鹿沼家 鹿沼権三郎入道教阿なる人物が鎌倉時代に存在した。そして、戦国時代になると鹿沼右衛門太夫教清なる人物が「皆川正中録」などに見える。しかし、現存する文書などで鹿沼家が鹿沼地方に拠ったという事実は一切確認されず、戦国時代初期における鹿沼家という勢力の存在自体が疑わしい。 戦国時代に入り、壬生家臣として「神山伊勢守」や、「神山下総守綱勝」などが見え、のちに「神山綱勝」が鹿沼姓を名乗っている。 しかし、鎌倉時代の鹿沼姓の者や、戦国時代の鹿沼右衛門太夫教清の系統と同族かどうかは不明である。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ・以下、広く浸透している鹿沼家の出自と歴史について。 小山家に敗れた足利家ののち、総領職を継承した佐野家は阿曽沼、小野寺といった一門、庶流を輩出し、安蘇地方に勢力を拡大した。鎌倉時代に、鹿沼には鹿沼権三郎入道教阿が佐野の一族として入部し、坂田山に山城を築いて次第に勢力を持ったという。 鹿沼権三郎は、佐野家中随一の剛の者で鹿沼一円を支配し、正応5年(1292年)3月には二荒山神社新宮に銅灯一基を寄進している。また、神山家、久我家などの庶流を領内に配し勢力を持った。 鹿沼家は、佐野家の北の防波堤として、肥沃な上都賀地方の鹿沼城を拠点として戦国時代に至る。 延徳3年(1491年)鹿沼右衛門太夫教清の時代、勢力を拡大しようとしていた宇都宮忠綱が鹿沼に攻め寄せると教清は黒川を渡り、上野台にて宇都宮勢を迎え討った。しかし、総大将の教清が討死。鹿沼城は宇都宮家の手に落ち、次いで加園、南摩もこれに従った。鹿沼清教に子は無く、鹿沼家は断絶したという。南摩家などの旧鹿沼家臣は新城主として入城した壬生家の配下に編入される。そして、1523年の河原田合戦につながるのである。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー しかし、これは多いに疑問の残る通説である。 鹿沼家の出自に関しては、「鹿沼市史 通史編 原始・古代・中世」では、「鹿沼家は佐野家の分家説」を否定する要素を挙げている。これは従来の説を覆す説である。それも鑑み、鹿沼家の出自説を論ずる。 →「鹿沼家の出自」 さて、次は戦国時代に鹿沼に拠ったという鹿沼家を紹介する。 戦国時代は、鹿沼右衛門太夫教清という人物が「皆川正中録」に登場する。この人物に限らず、鹿沼家が鹿沼地方を支配したという事実は、現存する文書などからは一切見られないため、架空の物語に思えてしまう。 ここでは、鹿沼家と鹿沼教清が実在したという過程で論ずる。 史料から確認すると、1480年代までは現在の鹿沼市南部まで小山家の所領となっているようである。その他の都賀郡にも影響を及ぼしている。それは小山持政時代から続いた栄光であるが、持政が1470年代に死去してからは小山家の屋台骨がぐらつき始めた。 そこで、1480年代になると佐野家が都賀郡の粟野地方に進出している。そして、宇都宮家も鹿沼地方南部に進出している。都賀郡は、両家の草狩場となった。1500年代になると、壬生地方に宇都宮家が進出している史料が見られる。また、鹿沼の加園は宇都宮家臣の渡辺家の所領であるし、古くから宇都宮領といってよい。 しかし、室町時代を通じて、鹿沼中心部に武家勢力が拠ったという史料は見られず、日光山が農民からの年貢取立てについての文書は多く残る。 鹿沼地方は古くから日光山との関わりが強く、宇都宮家も積極的に支配しようとしなかったと思われる。日光山の代官が置かれ、年貢の処置に苦心していたようだ。しかし、その後の壬生家臣や鹿沼在地の家は古くから続いており、何らかの在地領主は存在していたのは当然で、完全に日光山僧の支配下というのは無理がある。 よって、鹿沼地方は日光山代官が当地していた地域もあり、土豪が支配していた地域もある。また、土豪と日光山が強く結びついていた地域もあろう。支配体制は、かなり複雑になっていたと思われる。 室町後期の鹿沼は、飢饉などで年貢の取立てが難しくなり、逃散する村も見られる。こうした事で日光山の鹿沼支配体制がさらにルーズなものとなり、在地の領主の力が増した結果、宇都宮家などの武家の介入に繋がったのではないだろうか。 その過程で少々大きい在地勢力である鹿沼家が突出し、鹿沼地方の中でも頭一つ出た程度の勢力になったというのが妥当であろう。鹿沼地方を武威で斬り従えていたほどの勢力とはとうてい思えない。しかし、周辺の土豪たちが、これに従う可能性がある。 それから考えると、兵を募っても100〜200人。周囲に号令できたとしても300人前後の兵。野武士、日光山の協力を得て500人弱であろう。「皆川正中録」にある、宇都宮家との上野台合戦のさい、鹿沼家は700騎とある。これは非常にオーバーな脚色数字としか言いようがない。 これまでの説は、あくまで鹿沼家という在地勢力が存在したという仮説であって、鹿沼家が単独で鹿沼地方を支配していたわけではない。日光山の支配力も少なからず及んでいたであろうし、所領は入り乱れている状況である。 そんな最中、鹿沼家が滅亡した上野台合戦が、永徳3年(1491年)にあったという説は一応の整合がつく。 小山家の隆盛が崩れ始め、宇都宮家が鹿沼〜壬生周辺に手を伸ばしてきたのが1480年代であるから、1490年代に宇都宮家が鹿沼地方に武家として介入したことはあり得る。それでも、日光山にはかなり気を使っていたであろう。このことは、戦国時代に限ったことではなく、あとにも先にも鹿沼は、聖と俗の入り乱れた支配体制となっており、別段おかしくはない。日光山の前座として見られていた当時の鹿沼地方にとっては普通なのである。 そして、連歌師宗長の記述を見れば、永正6年(1509年)に壬生綱重は鹿沼の館におり、壬生綱房は壬生にいることが確認されている。いつの頃からか明確な史料はないが、戦国初期、すでに鹿沼家が支配できる余地は無かったといってよい。 鹿沼家について、それ以降のことははっきりとしない。いずれにせよ、それ以降、鹿沼家は表舞台には出てこなくなる。 また、鹿沼城内に「大夫殿曲輪」という郭がある。「押原推移録」では、鹿沼右衛門大夫教清の拠った城館跡と推測を載せているが、これは根拠の全く無い推測に過ぎないので無意味である。 以上のように、戦国初期、鹿沼家の存在についての史料的な手がかりは無いが、断片的な史料を繋ぎあわせると、おぼろげながらも、支配者、支配体制の変遷が見えてきたであろう。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 戦国期に壬生家に仕えている鹿沼綱勝なる者がいるが、これは本姓・神山綱勝で、昔から鹿沼に拠った鹿沼の土豪である。鎌倉時代の鹿沼家旧臣といわれているが、本当かどうかは分からない。 「鹿沼下総守綱勝」が伊勢神宮の佐八家に祈祷の礼を述べ、代物を進上した書状が4通見られる。佐八神主の「下野国檀那之事」に、「猪倉 鹿沼右衛門尉殿 但号神山下総守」とあるので、これに従えば、壬生家臣の神山家の者が鹿沼姓を名乗っている事になる。 また、神山綱勝の書状にある花押と、鹿沼綱勝の花押は同じものと見られ、同一人物と見てよい。 また、年欠の書状で、鹿沼下総守貞勝が佐八神主に祈祷の礼を述べているが、鹿沼綱勝と花押が同じであるため、神山綱勝=鹿沼綱勝=鹿沼貞勝とする(貞勝は後名)。 これについては、「壬生家臣団」の神山綱勝の項で述べている。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 「関八州古戦録 巻十」に「鹿沼右衛門尉」らが宇都宮広綱に従い、薄葉ヶ原で那須家と戦ったとあるが、天正13年(1585年)当時の宇都宮家当主は国綱であり、内容なども相当の検討の余地がある。これが事実とは判断できない。 また、徳節斎周長の家臣に「鹿沼右衛門」なる人物がいて、徳節斎の反逆に加担した事になっている。徳雪斎が鹿沼城から落ち延び板橋将監に追撃されたとき、猪倉城の鹿沼右衛門は小倉村で討ち取られたという伝承が残る。 これは鹿沼中世の謎であって、これを「皆川正中録」のような物語を参考にしては謎の深みにはまり、真相を解明しようなぞ土台無理な話である。また「下野国誌」の編纂物に頼っても、それ以上の説は出てこないので、いつまで経っても説は同じままである。神山綱勝に関する文書を探っていくと、徳節斎の乱が天正4年(1576年)に起こったのは虚実と思われる。鹿沼右衛門が討たれたのが、壬生義雄に徳節斎が討たれた天正7年(1579年)の時の事ならあり得る。 つまり、壬生義雄が徳節斎を討ったときには神山綱勝は、義雄側に付いていた。しかし、神山一族で徳節斎側に付いた者もいる。鹿沼には、鹿沼家旧臣で鹿沼姓の者もいたといわれているから、鹿沼某が壬生義雄側に討たれたという事もうなずける。それが鹿沼右衛門(尉)=神山綱勝として、誤伝として書物に掲載されたのではないだろうか。 上記と同一人物か分からないが、宇都宮家の重臣クラスを記した覚書の「宇都宮家中旗印覚写」に、「鹿沼右衛門殿」と見える。 また、伊勢神宮・佐八神主の日記「下野国檀那之事」中の「鹿沼之分」に、「鹿沼殿」、「同上様」、「虎千代殿」、「同御隠居」が見られる。それとは別に神山右衛門尉がいるので、鹿沼殿と呼ばれた人物が他にいるという事になる。この時、壬生には壬生上総介(義雄)が見られるので、現時点では不明。 これらは神山綱勝と同一人物と思われる者もいるが、現時点では確定できない。 |