下野勢力絵図

1556年(弘治2年)

壬生下総、近年下野中原ヲ掠メ取リ大イニ威ヲ張リテ、
宮家ヲ滅ボサント武ヲ発ス

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おもな勢力解説。


壬生家
 
当主は壬生綱雄。宇都宮城に拠る。綱房は1555年に死去している。芳賀高照も前年に死去している事から、綱雄の単独政権になっている。間違いなく、下野国内で第一の勢力である。芳賀郡に侵攻し、飛山、祖母井、八ツ木などを攻め落とし、芳賀高定を追い詰める。日光山とは協調体制にあり、那須資胤、塩谷由綱とは友好関係。敵対は小山、結城家だが、壬生家の勢いの前では、もはや敵ではない。このまま宇都宮残党を殲滅するのも時間の問題か。


那須家
 当主は那須資胤。1551年に那須高資が暗殺されるが、さしたる混乱も無く、弟の資胤が当主になった。壬生家とは友好関係で、援兵も送っている。勢力図は、1549年の五月坂合戦以来ほとんど変わっていない。この年に、佐竹義昭が不可侵同盟の起請文を持ちかけてきた。これに那須家は内々に承諾する。これは何を意味するものなのか。


宇都宮家
 幼主・伊勢寿丸が真岡にいる。1549年に宇都宮尚綱が討死し、宇都宮城は壬生家支配に。重臣・芳賀高定は伊勢寿丸と共に真岡に退き、再興を目指す。芳賀高定は離間工作を試みるが、宇都宮城は以前壬生家の支配下。年々、壬生家が宇都宮旧領を飲み込み、宇都宮家は窮地に追いやられていく。だが、那須家と不可侵同盟を結んだ佐竹義昭の援を受け、本格的に宇都宮城奪還に動く。


小山家
 当主は小山高朝。宇都宮家が半解体し、国分寺方面に勢力を伸ばす良い機会。室町期に失った所領の回復を、結城家と共に進める。結城家臣・水谷政村が芳賀領南部に侵攻しており、宇都宮残党を追い詰める。


佐野家
 佐野泰綱が当主。佐野はたいへん悠長で、この頃も安定期である。特に目立った動きは無し。だが、公方方として1546年の河越合戦に参加している。足利の長尾もそうだが、佐野家は下野というより、足利公方や関東中枢の方に視点があるようだ。しかし、北方の領土が少々手薄である。鹿沼や粟野方面は、実力をつけてきた壬生や皆川に併呑されていく危険がある。


塩谷家
 宇都宮旧臣である塩谷由綱は、父・孝綱の代からたびたび宇都宮家に反抗し、那須寄りの行動も見せていた。だが、それは孝綱の遺志であって、現当主・由綱の意思であるかは疑問である。よって宇都宮家が散らばった当時は、那須側でも壬生側でもなく、宇都宮旧臣でもなく、ただ浮いた存在という意味で上記の勢力図にした。宇都宮勢を攻める壬生家からの援軍要請には応えている。


皆川家
 皆川俊宗が当主。宇都宮家の勢力が弱まり、壬生と友好を結んでいれば、脅威は無い。徐々に版図を広げ、力をつけていく。

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