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高徳城 たかとくじょう 栃木県日光市高徳(旧・藤原町高徳)
高徳城は日光市の高徳にある。鬼怒川入口の山上に築かれている。
訪れたのは2月。 寒い。寒すぎる!藤原町の寒さはヤバい!北風が突風のように襲ってくる。 城の北側に行くと北風に吹き飛ばされそう。
城の南側に行くと風は無く、嘘のように温暖です。 しかし、マダニ!最悪。 2月なのにマダニがたくさん!
ここは素早く見て退散しないといけません。
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高徳城 縄張図栃木県日光市高徳
字小入(こいり)にある。 保寧山高徳寺の背後の山を登って城域に入る。
この詳細は、サイト「栃木県の中世城館」を運営するmasaki様が縄張図を示した事で、遺構の構造と所在が明らかになった。 また、余湖くんのホームページ(管理人・余湖様)でも紹介されている。
尾根を登ると、城の少し上のピーク470m地点に出る。そこから少し下ると高徳城内に入る。最初の堀切(城背後の堀切)がお出迎え。
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城の構造について
高徳城は全体的に未成型の曲輪が多い。 しっかりした造成などせずに急拵えの駐屯地だったのだろうか。 しかし、侵攻ルートや防御の重点はおさえてある。
背後の山との境を堀切で区切る。ここが最大の遺構だろうか。両サイドは竪堀になって下る。主郭とおぼしき場所は自然地形に近いが、なんとなく人が駐屯できる中心地のような地形と広さを持っている。はっきりしない段差である。 そこから尾根が南東と南西に下っているが、どちらもはっきりしない段々曲輪が続いている。
南東の尾根筋は、段々に下り、堀は2か所あり。岩場の箇所で城域は終了。 こちらの尾根は暖かかったのでマダニがたくさんいました。 真冬なのに。
南西の尾根は、これまたなんとなく段々があって、中腹に縦土塁を伴った曲輪がある。この、ど真ん中に土塁があるって、どんな役目なんでしょうか。 下から攻めてくる尾根筋が二つある。どちらから敵が来ても、土塁を盾に戦えるのだろうか。 大竪堀から登って来る敵も、土塁上にいれば防げる。また、素早く動いて、上の曲輪に移動できる。土塁はそんな使い方だろうか。
西側の大竪堀や曲輪などは侵攻ルートと考えられる。こちらは下っていないが、登ってこれるのだろうか。北風が強すぎて、よく見ませんでしたよ。 でも、麓は崖崩れの補修工事中で、どんでもない斜面です。こちらから攻め入ったのかな。
そこから北側に通路を行くと、竪堀があって上の曲輪に攻め上る。そんな侵攻ルートだろうか。
尾根上に堀など少なく防御に乏しい感はあるものの一応防御施設はある。西側の中腹あたりに遺構が多い。 足りていたり、足りなかったり…。突貫工事によるものか。
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まとめ
高徳城主は宇都宮家臣の高徳仙左衛門という。他に高徳越後守、高徳淡路守らもいる。 高徳仙左衛門が高徳城主、領主だったという伝承は地元にあり。ご子孫は高徳半左衛門と名乗り、江戸時代に名主をつとめた。のちに苗字を星さんに替えて現在に至るという。 結城家臣にも高徳仙左衛門がいるが、同姓同名の別人である。
麓の高徳寺は城と関係があるか不明。 昔はもっと西の道路脇にあったが、昭和になって現在地に移ってきたという。
高徳城の麓には、菅原神社、熊野神社などがある。城のある山を「くまんさま」というが、これは麓の熊野神社の裏山という意味であろう。 高徳城に登ると右手にある沢で、「米の沢」という水量の少ない沢に関する伝承がある。合戦になると高徳仙左衛門は米の沢に白米を流し、城に水が少ない事を隠して、敵に城が堅固であることを誇示していたという。全国的によく聞く白米城伝説の一種だろう。
高徳城の記載は、書籍によって所在や形態が違う。
書籍「日本城郭大系4」では平城で、方50間ほどの土塁と空堀があり(栃木縣県史第七巻)、字小入から字天神前にかけてあったという。高徳城の南の字名は天神前である。山の麓に菅原神社が祀られているゆえの字名だが、これは高徳城の館が平地にあったという事だろうか。耕地化で消滅したという。麓は少し高台で合沢などの合流地点なので館を造る要素が揃っていると言えなくもないが。推測ばかりで断定ができない。 同じくここに江戸時代の高徳陣屋のことも書かれているが、陣屋は天神前とは全く別の場所にある。城郭大系の記述は、高徳陣屋と高徳城(平城)を混同していると思われる。
また、書籍「栃木県の中世城館跡」によると、要害形態で字天神前にあるという。要害で簡素な造りというので、これが山上の高徳城を指しているのであろう。 実は高徳城の山は、字小入(こいり)と字天神前(てんじんまえ)のどちらから見上げても同じ山である。私の縄張り図を見ていただくとわかるように、小入の山でも、天神前の山でも、どちらも同じ山なのじゃ。
伝承によると、上杉家のために落城したと伝わるが、いつの時代なのか不明である。関ヶ原のときだろうか。ここまで会津の上杉家が来たのだろうか。わからない。上杉家に組した者が城を落としたのか?あくまで伝承である。
また、別の伝承もある。関ヶ原合戦時、上杉家は上三依の鶴ヶ渕城を改修して備えたが、先兵を高徳のあたりまで出して徳川勢を牽制したという。これに高徳城が関わった可能性があるが、あくまで伝承です。
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