水戸の副将軍

谷田部通胤



このサイトではおなじみの「谷田部通胤」という名前。だが、大半の歴史ファンたちにとっては、初めて聞く名であろう。

 谷田部通胤は、常陸水戸城主・江戸家に仕える武将。ご身分は、なんと家中ナンバーツー。

江戸家における四人の宿老。それを江戸ノ四殿という。江戸重通の幼少時代は谷田部通胤が筆頭宿老で、後見人であった。そう、家中は通胤が仕切っていたのだ。

官途は「越後守中務大輔」いくらなんでも偉すぎる…。

当サイトのお城訪問記で活躍している「谷田部越後」の大それた名前は、ここから拝借したものである。

父・谷田部雅胤の死後、江戸忠通に仕える。谷田部雅胤は江戸通雅の三男で、宿老・谷田部家に入嗣していたので、谷田部家は江戸家の一族として遇されていた。

ただの権力者でなく、田舎侍なのに功績もきちんと残っている。


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谷田部通胤の功績。

弘治3年(1557)、下野に出陣。宇都宮家と壬生家の対立では、江戸家は宇都宮家に味方した。結果、宇都宮城から壬生綱雄を追いやった。その時の派遣された将が谷田部通胤である。

永禄2年(1559)3月には、玉造家と小高家が所領争いをし、その紛争処理をした大掾貞国の処置に不満を持った小高家は、小田城の小田氏治に通じた。
 小高方には、下川辺、麻生、島崎、山田、武田らの諸氏が味方した。一方、玉造方には手賀、鳥名木らの諸氏が味方して「柄ヶ崎合戦」といわれる合戦があった(現・行方市)。
 この時に山田治広、武田通信が江戸家に助けを求めてきたので、谷田部通胤が出陣した。こののち、行方郡の山田、武田両氏は江戸家に臣従している。

永禄12年(1569)2月19日、谷田部通胤は、北条氏政に使者を送り、誼を通じている。使者は3月5日に駿河の北条の陣所に到着し、答書を持って3月24日に水戸に帰着した。

 江戸忠通以来、北条家との親交はあったようで、これより先、佐竹家とも「一家同位」の誼を通じている。谷田部通胤は外交センスもあったようだ。

領土侵略の憂いも少なく、周辺領主の調停、取り込みなどもしていたことから、江戸家は、この地域では抜きん出た存在であった事が伺える。

 その抜群の忠節により、江戸忠通より三反田、高井、部田郡など、82貫文の地を宛がわれた。これにより、都合382貫文を所領とし、江戸家の城代を務める。かなりの大身である。

その頃の当主・江戸通政は元来病弱だったため、子の重通に早くから家督を譲り、1567年に31歳という若さで死去してしまう。

 江戸重通は家督を譲られていたが、幼少のため、谷田部通胤が後見人となっている。その頃に、谷田部通胤、篠原和泉守通知、神生遠江守通朝、江戸(御宿)信濃守通澄らを「江戸ノ四殿」と呼んだという。

いうなれば「江戸家における前田利家」といった所か。(※まつのような存在は未確認)。こんな立派な水戸の副将軍は、歴史に埋もれてはいけない。

※史料によって「谷田部通種」ともある。

天正10年(1582)8月10日死去。法名:館船庵芝山道仙。1557年、下野に出陣しており、通胤が援軍の重要なポジションにいる事から、年齢は20代ではない。30歳代か?。

 すると、1520年〜1530年頃の生まれだろうか?すると、1560年頃に、江戸重通の後見人を任されてもおかしくない年齢になる。

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信長の野望では。

このような大人物でも、「信長の野望」に一度も登場していません。メジャー級ゲームなので、マイナー方面はかなり削減されています。少し前に、江戸家が大名家としてありましたが、谷田部家の者はいませんでした。

 どうにかして登場させてもらえないかな〜。

能力値なんですけど、私が考えた数値ではないです。これは、谷田部越後が勝手に考えました。ちょっと高めだが、納得できる範囲。

政治 63
武勇 54
統率 61
智略 68

野心 38

内政特技・農業、外交、登用。
戦闘特技・連射、槍衾、迎撃。

足軽B 騎馬C 鉄砲D 水軍D

 ふむ、ゲーム内でも使える人材になりそうだ。

それと疑問なんですが、谷田部通直はなぜ登場しているのでしょうか?まさか「あの有名な悪本に載っていたから」とか言うんじゃないでしょうね…。

谷田部通直は、1590年に佐竹勢相手に奮戦し、討ち死にしています。そう、討死帳に載っている。たったこれだけしか名前が無いのです。系図でも残念ながら確認されません。

しかし、谷田部通胤は筆頭宿老でしかも功績を数多く残している。時代も、信長の生きた時代どんぴしゃ。こちらを優先させて登場させたほうがよろしいかと。群雄が割拠し、戦国時代にふさわしいときに活躍したこの人物を、是非ゲームで見たい。

なんでこんな武将が出ているんだ!?とか、あの有名、もしくは重臣の武将が登場しないなんておかしい。

コーエーと地元歴史ファンとの、こういった思い違いのケースは全国の地方マイナー武将に多くありますよね。


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谷田部家の起こりと居城。

谷田部家は、常陸平氏の一族で、吉田郡の地頭であった「吉田三郎清幹」の子孫である。吉田清幹の孫が「石河家幹」という。その子孫である「石川光幹」は、康応元年(1389)に弟の国重に所領の内、谷田部、大戸、平須を譲った。

 「石川国重」ははじめ谷田部に住み、その地にちなんで「谷田部国重」と名乗った。上杉禅秀に従い戦ったが、禅秀滅亡ののちに佐竹義憲に降り、応永末年の江戸通房による水戸攻略の後は江戸家に従った。

 国重の子「谷田部胤重」は江戸通雅に属して、文明13()年5月に小鶴原に出陣。その功績で、坂戸、新平の二村を与えられた。そこで胤重は、坂戸に移住した。

 重胤の孫・谷田部宣幹(宣胤)は、江戸通雅の三男・雅胤を養子として迎えた。そして、その子が「谷田部通胤」である。ここから地方の名将劇が始まったのである。


 居城はおそらく、谷田部城(現・茨城県茨城町)。
 涸沼川が流れ込み「涸沼」と呼ばれる場所にある。当時はかなり広大な土地が沼地となっていた。その北岸にある谷田部集落の南側の台地縁辺部に立地しており、涸沼の水運を意識した城である。当時、水運は何につけても非常に重要で、谷田部城はこれを掌握するのに重要な役割を持っていた。この城主は、吉田一族の谷田部家とみて、ほぼ間違いないだろう。

 以後、戦国時代にいたり、江戸家の重臣として活躍した。

 これを機に、谷田部通胤の名が広まれば、嬉しい次第であります。




江戸重通さま!
江戸のフォー殿谷田部通胤HG開府しましょうよ〜。
江戸幕フォー!!
セイセイセイセイ。


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