渡辺家





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 現・鹿沼市の加園城を中心に、加園地区に勢力をもっていた豪族で、はじめ宇都宮家に仕えていた。
 源頼光四天王・渡辺ノ綱の末裔。全国に散らばる名家のうちの一つである。高望王を祖とし平氏であったが、源頼光より源氏姓を賜り、源氏姓を名乗る。
 加園の渡辺家については明確な資料がないため、渡辺家の所業に関してはよく分かっていない。ここでは資料を元に、周辺の史実と絡ませて出来るだけ現実的な加園の歴史を解明していきたい。


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・加園渡辺家の歴史

 渡辺ノ綱7代の孫・渡辺忠綱のときは南北朝動乱期。系図の注釈には、紀伊の小嶋城主(所在不明)であったが落城し、下野の宇都宮公綱の旗下になり、加薗村に住す。とある。また、「代々宇都宮軍奉行」とある。
 次代の渡辺右衛門尉綱重のときに加園城を築き、加園地域を支配するに至る。
 綱重の長男・信綱は大和国宇田群に住すが、加園渡辺家は3男の豊綱を経て、その子・義綱の系統へ続いていくようだ。

 戦国時代では、わずかな足跡が史料に残されている。
 文献に名が見えるのは、次の事項である。

「皆川正中録」より。
 1523年に鹿沼家を滅ぼした宇都宮忠綱は、加園城主の渡辺家や南摩城主の南摩舎人之助を旗下とし、1110日に南摩を発し、小山家と戦うため河原田に押し寄せた。その間に小山、結城勢は鹿沼城を乗っ取った。これを聞いた渡辺右衛門尉は小山勢に下り、南摩城を占拠したという。

 この記述は1523年の河原田合戦の事だが、鹿沼家を攻め滅ぼしたのはもっと前の1491年と思われる。その時、渡辺家は宇都宮家に従った。
 そして、河原田合戦では宇都宮忠綱に従い出陣したが、途中で小山家に味方した。小山勢が鹿沼城を取ったとあるが、本当だろうか。合戦時は小山家に寝返ったが、合戦後は皆川に協力か、もしくは皆川の勢力下だったろう。地理的に小山家が支配するには厳しいからである。


 また、加園にある円満山興源寺の開基は、宝徳2年(1450年)渡辺右衛門尉といわれている。
 貞和5年(1349年)に宇都宮公綱の奉納した木造の薬師如来像がある。これは初め東園寺にあり、もとは加園城の西側・釜ヶ入にあった。それが廃寺となり、今ある興源寺に移された。

 加園は早くから宇都宮勢力の元にあったようだ。そして、新たに興源寺を建立できたのは、室町期の相次ぐ宇都宮当主の死去、勢力の減衰により、渡辺家による加園支配が確立してきたからであろう。



 また、「南摩古城略記」によれば、
 156111月、渡辺右衛門尉忠之は小山家へ味方し、越後上杉勢を碓氷峠で防戦したが、討死にしてしまう。

 これは、凄く大局的で不親切な記述である。この頃の、上杉謙信の動向から推測するに、
 1560年より長尾景虎が小田原征伐のため関東に来ており、上野の厩橋城を拠点に居座っている。さらに、15613月に、小田原城を包囲。しかし失敗し、閏3月に関東管領に就任(上杉政虎となる)すると越後に帰り、9月に第四次川中島合戦。
 そして、関東の諸豪族が北条に寝返り、11月に再び上杉謙信が関東に出陣し、翌年に佐野家などを降し、雪解けを待って帰国している。

 小山家に味方した=北条方として上杉軍と戦って戦死したのだろう。館林城や佐野家の唐沢山城に攻め入る前に合戦に及び、戦死したものと思われる。


 しかし、以下の系図によると、軍記物に登場した人物「渡辺右衛門尉」と「渡辺右衛門尉忠之」は登場しない。




 義綱の子・渡辺刑部太夫豊綱の系統は、半田村に住している。粟野の半田だろうか。そして大炊之助に至っては、結城配下の城主になっている事から、加園の系統ではない。
 系図によれば、戦国時代と思われる加園城主は、「豊治―家綱―綱利―綱輝―綱春」の五代である。
 この系図は生年など書いていないため、活躍していた年代がわからない。注釈により、時代の判別できる人物は「綱由」と「綱春」の二人のみ。


 また、江戸期の水戸藩・宇都宮弥三郎からの、「野州都賀郡加園村惣鎮守祭礼証文之事」という渡辺家の事をつづった文書(17596月付け)が残る。
 渡部加茂之助(系図では家綱)より子孫代々、宇都宮家旗下であったが、落城してから数年経て百姓になったという。江戸期も武士の格式があり、祭礼葬儀などを行っていたようで、これを宇都宮弥三郎は認知していた事になる。加園と宇都宮子孫との関係を示す貴重な資料である。



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渡辺綱由 わたなべ つなよし
 1510年〜1520年頃の生まれと思われる。
 兵部次男。渡辺兵部左衛門 天正三年歳亥正月ヨリ
 皆川山城守家臣ト也皆川ニ住ス

 と系図にある。家綱の次男で、おそらく城主ではない。渡辺綱由が単に、天正3年(1575年)正月に皆川家に従属したとは限らない。天正2年までに何かあったに違いない。それには次の仮説が思い浮かぶ。加園は宇都宮方。皆川は北条寄りと仮定する。

・仮説
 天正2年(1574年)に比定される粟志川の合戦後、寝返ったという仮説。この合戦で北条軍は、小山と壬生領の間で思川領域と思われる粟志川を攻め取る。そして北条軍は鹿沼まで迫っている。徳節斎から佐竹義重に対して、緊迫感のある援軍要請の書状が残っている。

 翌天正33月に、宇都宮広綱や佐竹義重らが小田原に人質を出して、形ばかりだが北条家に従属している。この間の天正3年正月に渡辺綱由が、皆川に移ったと推測できる。

 以上の事から、渡辺綱由は皆川方に加担していた可能性がある。加園城主は兄の渡辺綱利と思われるので、兄弟別れて宇都宮方と皆川方になっていたのだろうか。



渡辺綱春 わたなべ つなはる

 渡辺忠太左衛門
 天正四年子ノ三月壬生上総之助義雄公
 家臣ト也壬生ニ住ス


 と系図にある1550頃の生まれだろうか。すると、壬生に住した頃は若いと思われる。壬生に従属し家臣となったのだろう。
 
綱春は壬生に住んだため、加園城には壬生家臣の中から誰か城代として来ていたに違いない。

 これは壬生義雄が鹿沼を攻めようと、足場をじわじわと固めてきた様子がうかがえる。徳節斎周長は、永録年間以降、宇都宮方に組して鹿沼城周辺を治めている。1571年の合戦で壬生義雄に勝利し(一族の大門弥次郎も宇都宮方)、天正4年(1576)頃起こった日光山の絹衣争論にも口を出し、足利義氏と壬生義雄の調停にもなかなか聞かなかった。
 これを義雄が野放しにするわけがない。絹衣争論の件は、徳節斎が天正51577年)4月になってようやく応じたようだ。

 綱由の項で、天正3年(1575年)の加園城は宇都宮方になっていた仮説を立てたが、地理的に見て、鹿沼城の徳節斎周長の支配に任されていただろう。
 この加園城落城は、天正4年(1576年)日光山での絹衣論争の調停要請に応じない徳節斎に対しての牽制、武力的な圧力であったと考えられる。

 これらの推察によると渡辺家は、戦国期は周りの勢力に付きながら生き延びていたようだ。天正期に至り、壬生家の支配することになる。



・仮説「下沢城」の築城理由
 
 渡辺家とは外れるが、ここで余談をひとつ。
 天4年(1576)の加園城落城によって、徳節斎は加園の北に位置する下沢に(鹿沼市東大芦下沢)築城したのではないか。

 下沢城は「鹿沼の城と館」の調査中に偶然発見された城郭で、突き出た山の上部にわずかに残る。わずかと言っても山の頂上のため天嶮である。ちょうど、砦と言ったほうが解しやすいだろう。東側は崖のため簡素だが、西の尾根続きの方には掘切が念入りに残る。やはり加園方面からの侵攻を懸念しての事だろうか。
 下沢城に関する歴史的資料は全くないため、元亀2年(1571)鹿沼の引田地方で起きた乱(徳節斎方の勝利)のため築城されたものだろうと憶測が立てられている。

 しかし私は、加園から徳節斎の鹿沼領地に入るこのルートに、1576年に下沢城という砦を突貫工事で造って抑えた可能性を指摘したい。

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・渡辺家の城

加園城
 渡辺家の居城と思われる。竜ヶ谷山の中腹にあるので、竜ヶ谷城とも言う。南側の部分に石灰の採掘業者があり、山の手前は欠落している。だが、奥には城の遺構が残っており、非常に良好である。
 普段は、館谷御殿所在地に住まわっていたと思われる。
 渡辺綱重が加園城を築いたのは1551年という。しかし、綱重の父・渡辺忠綱が宇都宮公綱に仕えたというから、この年号は間違いであろう。

河原田合戦に出陣した渡辺右衛門尉の時代には、加園城はあった事になる。綱重が築いたのは竜が谷山手前の小型館で、1551年に竜が谷山に加園城を築城、改修したと思われる。
 もしくは、独鈷山城のことだろうか。


独鈷山城
 加園城と目の鼻の先で、すぐ南に位置する独鈷山に城跡がある。名の由来は、仏具の独鈷に似ているからだという。現在では採掘され、遺構の大半が消滅している。わずかに頂上部に残る程度。これからも採掘は進むと思われ、完全に消滅する前に何とか残してほしいものだ。
 斜面が急で険しい構造のため展望が良く、詰めの城とも言われるが、おおかた南摩方面の監視をするための出城であろう。中鈷山、下鈷山の山峡中険には鐘突堂がある。



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