館坂城 たてさかじょう

(栃木県益子町北中)

 

 

 

館坂城は益子町北中にある。益子町の中心部から少し北に位置する。

 

地元では主に館坂城と呼ばれているらしいが、この他に、館宮坂城、石岡城、中村城。よくもこんなに付けましたね。

 

館坂城は、城(館)に登る坂がある事から城名となった。

館宮坂は、坂に神社があったからだという。

石岡は付近の地名。

中村も付近の地名。

 

 

 城内には古墳がたくさんあります。古墳のデコボコや堀ラインも利用して作った城と考えられます。

 

 

 

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館坂城(中村城)縄張図

(栃木県益子町北中字館坂)

 

 訪問は2018年〜2019年。むかし描いた図面。

敷地がとても広くて遺構がハッキリしない箇所も多く、描くのに苦労しました。

 

 北側にある「入定塚古墳」は城の遺構ではないです。段々や堀がありますが、これは古墳に関する遺構。とても大きい古墳でした。

 

 

 

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・城の構造について

 

縄張図を見ると、城の守りは北半に集中している事が分かる。

 

城内は広く、急拵えで作ったように見える。南はどこまでが城の範囲か分からない箇所もある。

ゆえに陣城か?ともいわれている。

 

堀は長大であるが、どうにも浅い部分が多い。そして、どこが主郭がよく分からない。おそらく、中心あたりの曲輪だと思う。

 

土橋になっている所が、北から中心にかけて何ヵ所か。

 

北東部に横矢あり。

 

西には下からの作業道か虎口か?2か所に工夫されている部分がある。

 

 

 

 館坂城の南側は耕作で改変されているが、それにしても遺構があまり残っていない。

 

それに対して、北と西側方面は堀がクッキリ残っている。切岸の高低差もある。

東の端にも土塁と堀がありますが、これは尾根筋を切ったもので当然といえば当然。あってしかるべきか。

 

全体的に見ると、七井の方面に警戒が向けられている。

 

 

 

 

まだ縄張図を描き始めて数年の頃でしたので、慣れない中で描きましたが、最近流行のCS立体図と比べると、まあ、大体合っているかな…、と。

蛇足ながら、南側の段々畑まで描いてしまったよ。

 

少しズレてる部分があるが、あの頃にしてはうまく描けたかな。

 

 

 

 

 

・館坂城は何の目的で使用されたのか

 

「芳賀の文化財」によれば、城主や歴史などについては不明とある。

古書によると石岡伊賀守、伝承によると大沢和泉守が在城したというが、本当に実在したか分からない。大沢の領地は大きかったなどと伝わるが分からない。いたとしても、居館程度のものだろう。現在みられる館坂城の城域は、一領主が持つにはあまりに広すぎる。

 

 さきほど、七井方面に警戒が向いていると書きました。

 

考えられるのが、天正年間に益子家が、矢嶋城の七井綱代を攻め滅ぼしたときである。

 

館坂城内は広いので大人数の益子兵を置ける。そして、北側の先端までは城ではないので、館坂城内の動きは、七井家の矢嶋城からは全く見えずに合戦の準備ができる。いや、西の端が少し見えるか?

 

 七井戦後に加藤家が七井を任されている事から考えると、館坂城は益子家が七井綱代を攻めた時の陣城で、家老の加藤家が指揮したと考えられる。築城(大改修か)は加藤家であろう。

 

 

益子家重臣の加藤家はこの地に縁深い。

加藤家は中村城(館坂城)に在城したと伝わる。のちに、益子家が七井家を滅ぼしたのちに七井を任された。また、益子家の舎弟が七井勝忠と名乗って七井城に入ったときは補佐役として勝忠に従っている。つまり、若殿に付けられた“爺役”である。

また、加藤家の菩提寺は大沢の圓通寺である。加藤家の分家も北中に多い。中村から七井あたりは加藤家に縁深い地域である事が分かる。

 

この頃は、益子家中において有力で、しかも頼りになる家臣だった。

 

このあと加藤家は暴走して、益子家はとんでもない事になるのだが…。

 

 

 あとは、

 益子家が宇都宮家に討伐されたとき

 …が考えられるが、事実も分からないし、遺構を見ても判断できませんね。

 

 

 

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・まとめ

 

 

館坂城は益子重臣の加藤家が関係している城である。

 

七井を攻めるときに使用したと思われる。非常に広範囲だが、すべてを整地できているわけではない。七井方面を警戒しただけにとどまる部分があり、急拵えの陣城ともいえる。七井を支配下におさめた後はあまり改修されなかったのだろう。

 

 その後の加藤家の居住地は七井方面に移ったのか、それとも中村に留まったのか不明だが、分家の名も見ると中村周辺にも影響力を及ぼしている。最終的に七井に居を移した。

 

そして、益子家の中でこのような勢力を維持したまま、岩瀬地方の富谷城合戦という暴走行為に行きついてしまった。歯止めが利かない状況になるまで、行く所まで行ってしまった。

 

 

 

 益子家重臣・加藤家の伝承によれば中村城主という。中村というのは、館坂の少し北西あたりかと推測されていて、館坂城の周辺も中村という。この辺りに館があったとされるが、詳細は分からない。

昔の歴史家によるお得意の推測かもしれない。この手の推測城は、巷にたくさんあって困ったものだ。

 

 

しかしこれが本当だとすれば、館坂城が山上の城、もしくは陣城で、麓の館が加藤家の居館となるだろうか。

そんな事を妄想しても意味がないので、現在残る遺構から考えると…。

 

益子家の城で、警戒の方向は七井方面を向いている。七井家を攻めたときに使用した城だと考えられる。

 

 

 

 

 

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