下野勢力図


1566年(永禄9年)

上那須衆、佐竹勢、カラス山ニ出陣ス
資胤、大軍東義堅ヲ治武内山ニテ迎ヘ討ツ

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おもな勢力解説。


宇都宮家
 
当主は宇都宮広綱。那須家が分裂し、佐竹家に組している。盟友佐竹家が上那須衆の謀叛に協力していることから、宇都宮家も兵を出す。ちなみに、この年の5月に北条家に人質を差し出している。1564年に北条家が北武蔵を抑えると、反北条派としての立場が難しくなった。同じく小田氏治、結城晴朝、小山秀綱らも人質を出している。


那須家
 当主は那須資胤。1564年から上那須衆が佐竹家に内応し、資胤が大関高増の白旗城を攻撃し、前面対決に至る。下那須衆は宗家に付くことで一致していたが、主力であった大田原三兄弟や伊王野家などが叛し、那須宗家の戦力は約半分となっている。さらに佐竹家、宇都宮家の援軍もあり、兵力差は歴然である。しかし、これまで数度戦っているが、いずれも見事に撃退し一歩も譲らない。驚くべき那須家の底力である。この年、宿敵・佐竹義重は東義堅に兵5000を与え烏山に侵攻させた。千本城は落城寸前。資胤は治武内山に陣を敷き、佐竹軍を迎え撃つ。勝敗はいかに。


上那須衆
 盟主は大関高増。佐竹家に協力を依頼している。佐竹義尚を那須宗家の当主に奉じて、那須資胤に叛旗を翻した。佐竹家はこれを機に那須家を乗っ取ろうとしている。勢力図を見ると領地は大きいが、すべての者が謀叛に加担しているわけでなく、大関家中でも那須家に付いた者もいる。高増側についている家は、大田原家、伊王野家、芦野家など。福原家と金丸家は分裂した。何度も資胤に戦を挑むが、激戦の末、撃退されている。佐竹勢の大援軍を受け、此度こそ那須宗家に一矢報いるか。


小山家
 当主は小山秀綱。高朝は隠居。上杉謙信の関東越山以後、苦労が絶えない。小田原攻め後、日和見な態度を示したため、1563年に上杉勢に攻められ降伏。1564年には北条氏政に攻められ小山城を脱走。1565年に謙信が越山すると援助を受けて小山城を取り返すが、帰陣すると北条に寝返った。この年は下野諸氏同様、北条家に人質を差し出している。実弟の結城晴朝も同じく苦慮しているが、お互いに方針の行き違いが生じている。徐々に小山、結城両家の関係が薄れてきた。


皆川家
 当主は皆川俊宗。北条家の傘下である。ここ数年、積極的な軍事活動を行い、1563年に川連城(佐野領)、1564年に榎本城(小山領)などを次々と落とし所領を拡大。急激に伸張してきた北条家の後ろ盾をいただき、さらなる躍進なるか。


佐野家
 当主は佐野昌綱。唐沢山城は堅固で落城は免れたが、上杉輝虎の執拗な攻撃により服従している。そのため、北条家に攻撃されるが、これもなんとか凌いでいる状況だ。しかし、周辺の領地は北条方の皆川勢に攻められ、削られている。戦に追われ、領国経営は非常に困難である。



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