大中寺の悲話



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大中寺といえば、大平山にある古刹である。七不思議でも有名で、私も小学校のときに遠足で行ったことがある。栃木県人なら誰もが知っているスポットだろう。

 場所は栃木県大平町。春に花見で賑わう大平山も付近にある。

 各地に残る逸話は、時代が不特定なものが多い。昔話的要素が強いのか、他説もかなりある。大中寺の七不思議もそのたぐいだが、先日、真岡の図書館にてある本を発見。そこに大中寺に関する悲話が掲載されていた。それによると、大中寺にまつわる七不思議のうち、次の2つが戦国時代に起きたとみられる。

・馬首の井戸
・不開の雪隠

 まずは七不思議の説明を。

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・根無し藤

 有名な「青頭巾」の元話。荒れ果てた大中寺の人喰い憎を、奥州へ向かう途中の禅僧が成仏させる話。人喰い僧が成仏した後の墓に杖をたてると、自然に根が出て芽も出てきた。そして、「この芽がおおい茂るようになれば、この寺も栄えるだろう」と言い、禅僧は去ったという。悲しいお話です。ここでは趣旨が違うので、青頭巾については説明しません。


・不断のかまど
 ある小僧が釜戸で昼寝(夜遅く帰り寝たとも言う)をし、それを知らずに釜戸に火をつけられ、小僧は亡くなった。それ以来、この釜戸は火を絶やさなくなったという。今は、火はついてないです。


・油坂
 ある小僧が密に毎夜勉学するため、油が不足してしまい、寺の本堂から盗んでいた。ある夜に見つかってしまい、逃げる途中に坂を転げ落ち、亡くなった。この坂を通ると不幸になるといわれ、それから脇に道を作った。寺の公事以外はこの坂(本堂前の階段)は使用しなくなったという。「余湖くんのホームページ」管理人の余湖さまが通ってしまったとか言ってたな。


・馬首の井戸(馬影の井戸とも)
 戦で敗れ逃げてきた武将が愛馬の首を斬り、井戸に投げたという。武将は、門前の芋畑で自害。以後、井戸には馬の首(姿)が浮かび、馬のいななきも聞こえるという。


・不開の雪隠(あかずのせっちん)
「せっちん」とは、トイレのこと。大中寺へ逃げてきた武将が自害し、その妻が夫を按じて寺に来たが、妻は夫の自害しているのを見て、雪隠に入り自害したという。以後、雪隠に入ると自殺したり、発狂する人があとをたたないので、住職が封じたそうな。


・東山の一つ拍子木
 大中寺に異変が起こるときは、決まって東の方向から拍子木の音が聞こえるという。しかし、その音は住職にしか聞こえないらしい。
 いわゆる禅宗の「片手の声」である。禅宗の寺院には、拍子木が鳴ると異変が起こるという逸話がいくつか残る。禅宗では、東の山は神である。異変がある時は、心の耳で聞くと、東の山から教えてくれるという意味だろうか。


・枕返しの間
 ある旅人が、この部屋に泊まり、本尊に足を向けて寝た。朝起きると、頭が本尊の方向を向いていたという。神仏に足を向けてはいけないという戒めか。単に寝相が悪いのか。


以上、非常にうさんくさい七不思議である。

それでは、
・馬首の井戸
・不開の雪隠
この二点に関すると思われる逸話を紹介しよう。


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 時は天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐の最中である。

皆川城(現・栃木市)の皆川広照は小田原の北条家に味方し、秀吉の軍勢と戦うため、皆川勢800騎と共に小田原に籠城していた。皆川城は豊臣方の上杉、浅野らの数万の軍に攻められる。皆川家重臣・関口但馬が、広照の息子・隆庸を擁して守備していたが、残る兵はわずかで、女、子供も多く、落城は目に見えていた。

 そこで、関口但馬は側近の佐竹小太郎を呼び、広照の奥方と隆庸を、大平山の南、山田の里に隠居している旧臣・白石正義のもとに落とすように命じた。小太郎は奥方を自分の愛馬に乗せ、隆庸と自分の妻を伴い、夜に大平山中の間道を急いだ。南側の山裾に出るとこの人数では目立つので、妻を森の中で待たせ、「自分が帰ったときには合図に火打石を打って知らせるゆえ、お前も必ず火打石を打って答えよ。もし帰らぬ時は、大中寺を訪ねよ」と言い残し、隆庸と広照の奥方を連れていった。小太郎の叔父は、大中寺の住職であり、もしもの時はそれを頼りにせよとの事だった。

 小太郎は、隆庸と広照の奥方を無事に正義の屋敷に送り届けたが、帰り道に敵兵に見つかってしまった。小太郎は豪の者でもあったから、ひるまず敵と渡り合ったが次第に斬りたてられ、愛馬と共に傷つきながら何とか囲みを脱し、叔父が住職をしている大中寺の門前にたどり着いた。傷の手当てをと思い、扉をたたいた。まだ夜明けまで時間があったが、叔父の住職は門を開かず、「佐竹小太郎とやら、ここは敵も味方もない場所、いかなる者も匿うことはできぬ」と退けてしまった。小太郎はここまでと思い自害しようとしたが、愛馬が鎧の袖をくわえて離さない。小太郎は涙ながらに愛馬の首を斬り落とし、側の井戸に沈めて自身も腹を切った。

 さて、小太郎の妻は森に潜んでいたが、合図が聞こえないため大中寺に忍んで行くと、夫はすでに自害して果てたあとだった。妻が悲しんでいると、見回りの兵が辺りを探索しているのを住職が気づき、あわてて小太郎の妻を厠に隠し、釘を打ってその場をやりすごした。兵が去ったあと、住職は厠を開いたが、小太郎の妻はのどをついて死んでいた。

 それからというもの、厠に女の亡霊が現れたり、寺の周りを駆ける馬のひづめの音、明け方に門をたたく音が聞こえたり、井戸に浮かぶ馬の影が見えたりと、奇怪なことが続いた。それはいくら供養をしても消えることは無かった。

 寺の僧も一人、二人と去り、とうとう住職だけとなってしまった。そして、ある真夏の夜に大中寺は炎上してしまう。まるで辺りが昼間のように明るくなってしまうほどの大火事で、それは誰も手のつけられない状態だった。

 焼け跡から住職の遺体が見つかった。固く閉まった門扉のかんぬきにつかまったまま焼け死んでいた。

 村人の話では、「火事の前、寺と東山の裾から相呼応するように火打石をたたく音が聞こえた」という。大中寺の再興は、越前永平寺より来た僧伯堂により成されることとなる。



以上が物語の内容である。これによると、馬首の井戸と不開の雪隠の話は一致する。

七不思議というのは、明治になって大中寺の住職がイメージアップをはかろうとアレンジしたもので、元になった話もあるだろうが、それが史実であったかは疑わしい。

 皆川隆庸と広照の奥方を送り届けた「山田」とは、西山田という地名が残る事から考えると、その少し東側。すると、ちょうど大中寺の南あたりだろう。「中山」という山のふもと辺りだろうか。


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佐竹小太郎は、晃石太郎(てるいしたろう)とも書かれてある。古河での戦に破れて、大中寺に逃げ込んだともいわれる。そして妻も敵に追われ、大中寺で自害したという話もあるので紹介する。こちらは、時代背景はわからない。

古河の郷士である佐竹太郎信綱は、小山家と争って戦で敗れ、縁家である大中寺の住職を頼って落ち延びた。しかし、大中寺は小山家の建立菩提院の関係上、助けることはできなかったので、佐竹太郎信綱は馬の首を井戸に投げ入れ、恨みのまま自害した。

その数日後、この場所から光輝くものが西方の山の上に飛び散る。村人たちが、光った場所を見ると、ひとつの怪石が現れた。村人たちは、その石を西方の山頂へ移し、「照石権現」としてその霊を祀った。そしてその山を「照石山」、故太郎信綱を「照石太郎」と呼ぶようになった。

この話から、佐竹小太郎は「晃石太郎」とも呼ばれているのだろう。現在、大中寺の西側には晃石山(標高419m)がある。

先に紹介した物語では皆川家臣だったが、こちらの話では古河の郷士として小山家と戦っている。なんで古河郷士VS小山の合戦をやって、自領とは反対方向の大中寺まで行けるんだよ。大中寺のある場所は、小山領の西側。ちょっと行くの大変。

 また、馬の首を投げ入れた井戸とは、清水の湧く八畳敷ほどの池のことで、大中寺ではこの池の水を飲料水に使用していたらしい。その後は池の大部分を埋めて、ほんの一部分を井戸の形のように残して柵を巡らし、八大龍王を祀った。その池の水は、今でも一段低い池の所へ流れ出している。最初から井戸ではなかったという。

 大中寺では信綱が自殺した芋畑では、しばらく芋を作らなかったという。


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ふむふむ、たくさん説があるな。そういえば、どこぞの委員会で歴史物話を捏造していた奴らがおったな。対して大中寺では、ありそうもない不思議な話が七不思議として観光名物にもなっているのに、捏造しているという気にはならない。なぜだろう。それは、史実ではないからであろう。寺にまつわる、ほのぼのとした物語(ちょっと怖い話だが)とも受け取れる。これには悪意が感じられないのである。

しかし、大中寺の七不思議の時代背景を断定できる要素は無さそうだ。なにせ、明治時代に住職どのがアレ〜ンジしてしまっている。やはり、歴史上に残る昔話として記憶にとどめておく程度のものなのだろう。深く追求しても史実との関係は分からなそうだ。



あ!忘れた。少々、寺の説明を。

江戸時代末期まで、曹洞宗の寺院を統括管理する関三刹の筆頭として、大いに権勢を奮ったという。

す、すごい…。

はじめ久寿年間(1154年頃)に開基され、真言宗の寺で荒廃していたが、延徳元年(1489年)曹洞宗の高僧・快庵妙慶禅師が再興。以後、曹洞宗の寺院として栄える。

上杉謙信の叔父がこの寺の住職をしていた由縁もあり、伽藍も寄進している。

永禄11年(1568年)上杉謙信と北条氏康が和睦した(越相同盟)場所としても有名である。

また、「関三刹大中寺」という書籍が出ており、ここに大中寺の歴史をまとめてあるらしい。まだ確認していないが、機会があったら読んでみたい。


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