芳賀家当主列伝





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芳賀高経 はが たかつね 1491?1541

 芳賀家当主。右兵衛尉。入道して道的。

 永正9年(1512年)に、専横極まる芳賀高勝が宇都宮成綱に誅伐され、かつ強制的に宇都宮弥四郎(のちの宇都宮興綱)を入嗣させられたため、高経の宇都宮家に対する恨みが芽生えたのは明らかであろう。
 それまで薄れてきた宇都宮当主の権力を高めるには、芳賀家の専横は邪魔者以外の何者でもなかった。

 高経は、叔父の芳賀孝高と共に激しく抵抗したと思われるが、宇都宮成綱の激しい攻撃により抑えられる。芳賀家中や清党は、すべてが高経側に立ったわけでなく、宇都宮側に立つ者も大勢いたと思われる。その後の消息は不明。乱により国外逃亡、または宇都宮家の監視下で細々と暮らしていたかもしれない。
 大永6年(1526)、芳賀興綱による宇都宮忠綱の追放後は芳賀家当主の地位を復したものとみられ、以後、孝高とともに芳賀家復興に尽力。
 伊勢神宮御師の佐八美濃守宛の書状で、「御書中の趣、興綱所へ相意得候」と述べられている事から、高経が当主だった頃は、孝高が後見として大きな影響力があったと思われる。宇都宮興綱も、積極的に芳賀家との友好関係を目指していたようで、両者は良好であった。
 しかし、両者の甘蜜の時期は長くは続かず、1530年頃になると、宇都宮興綱との方針の違いが賢著になり、次第に両者の間は溝が深まっていく。興綱が「去年以来兎角の儀を以って兵衛(高経)へ隔心の様に被渡候」と言い、高経も「此の間、御屋形様(宇都宮興綱)御例、何事に付けても御懇の儀樫々とこれ無く候」と申しており、相互の不信感は膨張しつつあった。

この時は、宇都宮家臣・赤埴信濃守や戸祭四郎右衛門尉のとりなしで事なきを得るが、天文元年(1532年)、主家簒奪の汚名を掲げて宇都宮興綱を隠居させ、天文5年(1536年)には、ついに興綱を殺害してしまう。
 興綱隠居後は、慈心院にいたといわれる興綱の嫡男・俊綱を宇都宮当主に立てた。天文3年(1534年)83、宇都宮俊綱は光明寺を成高寺領として安堵している。高経がこれに副状を出しているのだが、82日付けなのである。もしこれが誤記でないのなら、当主が追認している格好となり、数十年前の宇都宮錯乱を思わせる事態である。
 このような権力増大などもあいまって、俊綱との仲も次第に溝が深まっていった。

天文7年(1538)以降、両者の対立が激化。
 このとき那須政資と、子の高資の間に争いが起こっていた。宇都宮家は那須政資に協力し、小山、結城家は那須高資に協力していた。ゆえに、宇都宮家は、小山、結城家とも対立する格好となった。
 しかし、芳賀高経の娘は那須高資に嫁いでいるため、宇都宮家の体勢とは違ってしまい、また、壬生綱房が独断で小山攻めの援軍を送ったことから、高経は綱房への警戒心を一層強めた。
 このとき「宇都宮家中相別れ」、高経(この時、入道して道的)は小山家に接近し、俊綱は「須ゆゆの間に覚悟をかえ、右兵衛生涯」しようとしたという。
 宇都宮俊綱と芳賀高経との争いが緊張が頂点に達した天文10年(1541年)、高経は児山城に籠城した。天文7年(1538年)の謀反という説もあるが、同年12月には慈心院で行われた大造営事業を高経が仕切り、俊綱との関係も久々に良いものとなっていたので、謀反はそれ以降であろう。
 小山家や皆川家に援軍を頼んでの挙兵と思われるが援軍は来ず、小田政治預かりと聞いて退去した。護送の途中に殺されたという。もしくは、戦死とも逃亡したとも伝わる。



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芳賀高照 はが たかてる 1521?1555

 芳賀高経の長男。宇都宮城主。法名:芳山道賀。

 一説によると、高経の長男は公高(八郎経頼)であり、高照は次男とされる。または、高照と公高は同一といわれるが定かではない。
 天文10年(1541年)に、父・高経が宇都宮尚綱に殺されたのち、白河に逃亡。そして、再起を図るため白河晴綱、のちに那須高資に近接近したという。

高照は、那須側に宇都宮家の陣容を詳細に教えていたといわれているが、そんな事はできるはずが無い。

宇都宮を追われたのが20歳前後である事を考えると、宇都宮家について知っている事などたかが知れており、ただひたすらに宇都宮家への恨み節を、那須高資に吹っ掛けていたようにしか思えない。若造には、陣容などは論じられるはずがないのである。何度も合戦をしている那須勢のほうが宇都宮陣容に詳しいといえる。
 ゆえに、天文18年(1549年)の、五月女坂での那須家の勝利で特筆すべきは、那須勢の寡兵を持って大軍を駆逐した屈強さであり、さらに伊王野家中の鮎ヶ瀬弥五郎の矢が宇都宮尚綱に命中して討ち取ったことである。芳賀高照が那須勢に加わっていた可能性はあるが、那須勢勝利への貢献度は、いかほども無かったと考えたほうが良い。

 さて、五月女坂合戦後に城主の居なくなった宇都宮城に招かれ、宇都宮家当主となる。高照にしてみれば父の敵を討ち、さらに宇都宮家督相続という特典に「してやったり!」という思いだったろう。一族同然ともいえる芳賀家は宇都宮家の家督相続権があったから、ある意味これは理にかなっている。
 しかし、出迎えたのは壬生綱房。高照は宇都宮城主になるも、あくまで老獪な壬生綱房の傀儡に過ぎず、宇都宮当主は肩書きのみになっていた。壬生綱房は旧宇都宮領を支配するにあたり、自身が支配しては宇都宮旧臣は靡くことはない。しかし、宇都宮当主の存在があれば、壬生綱房に靡かせる事ができる。こう考えたのではないだろうか。
 芳賀高照は、高経の長男であるし、宇都宮一族で継承権もあり、綱房にとっては好都合のシンボルだった。

だが、そのシンボルも天文24年(15553に消える。芳賀高定が、芳賀高経の法要を行ったおり、無防備にも高照は真岡へ出向いたのだ。
 そういった経緯で真岡へ向かうことになったのか定かではない。父・高経の法要を敵(芳賀高定)が行うという珍事にも驚くが、敵地に自ら赴くことは、よほどの事があったに違いない。壬生綱房の傀儡になり下がっていた事や、綱房との不仲説が挙げられている。

 訪問先の真岡で芳賀高定は、高照のした所業の悪を説き、高照は涙を流し訓戒しながら自刃したとか、つめより自刃させたなど信義は定かではないが、高照は真岡に行って帰らぬ人となった。
 傀儡の当主を失い、してやられた壬生綱房は同年同月、宇都宮城内で病没する。



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重大人物
芳賀高定 はが たかさだ 15211588

 益子勝宗の
3男。紀十郎。益子宗之。定宗。従六位下伊賀守。宇都宮家風。入道して機山道鑑。天正16年(1588年)正月3日死去。享年68歳。

 天文10年(1541年)、芳賀高経は宇都宮家に反逆し、児山城に籠城するが、退去後に殺された。このとき、宇都宮尚綱により宗之は芳賀家を相続し、芳賀高定と改名した。
 尚綱が抜粋したとも、勝宗が名族清党の名が失われるのを惜しみ、3男宗之に継がせたという。

 益子の3男坊が、清党の筆頭で宇都宮一の重臣である芳賀家をよく継げたものだと思われがちだが、当時のしかるべき男子を見れば(あくまで系図上で)、益子宗之の選出は妥当である。
 天文10年時点で、宇都宮家には俊綱に子も兄弟も無い。芳賀家には、高経の子らは逃亡して見当たらない。益子家には嫡男・安宗(別系図では信勝が長男。那須に出仕。)、次男は大羽山に出家している。すると、3男の宗之に当然、白羽の矢が立つ。こうして考えると、ごく自然に事が運ばれたといえよう。

 高経の長男・高照は白河の地に逃亡し、反撃の機会を狙っていたという。次男は出家しており、3男の高規(後の芳賀高継)は、のちに高定が真岡に引き取り、養育していた。
 その後は宇都宮家中で宿老・壬生綱房の権力がさらに増長し、その対応に苦慮する。また、那須家中の対立で宇都宮家は那須政資を助け、小山、結城家は那須高資を応援。自然、宇都宮家と小山、結城家は対立し、宇都宮城周辺も攻撃されている。古河公方に和睦の要請を依頼するが、結城などはなかなか応じようとしない。

1542年、和睦の使者として参じた水谷政村(結城家臣)の兵を誤って攻撃。案内役になっていた益子勝宗も攻撃し、両者の関係はさらに悪化した。

さらに実父・益子勝宗の謀叛もあり、さらに外交状況は四面楚歌の状態になり、領内経営は多忙を極めた。

 天文13年(1544)、水谷政村が芳賀郡に侵攻し、宇都宮家臣である中村玄角を討ち取り、久下田に城を築いた。それを攻撃した八木岡貞家も討死し、高定は面目を潰される。那須方面の軍事に勤しんでいたためと見られるが、芳賀郡の中村や八木岡は、高定の本領とは目と鼻の先である。ここまで動かないのは、腰が重すぎるとしか言いようがない。
 天文15年(1546年)宇都宮尚綱は、武田信隆に3千騎の大軍で水谷を攻めさせるが、大敗北を喫する結果となる。以後、八木岡まで水谷領となり、芳賀家としては、のど元に短剣を突きつけられる格好となる。この頃の高定はまだ20代であり、若気の至りとも思われる。老巧の域に達するには、まだ早かった。
 その後は、那須侵攻をうかがい、何度も那須家と小競り合いを続けている。

 天文18年(1549)、宇都宮尚綱は古河公方・足利晴氏の要請で、那須討伐を受け喜連川に進軍。3千騎ともいわれる大軍を率いながら、五月女坂で那須に不意を突かれ、那須高資に討たれた。この時、後を継ぐべき弥三郎伊勢寿丸(のちの宇都宮広綱)は、わずか7歳。幼君を匿い真岡に退去した。結果、宇都宮領は、当主に据えられた芳賀高照を擁する壬生綱房にその中央部ほとんどを占領され、塩谷由綱もこれに属した。以降、芳賀高定は幼君を守り、軍事、外交面で魔人のような活躍をする。

 天文20年(1551)、旧主・宇都宮尚綱の仇である那須高資を、千本資俊をして千本城に殺す。その後、壬生勢の芳賀領への猛攻を受け、祖母井、八木などが落ちるが、天文24年(1555年)までには芳賀郡において多少挽回している。
 天文24年(1555年)3月、宇都宮城に居座る芳賀高照を、芳賀高経の法要と称して真岡に呼び寄せ殺害。また同年同月に壬生綱房が宇都宮城で死去。壬生城にいた壬生綱雄は急遽宇都宮城に入り、北条家と結びなおも勢力を保持するが、弘治3年(1557年)に高定は、佐竹義昭をはじめ、かねてから援軍を約束してあった勢力らの支援を受けて攻撃。芳賀郡の広い範囲で攻撃を重ね、飛山城に入城。壬生の旧領を壬生綱雄に安堵し、宇都宮城、ならびに宇都宮領をついに奪還する。
 この間、周辺の諸勢力に多くの応援を頼んでいる。佐竹義昭、那須資胤、江戸忠通、小田政治、北条氏康、足利晴氏らである。これだけの応援を短期間で取り付ける才能も、高定の外交、弁舌能力がいかに優れていたかが分かる。
 古河公方、那須資胤らには北条氏康からの援軍要請が出ており、宇都宮城奪還時も、旧宇都宮領はすべて返還する命令を氏康が出している。なみなみならぬ干渉である。

壬生家による宇都宮城乗っ取りで壬生家に協力し、宇都宮家と対立したはずの北条氏康が、弘治3年(1557年)の宇都宮城奪還時になぜ協力したのかは疑問が残るが、北条氏康は自身が関東の覇者であり、関東管領のような裁定の権力を内外に示すという思惑があったように思える。
 また、下野に混乱が起これば攻めるに安いと思い、下野国内を混乱させた可能性もある。あらゆる利害があっての処置であろう。

 宇都宮城復帰後、すぐに佐竹義昭の娘と宇都宮広綱を縁組させ、以後、両家は婚姻同盟関係になり、幼君・広綱を守り続け見事に家督を相続させた。この時、広綱15歳。高定は以降も宇都宮家の宿老として宇都宮家を支え続ける。

 永禄4年(1561年)の上杉政虎の関東征伐では、清党を率い、宇都宮家臣らと共にこれに参陣している。帰国後の永禄年間、芳賀家の後継者に自らが殺した高照の弟・高継を取立てている。あくまでも主家の安定を図り、自分の肉親を後継者にそえなかった事は、いかに主家や、芳賀家の名家の家風を重んじて来たかが分かる。高定は小貫の地に少領を貰い、子の信高は引き続き宇都宮家に仕えさせた。高定の子は他に、駿河守高景、伊予守顕綱が見られる史料がある。高景については、氏家城主で芳賀駿河守高景ではないかと思われる。彼は天正6年(1578年)に常陸に出兵、天正18年(1590年)の小田原征伐では、宇都宮国綱に従って、秀吉に謁見している。
 1565
年頃
から芳賀高継の書状が見られるので、高定の隠居はおそらくこの頃と思われる。

 残念なのは老い先長い高定が、ここで歴史の大舞台から身を引いてしまったことだ。これから厳しくなるさなか、突然の引退。隠居を永禄年間とすると、40代半ばである。宇都宮家再興にすべてを賭け、燃え尽きてしまったのだろうか。北条家の侵攻が予想されるこの時期、あとの事は知らぬと遠ざかる。それではあまりにも無責任すぎるのではないか。病気でなければ、高継に家督を譲ったあとも、もう少し宇都宮家を盛り立てて欲しかった。事実、下野は北条家の侵攻が年々増し、広綱も壮年で死去し、さらに苦境に立たされることとなる。隠居後、高定の名は現段階では全く見られない。だが、芳賀高継は高定のこの処置にいたく感動し、必死に職務に励んだことだろう。
 しかし、隠居後、実家である益子家の宇都宮家に対する反乱が目立ち、兄・益子安宗の暗殺や、七井勝忠の毒殺など、高定は実の兄弟としてこの事件をどう思ったろう。なんともしがたいものがあったのではないか。
 抗争の絶えなかった宇都宮家を一つにまとめ、主君を支え抜き、のちもうまくいくよう、しっかりと人事をした高定は忠臣と言えるであろう。
 しかし、こうした高定の必死の働きも虚しく、宇都宮国綱の代になり豊臣政権内部での浅野長政らと石田三成らの派閥抗争に巻き込まれ、慶長2年(1597年)、宇都宮家は家臣一同領地を召し上げられ、改易となってしまう。
 高定死後、わずか10年後のことである。



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芳賀高継 はがたかつぐ 153?1592

 芳賀高経の3男。芳賀家当主。高照の弟。十郎。芳賀高規。右馬允。伊賀守。真岡城主。法名:直山道正。

 上杉謙信による小田原攻めから帰陣後の永禄年間、芳賀家の惣領であった高定から家督を譲られる。主君・広綱の後見であった高定の跡を受けて広綱・国綱の二代に仕えた。
 天正年間の宇都宮広綱ー国綱ー芳賀高継体制はよく機能し、対北条対策として一応の成功と見られがちだが、あながちそうではない。内部を見れば、芳賀家の権勢が増したことで益子家をないがしろにする傾向が見られる。ゆえに益子安宗の独立、叛乱に至った一因になったと考えられる。益子家が叛乱したのは、笠間家との領地争いだけが原因ではない。
 また、鹿沼城にいた徳節斎周長の台頭も挙げられる。徳節斎の対北条家戦線での活躍ぶりは著しいものがあり、一時的に高継の権力が失われていた可能性がある。その時期によって、最有力の重臣が入れ替わっていたといえよう。
 天正8年(1580年)宇都宮広綱の臨終の頃は、これらの有力な重臣が死去し、高継の権勢は結果的にとてつもなく大きいものになった。
 これ以降の宇都宮家にとって、高継の活躍は目覚しいものであった。

 1580年代半ばに、宇都宮広綱の正室・南呂院らの強い要望で、宇都宮時綱(国綱の弟)に跡を譲り、高継は飛山城に隠居していたという。宇都宮家と芳賀家との仲を一層強める策と思われる。時綱は芳賀高武と改名し、清党の名跡を継ぐ。
 天正17年(1589)に反逆した益子家宗を征討した後、一時北条家に寝返る(下野国誌)。こののち、北条氏邦らとともに手勢を率い、多気山城を攻撃したが退却したという。小田原征伐の直前に復帰したようだが、理由は不明である。

高継は乱後、奥州の白河に追放され、その地で没する。享年は、父の高経が生きていた年代を考えれば、50歳〜60歳前後と思われる。



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芳賀高武 はが たかたけ 157116??

 宇都宮広綱の3男。宇都宮国綱、結城朝勝の弟。十郎。左衛門尉。宇都宮時綱。芳賀家当主。真岡城主。

 宇都宮家と芳賀家の結びつきを強めようとした南呂院(広綱の正室、佐竹義昭の娘)の強い要請で、芳賀家に養子に入る。

宇都宮家中一の勢力、また宇都宮当主・国綱の実弟として、絶大な権勢を奮う。

天正17年(1589)の益子家宗征伐に出陣。上三川、玉生、塩谷勢とともに益子勢を討ち果たしている。

文禄元年(1592年)の文禄の役に出陣し、渡鮮して功を上げている。
 慶長2年(1597年)、秀吉の申し出で、宇都宮家に浅野長政の子・長重を養子として迎え継がせるという話を聞いて激怒した。
 宇都宮家の大坂家老・北条松庵と今泉高光が秀吉に謁見した折に、これを秀吉に言われたのだが、その時は談義の上決めると言ってその場を辞した。国綱に相談すると、国綱には子が無く、秀吉の申し出なら仕方無いという。北条松庵と今泉高光も、同じ考えであったことから承諾することになったのだが、これをどこからか芳賀高武が聞きつけて国綱に抗議した。

 高武は、家老の北条松庵を京都四条河原に引きずり出し、斬首する暴挙に出る。これに仰天した今泉高光は事態を収拾しようと、国許の下野に帰るが、高武もこれを追って帰国。今泉高光の上三川城に夜襲をかけ今泉勢を滅ぼしてしまう。高光の子は数人の家臣に伴われ逃れたが、高光らは城内の菩提寺にて切腹して果てる。この時の落城悲話があるが、これは今泉家で紹介する。
 先に浅野長政が石高の申告漏れの罪を掲げていたのに付け足して、この騒動が秀吉の耳に入り、改易となってしまう。
 おそらく、これも改易理由の一つとして掲げられたと思われる。その後は国綱とおなじく、たびたび伊勢神宮に宇都宮家再興の願文を納めているが、結局再興はかなわなかった。



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