赤枠で囲った部分に、問題の鹿沼姓の者が見える。 「下野国誌」では、佐野実綱の子に鹿沼六郎行綱がおり、その子・鹿沼勝綱が、鹿沼権三郎入道教阿と注記してある。これにより江戸期には、鹿沼家は佐野家の分流という説が通説になったのであるが、根拠が全く不明である。 同書は、おおまかな歴史の流れは良いとして、細かい内容や注記には検討が必要な箇所が見られる。 佐野家から出たという鹿沼家の系図も何を底本としたものであるか得体の知れない記述であり、「続群書類従」の系図とも異なる。 江戸時代の幕府による、寛政年間の系図大編纂事業の時点で佐野家の系図は原本が無く、口伝や記憶を元に作成したが、生誕年や代数などはもはや修復不可能であったので無理もない。佐野家でさえ分からなかったのだ。ゆえに後世、いくつもの混乱した佐野系図が残っている。 やはり「下野国誌」も、作者の考証や推測なども入った後世の編纂物という観を否めない。 「鹿沼市史」でも、むげに斥ける理由もないが、全面的に受け入れることもできない、としている。根拠が無いからであろう。 「下野国誌」を頼りに、史実の細かい追求をするには限界があるようだ。 佐野家は、宝治元年(1247年)の宝治合戦に加担して破れたのち、執権・北条時頼から厳しい目で見られたことは確かであって、佐野から遠い都賀郡に一族を配置して勢力の継続を図ったとしてもおかしくはない。鹿沼の久我、南摩にまで勢力を伸ばしたことまでは何とか理解できる。久我家や南摩家は佐野の流れとされる所以があるからである。しかし、鹿沼中心部にあったとされる幻の鹿沼家も佐野家の出というには疑問が多すぎる。というより、史料が少なすぎて判別できない状況にある。 以下では、正応5年(1292年)に鹿沼権三郎入道教阿が奉納した燈篭をもとに、鹿沼家の出自を「鹿沼市史」の内容を織り交ぜながら解説する。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 日光二荒山神社唐銅大燈篭(重要文化財指定) 鹿沼権三郎入道教阿の寄進といわれる燈篭は、日光二荒山神社に厳存する。それに刻印されている銘文は次の通り。 これは、鹿沼権三郎入道教阿と、清原氏の娘(教阿の妻と思われる)が共同で奉納した事を示している。 はじめの「奉治鋳」という文字から、「大工常陸国三村 六郎守季」の指揮のもと、現地(日光山)で行ったと思われる。 そして「清原氏女」は、まず考えられるのが宇都宮家臣「芳賀家」の本姓が清原であるということ。 次に、銅の燈籠を生産した、常陸国三村の六郎守季について。 常陸三村(茨城県石岡市)は小田家の支配領域である。 三村には律宗僧忍性が、建長4年(1252年)〜正元元年(1259年)まで留まって小田家の支援のもと積極的に活動していた。そこで「大界外相」や「不殺生界」などの銘のある石碑などを建てている。これは石工を動員しての作業で、そこには金属器の道具が必要である。 小田領の般若寺(茨城県つくば市宍塚)には、建治元年(1275年)8月27日に僧源海が寄進した銅鐘があり、丹治久友・千門重信が鋳造している。丹治という畿内系鋳物師を招いていた事が分かる。 さて、鹿沼権三郎の日光山新宮灯籠を鋳造した「常陸国三村 六郎守季」の名前は畿内系であり、おそらく丹治久友に近い人物であろう。そして、三村の支配者である小田家は、宇都宮家の分流である。鎌倉時代では親交も深い。 これらを挙げていくと、宇都宮家との結びつきが強く、宇都宮家の支流とも考えられると「鹿沼市史」では推測している。 近くに宇都宮家の分流の壬生家があった事や、南北朝期に宇都宮公綱が鹿沼東園寺で薬師如来の金泥荘厳事業を行っている事からも一応の整合はつく。 ここまでの燈篭についての説は「鹿沼市史 通史編」で紹介されている。これが結論というわけではなく、一つの説として非常に面白い内容である。これまでの佐野家から出たという説を根っこから覆している。 もうひとつ気にかかったのが、鹿沼権三郎入道教阿の「教阿」という入道名である。これは全くの持論であるが、押原推移録などで「ノリクマ」と俗人のように無理やりに当て字してあるが、これは入道名で「きょうあ」と読むのだろう。 「華 阿弥陀仏 一向寺歴史紀行」(島遼伍著)によれば、宇都宮家7代・宇都宮景綱が、一向(一遍の弟子)を手厚く招いて宇都宮城内に一向寺を建立したのは建治2年(1276年)の事。そして武茂泰宗ら11名の宇都宮一門が深く帰依したという。 弘安10年(1287年)にはすでに鹿沼街道の北側にも一向寺があったようで、正応5年(1292年)に燈篭を奉納した鹿沼権三郎の時代と一致する。鹿沼家が宇都宮景綱身辺の者であれば、時宗一向派に傾倒した事は想像に難くない。 また、時宗僧の世襲諱は「阿」である。仏教において「阿」は初代、はじまりを意味する。鹿沼入道教阿は、宇都宮流で鹿沼家の祖とも思える。 今まで宇都宮出自の説が自然であると考えた事もあったが、自分では小さい説しか見つけられず、有力な根拠が見当たらなかった。それを鹿沼市史では鋳造工の事までも詳細に述べられており、とても興味深く読ませていただいた。それに付随して自論も交える事で、鹿沼家は宇都宮流であるという説に賛同したい。 |