宮家の「旧臣姓名書」に名がある。
真崎九郎左衛門
天正11年(1583年)田野合戦ののちに羽石政秀が水谷勢に討たれると、今井勘左衛門の館を諸将と共に落とした。すぐさま攻め寄せた結城家・片見晴信の軍を戦い敗北。橋本城を奪われ、中郡の支配を許してしまう。
路川大和守
天正5年(1577年)、笠間城すぐ北の坂尾に、長坂山昌泉院を建立。
笠間市史によれば、天文年間の宍戸家支配の館の中に「市原館 路川四郎兵衛」とあり、市原館の路川家と同族と考えられるという。
石寺の旧家路川家は、太閤検地後に石寺に土着した笠間家臣であるという。
満川忠親
民部少輔。
天文18年(1549年)の五月坂合戦に笠間の将として宇都宮軍に従軍。那須勢に不意を突かれ、宇都宮勢が混乱している最中、宇都宮尚綱は討ち死にしてしまう。宇都宮勢が総崩れの中、民部少輔は敵中に突撃し、那須勢7騎を討ち取るが、ついに討ち死にしてしまう。
満川宗安
勘左衛門尉。黒羽城主。
天正11年(1583年)9月、益子方・加藤大隈の富谷城を手勢300で攻めるが、撃退される。このとき、田野城主の羽石内蔵之介が結城家中・金敷清久の館を攻め落としている。何か申し合わせがあったのかもしれない。
五月女坂合戦で討ち死にした満川民部少輔の子孫と思われるが、続柄は不明。
本殿家
笠間一族。鎌倉時代に、笠間長門守盛朝の3男であった本殿弥三郎高朝が、本戸字田利の御城、及び新館山に本戸城を築いた。笠間一族として福原家や稲田家と共に笠間領の前衛として仕えたと思われるが、本殿高朝以降、本殿家の事跡は一切不明である。
谷田部宮司
片庭村に住す。
慶長2年(1597年)10月、宇都宮家改易時の宇都宮旧臣として名がある。
柳厳兵衛
天正11年(1583年)田野合戦ののちに羽石政秀が水谷勢に討たれると、今井勘左衛門の館を諸将と共に落とした。すぐさま攻め寄せた結城家・片見晴信の軍を戦い敗北。橋本城を奪われ、中郡の支配を許してしまう。
柳田新左衛門
天正11年(1583年)羽石政秀が水谷勢に攻められ田野城に籠城すると、羽石勢として田野合戦に参陣。しかし、羽石政秀は水谷政村に討ち取られてしまう。
柳橋通高
大炊亮。稲田の地侍。
西念寺文書の「小田原陣の控」によれば、笠間時広の代理として小田原に参陣した稲田頼国の家臣。
吉岡貞臣
十郎。
天正11年(1583年)羽石政秀が水谷勢に攻められ田野城に籠城すると、羽石勢として田野合戦に参陣。しかし、羽石政秀は水谷政村に討ち取られてしまう。
吉田周防守
門毛城主。
天正11年の笠間家と水谷家(結城家)が争った田野城合戦において敗北した羽石秀政が、門毛城を頼って逃れてきた。そこへ水谷政村が攻め込み、羽石は討ち死に。阿保遠江守は降伏し、かくまった罪を詫び、吉田周防守に門毛城を継がせたという。以来、吉田家は門毛に拠り、江戸時代には名主も務めた。
「東軍記」には、田野城の羽石勢(笠間方)と、久下田城の水谷勢(結城方)との合戦に吉田周防守の名が見え、天正年間後期には門毛にいたと思われる。
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