北条家「五色だんだら」の赤備え

北条綱高



みなさんは、この武将をご存知だろうか。一部の歴史ファンは、聞いたことはあるのではないか。

「北条家の五備え」と世間一般ではしきりにいわれるが、綱高の説明はどこにもない。ただ北条綱高という名はある。


ネットで検索して探すのも苦労した。名前を載せているだけで、北条綱高の説明など無いのである。活躍の内容がまるでわからない。


それでも四方八方手を尽くして少々調べた。

本名を高橋綱種という。常陸介を名乗る。伊豆衆10貫。
以下、少々高橋家の系譜を。

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三鷹市の牟礼には、北条家の落武者伝説をもつ、高橋家がある。そこに残る『高橋家系図記録』によると、室町後期にいたと思われる大蔵高種は伊豆国の雲見郷に住み、伊勢長氏(北条早雲)に仕え高橋左近太夫将監高種と改名したという。

高種の子「綱種」は早雲に養育され、多目周防守に従学し伊豆韮山に住む。氏綱の時代に大道寺配下となり、1524年に江戸城攻略。活躍により北条常陸介綱種と名乗り、相模甘縄城代を勤めたという。

天文六年(1537)江戸城に入り、上杉家重臣・難波田善銀の深大寺城を攻めて、これを敗走させた。

これが、赤備えの「北条綱高」である。

その後すぐに扇谷方の難波田善銀が深大寺城に攻め寄せるが、弟の氏高と共に、牟礼と烏山にそれぞれ陣取り対峙する。この隙に北条氏綱は河越城に迫ったので、あわてて河越城に引き返した難波田軍を高橋軍が追撃する。三鷹市内で追撃戦があったという。

また、牟礼には高橋綱種が天文十一年(1542)芝飯倉神明宮を奉ったといわれる神明神社がある。祭神は天照大神。ここは高台になっており、北条方の高橋綱種軍が、扇谷方の深大寺城に対峙していたときに陣取っていたとされるところである。

子の高橋康種は北条氏康に仕え江戸城に入り、天正十八年(1590)小田原落城後、子種資らと共に牟礼に住した。

『小田原旧記』には、伊豆衆二十家の中に高橋家がある。

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私には、とても重要人物のように思えるのだが、コーエーの「信長の野望」シリーズには、一度も登場したことがない。

こんな重要人物をなぜ!?と思う。

ポジションは赤備え他家の赤備えを見ると、家中一重要なポジションに見える。北条家でもそんな重要なポジションを見逃していいはずが無く、今後、ゲームへの登場を検討していただきたい。

「五色だんだら」は北条家の武の中心である。黄備えの北条綱成ばかり目だって、他の五備えが見えていない。それでは北条家に失礼だ。

下野の名将たちも「信長の野望」で、この「五色だんだら」と戦ってみたいと思っているに違いない。

 東京都の歴史の書物で、前に高橋なんたらという者が、北条早雲に北条姓を貰ったと書いてあった記憶をたどって高橋(なんたら)綱などとネットで検索していたら、あるサイトでやっと見つけた!

活躍していたのは三鷹市あたりだったというから、そこら辺の郷土資料をあされば、列伝くらいは楽に調べられるだろう。

 だが、この頁ではそんなのどーでもイー!

 私が切望するのは、歴史シュミュレーションゲーム信長の野望内で「北条の五色だんだら」がそろうことだ。

 ↓北条家五色だんだら(別名:五備え)。

北条綱高、北条綱成、笠原美作、多目周防守、富田右衛門尉。

 綱高の他に、軍師各である多目周防守や、富田右衛門尉を登場させないのは、北条家領地を拡大させないためのコーエーの独断によるものか?

 憤懣やるかたなし!この五人、ビックネームついてるんだから、標準でそろえろよKOEI。

最近の傾向にある会員特典ユーザー専用ページで、武将ダウンロードコーナーに名前があったな。知られざる関東の名将だっけか?能力値見たいが、わたしはコーエー市民ですが、有料会員じゃないから無理です。誰か教えてくれないかな。

 なぜゲームに登場しないかを考えてみると、北条綱高という人物が本当に高橋綱種と一致しているのかという疑問にあるのかな?

 今までさんざん文章書いてきて、「北条綱高=高橋綱種じゃないのかよ!」と思うかもしれませんが、ごめんなさい。私もわかりません。

 コーエーって、出自や詳細がはっきりしないと、有名人(出雲阿国や真田十勇士など)以外はゲーム登場に消極的な部分があると思います。

 下野でも益子家は、系図や功績が多数の説があり、生没年を決めて武将を登場させるのは難しいのでしょう。この北条綱高も、そういった面があるから登場しないと思われます。

 北条綱高が高橋綱種と同一人物と仮定すれば、登場は比較的簡単だと思われますが、決定付ける資料を見ていないため、同一人物とは断定できないのであります。


しょーがない、最後にまとめ。

1、高橋綱種が活躍していた時代は、早雲時代は幼少。氏綱時代は、一軍を率いるくらいの武将に成長。氏康時代は、中年期と思われるので、五色だんだらを率いることのできる年齢。

2、早雲時代に幼少であり、『大蔵系高橋氏考察』で弟の氏高が1506年生まれであるとしていることから、生年はそれより前。

3、扇谷上杉家との戦功から言って、北条家を代表する重要な軍事的役割を任されてもよい。

4、高橋綱種が三鷹、弟の氏高が世田谷におり、北条領で重要な地域にすんでいたことから、かなりの優遇。

5、系図で、遠祖が中国後漢王朝の霊帝(あの有名アホ皇帝)と名乗っているので、北条家内でも格式を上げねばならないほど身分が高い。=重臣級。


ということで、高橋綱種が北条綱高である確率は・・・

70%くらいかな?

適当ですみません。


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