南光坊天海は


宇都宮家の血筋か





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・天海の出自は?

 不本意な事に、当サイトとしては異例のビッグネームを出してしまった。

 南光坊天海である。


 天海は江戸時代、徳川家康の側近として活躍した名僧で、天海大僧正、慈眼大師として、あまりにも有名である。しかし、その出自と前半生は今まで謎であった。昨今、研究が進んで色々な説も飛び交う中、おぼろげながらもその半生が見えてきたようだ。

 その中で、天海の下野国に関する面白い仮説があるのだ。

 戦国時代初期、宇都宮家中興の祖である宇都宮成綱の娘は、古河公方の足利高基(1485年〜1535年)に嫁いだ。足利高基と成綱娘の間に生まれた男児こそ、天海なのである。
 というのは「下野国誌」や「宇都宮正統系図」の宇都宮系図による。宇都宮成綱の「女子」の項に次のようにある。


「古河公方左馬頭渡高基ノ室、左兵衛督晴氏及宮原左馬頭晴直、天海大僧正等之母、享禄3年(1530年)庚寅107日、天海誕生而後逝去」



 これによれば、古河公方・足利高基の室(宇都宮成綱娘)は、天海を生んだのちに逝去したという。
 最近の、天海の出自は芦名盛高の一族で(一説に盛氏の一族)、会津高田の出身とされている。芦名支族とも。
 南光坊天海の出自は多数あり、どれもこれも確証を得られるものではない。今回取り上げた宇都宮家の血筋説も、ほんの一編に過ぎないが、比較的可能性の高い説として取り上げる。

 間違っても、ありもしない新説を取り上げて無意味に騒いでいる歴史番組とは違う。


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・天海について研究されている書籍。

 きっかけは、書籍「名門下野宇都宮家二十二代記」島遼伍著。の宇都宮忠綱の項で天海が紹介されていることによる。宇都宮成綱の娘が古河公方・足利高基に嫁ぎ、その子に天海がいるという説である。
 これは下野国誌の宇都宮系図に記されている。

 天海の所業は、「大僧正天海」という須藤南翠著の書籍の「附録 考異」に詳しくある。同書は大正9年(1920年)に記されたもので、天海の事績をあらゆる史料に基づいて研究した書籍。これを現代語訳したものが「閾ペディアことのは 大僧正天海考異 現代語訳・編集:松永秀明」にある。
 
 それによれば、同書にも天海は足利高基の子という説(宇都宮家の血筋説)がある。生誕年没年説で
12説もあるらしく、須藤南翠の研究意欲には頭が下がる。
 その説の中で当サイトでは、宇都宮家の血筋という説だけを捉えて紹介する。「閾ペディアことのは 大僧正天海考異 現代語訳・編集:松永秀明」からも一部引用させていただく。

 各種宇都宮系図には、宇都宮正綱の娘が天海を生んだとあり、また宇都宮成綱の娘が生んだともされている。嫁いだ先が足利政氏という記述もあり、定まっていないという。

 そして、「下野国誌」の宇都宮系図では宇都宮成綱の娘が足利高基に嫁ぎ、天海を生んだという説も同書にある。史実を探れば、足利高基に嫁いだのは、宇都宮成綱娘である事は周知の事実である。
 しかし、「続群書類従」の系図によれば、足利高基の次男にあたる人物は岳雲で甘棠院の2世住職となった人物なので、「下野国誌」の足利高基の子が天海という説は誤りだとしている。
 足利系図の原本はただ単に「僧」とだけ書いてあったのを、後人が天海説と混同して「下野国誌」の注記を記したのではないかとの推測を載せる。



 また、小槻孝亮の記した日記「孝亮宿禰日次記」には寛永9年(1632年)の時点で97歳とあるから、誕生年は天文5年(1536)、享年108歳となる。須藤南翠はこの「孝亮宿禰日次記」に信用を置いている。

 というように、須藤南翠は史料のみを見て「下野国誌」の説を否定している。


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・ぶっちゃけ言って。

 ここからは完全に私見である。
 「続群書類従」は江戸後期になってから作られたもので、信憑性は不明である。それをいえば「下野国誌」は、その少しあとの編纂なので、これも信憑性は…と言っていてはキリが無いのでやめる。
 系図に記されない人物など大勢おり、天海の幼少時代がうやむやになって系図に記されていない可能性もある。
 「続群書類従」にあるのは、足利高基の子は晴氏、岳雲、晴直である。高基の次男に「甘棠院2世住職・岳雲」がいることは認めよう。これは後代の記録からしても史実である。
 しかし、「下野国誌」は天海を次男と決め付けているわけでなく、「晴氏、晴直、天海」と書いてある。「等」という事は、晴氏、岳雲、晴直の他にも子がいたと思ってもよい…だろうか。よって、天海は足利高基の子という可能性は十分にありうる。
 よって、「下野国誌」に見える天海の箇所は、岳雲であろうという推測は当てにならない。ここでは、足利高基の子に岳雲もいて、さらに天海もいたと推測する。

 また、「孝亮宿禰日次記」は信頼性が高い事は周知のことである。京の小槻孝亮の記した日記で、当時からそれほど日を経ていない程度で書かれていると思われ、ほとんど信頼してよい。
 当サイトでも、壬生家の項でよく引き合いに出している。壬生義雄と、その娘、壬生旧臣の項で信頼できる優良な史料として紹介してある。
 …が、「孝亮宿禰日次記」は信頼してよいものの、信頼できないものがある。


 それは天海の記憶である。



 小槻孝亮が天海の年齢を記した時は、天海は97歳。自身の年齢を間違って(もしくは忘れたので適当に)答えた可能性は無いだろうかと心配してしまう。まさか、痴呆症?などと失礼な事は言えないが…。

 天海は生前、氏姓を語らずに、周囲の人も出身を知らなかったという。これでは全く分からないではないか。出自を明かすことを頑なに拒んでいたかのようだ。


 さいごに、天海が足利高基の子として成立たない理由がある。
 足利高基は天文4年(1535年)に死去している。天海母(足利高基室、宇都宮成綱娘)の没年は享禄3年(1530年)である。しかし、通説の天海生誕年は天文5年(1536)である。父母ともにいないのに、天海が生まれるはずがないのである。
 天海は宇都宮家の血筋という説を成り立たせるには、今は天海の記憶が間違っていたという事に賭けるしかないと思う。よって、小槻孝亮は聞いたままを正しく日記に書いたが、それは実は間違った天海の答えだったと推測するしかない。


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・宇都宮の出自・有力説の列挙。

 青年時代の天文19年頃(1550年頃)に宇都宮の粉河寺(天台宗)にて修行していた伝承や、徳川幕府からの命令といっても日光山に入って何の混乱も無しに座主に就任したことなどから、宇都宮家の血筋の可能性は非常に高い。
 もし、天海が宇都宮家の血筋といわなくても、古河公方足利高基の末裔とすれば、その威力は関東において絶大であり、日光山も比較的すんなり迎え入れると思われる。
 また、天海の使用した紋も丸に両二ツ引きで、足利家の紋である。


 家康が自身の本姓を源氏に改ざんするために、全国の源氏の末裔は同族だからと言って手厚く保護していた例もある。

 と、都合の良いことだけ並べてみたが、いかがだろうか。

 私の先祖は江戸時代、天海大僧正の弟子・公海大僧正に仕えたという記録があるので、公海には少し親近感があった。公海は天海の死後、日光座主になった名僧である。
 しかし、天海と宇都宮、古河公方らの関わりを調べると、より身近に感じることができた。事実関係は別として、面白い仮説にめぐり会えた。









ということで、天海の記憶の信憑性事態がです。


こんな結論でよいのだろうか。いや、よくない(反語)。



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