信長の野望
下野の武将、生没年研究!!!
これまで登場してきた武将で、生没年のわからない武将はたくさんいます。ここで郷土史料などを見て、調べた生没年を公開します。 芳賀高定 1521〜1588正月三日死去。68歳。嵐世紀の1527生まれというのはどこから見つけてきたのでしょう?わかりません。どこかで見かけたようなきはしますが・・・。天翔記の1520年生まれが一番近いです。 益子勝宗 難しいです。わかりません。益子家は難易度S級です。二つの系図が全く違うのです!ただ、芳賀高定の父ということなので、1521年より前です。清党益子家の系図にある、1529年生まれというのは、全く間違いに思います(高定が勝宗の子とするならば)。 益子勝清が出てくるほうの系図では、勝宗はその子で、1529年生まれです。そして、秀吉政権期まで生きました。こちらは、芳賀高定が1521年生まれということに反抗していますね。 紀党益子系図の勝宗生誕年は1470年で、死没年は1538年で69歳 勝宗の父である正光はこれまたすごい事に1529年死去の90歳です。系図では、正光が1468年に謀反を起こして、兄の勝家を殺し家督と継いだとあります。私はこちらの説をとっています。 ※私が勝手に考えたものでは、高定は勝宗の3男で、兄の安宗が生まれたのは五年ほど前と仮定しても、勝宗の生誕年は1490年代、もしくはそれ前後と思います。これは参考にしないでください。いや、なぜこんな説を考えたのかというと、勝宗がかなり年とってから三男の高定が生まれたなぁと思ったからです。 益子安宗 1579年に68歳で死去。すると、1512年生まれでしょうか?益子家は長寿ですね。父の後を継いだ安宗は、宮家に対し、完全に謀反を起こす。のちに加藤上総に讒言され、宮家に幽閉されました。そして、そこで暗殺。芳賀高定の兄です。そのとき高定は生きていたのだから、隠居地で兄の暗殺をどう思ったのでしょう? 壬生綱房 二つ説があり1479年か1486年生。一応、私は1486年誕生説です。 大田原資清 これも二つあり1486年か1597年説あり。私は1486年説。 宇都宮興綱 天翔記では1475年生まれになっていますが、父の正綱は1477年に上野の川曲陣中で陣没しています。次男といわれている興綱は実は三男で、正室と側室の差で繰り上げになったのでは? ちなみに、長男の成綱は1468年。 芳賀家の人々 この人たち、高経以前の代は続柄なども全然分かりません。芳賀高経、高照、高継らは生没年がはっきりしません。でも、死去した年はわかります。 芳賀高経は1541年死亡。謀反を起こして、捕縛後斬首です。1538年謀反説は否定でしょう。1400年代生まれと推測します。1490年前後でしょうか。 高経嫡男・高照は1555年、高定に真岡に呼び出され、そこで詰め寄られ自刃。長男ですから、高継よりもさらに前年です。次男説もある。1520年頃の生まれでしょう。 三男である高継は、1589年の謀叛後、追放先の白河で死去。1592年。父の高経が1541には死亡していることから、それ以前の誕生年です。1549年、芳賀高定に連れられて真岡に逃げたとき青年(10〜18歳くらい?)だったことから、誕生年は1530年代と思われます。 これ以上は推測の域を出ないので無理です。高経の死没年も考慮して適当にお願いします。
佐野家 佐野家も難しい。なんせ、父と子が10歳も離れていないところもありますからな。名将・昌綱の生没年がはっきりしない。152?年あたり〜死没年は1574か1572あたりでモメてるらしい。まあ、他の地方の人にすりゃ、こんなのどっちでもいいんだけどね。一応1574年説が有力らしいです。俺は1574年説かな。 剣術の達人・房綱は続柄すらわからん。おそらく、昌綱の弟ですかね?いや、子か? |