上野台合戦 概論




日時

15231028日(皆川正中録による)

場所

鹿沼領 上野台(現・栃木県鹿沼市)

対戦

宇都宮忠綱

鹿沼教清

兵力

1500

700

勝敗

×

援軍

なし

なし

結果

鹿沼城奪取

教清討死、滅亡


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 戦国時代初期、鹿沼の上野台(うわのだい)で合戦が起こった。寄せ手は下野一の大国・宇都宮忠綱。対するは鹿沼地方の豪族・鹿沼教清。鹿沼城から見れば台地になっており、鹿沼勢は負ければ黒川に追い落とされるのは必定。背水の陣でこの合戦に望んだに違いない。
 宇都宮忠綱は小山、結城を降そうとしていたので、後顧の憂いを絶とうとした。鹿沼を傘下に治めようとしたが応じなかったので、侵攻に至った。

 以下、「皆川正中録」を元に、読みやすいように作成した。


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「鹿沼右衛門太夫教清討死之事」

・出陣まで

〜鹿沼の説明 中略〜

 鹿沼に、鹿沼権三郎という者がおり日光の御神領を預かり支配していた。正応5年(1292年)3月、日光山へ唐銅の燈籠を奉納した。その燈籠に、「鹿沼権三郎入道教阿(ノリクマ)並びに、清原氏の女(妻)と印されており、代々鹿沼に住し、その近隣を領地として正応より大永に至までの約200年の間、名だたる宇都宮家に対抗して累世地を争ってきたが、大永3年、右衛門太夫教清の時代に、宇都宮家と争いが起こった。

 その後、宇都宮弥三郎朝綱16代の裔(宇都宮)右馬頭忠綱は威勢盛んで、小山家と武威を争う。小山家が下野守なので、忠綱は下野守には任じられない。これを残念に思って様々な計略を立てるが、壬生には小山下野守旗下の壬生筑後守がおり小山家と共に威勢を振るい、鹿沼には鹿沼右衛門太夫教清がいて、小山の領地である都賀郡と接しているのみならず、小山、鹿沼両家は浅からぬ縁なので、まず鹿沼右衛門を討って威勢を示し、続いて加園城主・渡辺右衛門尉、南摩舎人之助を征服して小山領を掠め、それから皆川、榎本等の諸城を下し、のちに小山、結城も降参せしめようとの決意を固めた。

 まず鹿沼を攻めようと多気山に城壁を設けて出張とし、今泉兵部少輔、逆面周防守、中里左京、宇賀神新左衛門、田向大膳之助、江島大内蔵、矢口筑前守、直井淡路守、岡本美濃守、飯岡惣左衛門、和気越前守、山田内蔵之助等の面々、その他近辺の郷士およそ1500騎を率い、威風凛々として多気城に出陣して鹿沼を攻め落とそうとした。

 鹿沼右衛門はこれを聞いて、諸士を集めて評議をし、まず上野に出陣して防戦する事に一決し、鹿沼右衛門太夫教清は、星野勘解由、新川新左衛門、渡辺治部、襲田五郎左衛門尉、稲生隼人、石原左近、高村主膳、川田主水、小野口九郎次郎、岩花右衛門尉、小林甚兵衛、阿久津左衛門、舟生玄蕃、総勢およそ700騎は黒川を渡って上野台の出陣した。


・激突。

 宇都宮忠綱は、多気城より上野台に押し寄せて鬨の声を天地に響かせると、鹿沼勢もこれに応じて矢を雨のごとく降らせた。弦音はしばらくして止んだが、忠綱が先頭に立って下知し、刀を抜いて斬り込んだので、鹿沼勢も抜き合って剣の光は雷光のようだった。三刻ほど揉み合って勝負は見えないので、剛気の鹿沼右衛門は耐えかねて長刀押し取り討って出ると、鹿沼勢もこれに続いた。

 宇都宮勢は声を上げ、大将だ、逃すなと(鹿沼右衛門を)皆一同に取り巻いて我こそ大将の首級を上げようと競い合っているのを、(鹿沼右衛門は)右に薙立て、左に討ち捨てて斬り回れば、宇都宮勢は気を挫かれて辟易の色が見えた。そこへ宇都宮方から6尺ばかりの大男が、丸さ6寸、長さ9尺ばかりの樫の丸棒を掲げて踊りでて「我こそは山野井将監なり、手練のほど見せてくれよう」と名乗り出て討ちかかる。
 なんの小癪と渡り合う鹿沼勢を打ち散らし、隙を見て棒を取り伸ばし、教清の馬の両足を薙ぎ倒し、教清が真っ逆さまに落ちる所を、一打にて首を討ち落とした。その一刹那、襲田五郎左衛門が将監の背後から袈裟掛けに斬り下げていた。

 鹿沼勢は、この豪将(山野井)将監を討ち取ったが、大将・教清が討ち果たされ、諸臣潰散し、教清に嗣子なく遂に滅亡した。時に大永31028日の事であった。

(巻之一)

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 この合戦のあった年号は、実は1491年ではないかと思われる。というのは、連歌師宗長の「東路のつと」の中に、1509年に下野を訪れた時の事が記されている。鹿沼の壬生綱重の御殿に招かれ、連歌会を開いている。御殿とは、現・鹿沼市立中央小学校の地で、さらに鹿沼城も壬生家のものだったと思われる。
 ゆえに、「皆川正中録」にある1523年に鹿沼教清が鹿沼城にいた記述は矛盾するのである。当HPでは例によって、連歌師宗長の「東路のつと」を信用する。
 すると、宇都宮の大将は、宇都宮成綱になる。

 鹿沼地方は当時、日光山への寄進地が多く、御坊によるルーズな支配がほとんどだった。その中に多少の豪族は存在しており、鹿沼家もその一家だったに違いない。ゆえに、戦国期以前は武家勢力によって支配されていたという記述は無いのだと推測する。
 鹿沼勢の700という兵力は、周辺を寄せ集めてなら解するに値する。それに対する宇都宮勢1500も鹿沼を併呑するに理解できる範囲だ。

 これ以降、鹿沼は宇都宮家の支配になり、その仮定で宇都宮傘下の壬生家が任されることになる。



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