深程城(諏訪山城) (栃木県鹿沼市深程)
深程城は鹿沼市深程(旧・粟野町深程)にある。皆さんにとっては諏訪山城というほうが馴染み深いかもしれない。城跡の山は諏訪明神があったので諏訪山と呼ばれていた。無量寿院の裏あたりに諏訪明神があったという。 地元では有名な城跡ではあるが、城の構造が素晴らしい事から近年有名になりつつある。書籍や各サイト様にたくさん掲載されている。
現在見られる遺構は戦国時代のものとされるが、深程城の始まりはもっと前の時代と伝えられる。
古い時代から存在した深程城(諏訪山城)の中心部は、ゴルフ場・八洲カントリークラブの建設によって破壊されてしまった。現在見られる諏訪山城の西側にあった遺構で、岩盤を削った堀切の西の先である。 遺構はほんの少しだけ残るが、ほとんど無い状態。残念ながら、曲輪や西の堀切などは完全に消滅している。 この事は城郭研究者の中であまり広く知られていない。
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古の深程城
深程城(諏訪山城)の築城は通説では室町時代末期頃とされているが、史料の中には南北朝時代の築城と伝えるものもある。実際には、少なくとも南北朝時代から室町初期頃には存在していた。 伝承などによると、はじめは粟野城の出城として平野家によって築城されたという。粟野城主であった平野家の出城として…だそうです。あくまで伝承です。
メインの場所はゴルフ場建設によって破壊されてしまった西側の部分である。これは、現在の諏訪山本城からある程度独立して機能していた。 そして、その北東上にある山上の細尾根の砦も古い遺構だそうです。これは現在の諏訪山城主郭の遺構あたりです。 これらが初期の深程城(諏訪山城)と推測される。
やがて戦国時代後期になると防御意識が城の東側に移行する。 連続虎口などは戦国時代後期の改修であろう。また、東側の大規模な横堀や虎口も戦国時代後期の増設か大改修によるものと考えられる。 その後、昔はメイン部分であった西側(ゴルフ場建設で消滅)は戦国時代にはほとんど使用されなくなった。
では、初期の深程城(諏訪山城)を。
深程城(諏訪山城)初期の縄張図鹿沼市深程(旧・粟野町)
発掘調査報告書によると「諏訪山城西曲輪」と命名されている。その役割と遺構の形状を可能な限り復元してみようと思う。
諏訪山城西曲輪の構造現存する深程城(諏訪山城)の西側に位置し、基本的に単郭の曲輪である。現存する遺構は東の端っこの堀切のみである。 東は箱堀(堀底幅2m)の堀切一条で区切る。また、西側は二重堀となり、箱堀(堀底幅1.6m)、さらに西の堀切で、西の山と区切られていた。 曲輪内は全体的に弓なりに曲がった形で、南東側の斜面は自然地形で落ちている。曲輪内に岩座があった。北側に帯曲輪があり、その下に通路があった。 発掘調査によると、帯曲輪にはジグザグの柵がめぐらされ、東方面に門を備えた坂虎口があったという。
西の二重堀切は、城側(東)の一つはほとんど残存していたが一部を道路で広げられていた。山側(西)のもう一つの堀切は小規模であった。その西は自然地形の山で、城よりも高所となっている。現在はゴルフ場内で猪除けの溝あり。
西曲輪の西堀切は二重になっていた。発掘調査前に一つは道路により若干削られていた。(※ この堀切は大体残り、その隣が道路で削られていた。)箱堀で、底幅1.5〜1.6m。堆積土は1mほど積もっていた。 道路になっていたのは、山林や畑での仕事のためもあるだろう。もう一つの堀切は片側に竪堀を伴い、小規模に残っていた。でも、現在はこの辺りはすべて破壊済。ゴルフコースの通路となっている。
東堀切は現在も残る。これは現在、諏訪山城現存遺構の西端となっている。 東堀切も近年まで切通しの道として使用されており、堀切内の土砂の堆積が50センチから60センチほどしか無かったと発掘調査報告書にある。発掘調査のため、中央に幅1メートルのベルトを残して両側が遺構部分まで発掘された。現在はトレンチの埋め戻し忘れでデコボコしてます。 この堀切は岩盤を削った堀切で、幅6メートル、底幅は2メートルの箱堀であった。箱堀は栃木県内では珍しいという。
曲輪内で建造物は5棟検出している。そのうち中心的な建物は東を向き、明らかに岩座方向を向いていたという。 岩座があったとか、戦国時代はほとんど使用されていないというが、なかなか面白い構造をしていた。
発掘調査の見解では、先述と少々かぶるが、発掘調査の見解をご紹介します。
本来は初期の城の中心部が諏訪山城の西側の位置にあったという。ここはゴルフ場建設によって消滅した。発掘された遺物の年代特定によると、その時代は南北朝時代から室町時代初期(14〜15世紀)である。深程城(諏訪山城)が最も活躍したと思われる16世紀後期の遺物は全く発掘されなかったという。
そして、北東の細尾根上には見張りの砦(現在みられる諏訪山城の主郭周辺)も築いたのだと推測されている。こちらの山上遺構は古い形態で堀幅が狭いという。しかし、発掘調査をしないと詳しい事は分からない。 東の中腹の遺構とは全然違うという。 現在の諏訪山城の東側にある遺構は戦国時代に拡張か改修したものとされる。
西曲輪には岩座があり、検出された建造物跡は岩座方向を向いて建てられていた。これは宗教的な施設があったのだろうという見解が記してある。
以上が発掘調査の簡単な見解である。
※ここで注意。 発掘調査は広範囲にやるが全部ではない。全体的についばんで堀った部分の調査だけです。なので、発掘調査をした場所からは16世紀後期の遺物が出なかったというだけで、もしかしたら掘っていない場所には遺物が眠っていた可能性もあります。当時の調査では出なかっただけという事です。 城の西側も山続きですから、戦国時代に全く使用しなかったというのはおかしいです。少しは防御を張っていたと思われます。少しは。
岩座について以上の発掘調査をふまえると疑問が生じる。 戦国時代にほとんど使用されなくなったこの場所に、なぜ初期の深程城が築城されたのだろうか。 発掘調査によると、岩座が発見されている。東堀切から34m離れた所にあり、範囲は4m×4mほどでゴツゴツした凄い岩が! 調査報告書では、信仰や宗教施設のような役割をしていた曲輪と推測している。日光関連なのか、信仰心なのか、時折りこのような岩座がある。信仰心の強い武士が城内に宗教施設を設けたのだろうか。 確かに、そのような考え方もあり得る。 深程城の東は字「朝日」。これは城の東側に日が昇るために付けられた字名と思われます。諏訪山城西曲輪から東を見て岩座の向こうに朝日が昇るのを見たのかな。信仰関連のための曲輪だったのだろうか。岩座との関連は、う〜む、分かりません。
深程と久野を結ぶ峠道山奥と思われがちな西曲輪の位置だが、この周辺には峠道の切通しがあった。ゆえに城を設けて監視したとも考えられる。 久野と深程は、地形的に見ると山で隔てられている。現在の車道は東側を大きく迂回して行き来する地域である。 しかし、昔の両郷は峠道で往来し、隣接地域同然だったのである。現代に至っては清洲村のうちであった。特に、北東方面の崖下に小倉川が流れている場所は、現在は立派な車道が通るが、昔はほとんど通行が無かったと考えられる。すると西の山中にある峠道がメインと考えられる。 昔の人々は山の向こうへ行く場合、山を迂回するよりも直線的に進んで距離を縮める事を優先する。そのため、山の峠道を開発して通行する事が自然であった。 間に山があっても意識は同地域なのである。
西曲輪周辺には、久野と深程を結ぶ峠道が数本あった。少なくとも西曲輪を囲む2筋の谷はある。峠道ルートは、北に行けばゴルフ場の事務所がある台地の西に道筋が繋がっていた。南に行けば貯水池あたりに出る。
時代が経つとルートが少々変わる。室町時代初期までは西曲輪で南北の通行を規制、山上の砦で遠見の監視をしていた。やがて戦国時代になると、別の北からの入口、東からの入口に変わった。
戦国時代は、諏訪山城の城将たちの菩提寺・長榮寺が北西の方面にあるので、城の北側にも入口があった事が推測される。山上の堀切は北側の尾根を守る防御線である。この尾根を下ると、ゴルフ場の事務所がある台地あたりに出る。この辺りからも北方面の出入り口があったと推測する。 また、諏訪山の北に砦も存在していた事が近年有名になりつつある。この遺構がある事から、戦国時代になっても北側の出入り口があった事が推測される。
戦国時代の防御メインは東側だが、北側からの出入りもあった事が分かる。
構造の疑問伝承では粟野城の出城として深程城(諏訪山城)が築かれたという。 諏訪山城西曲輪の遺構を見ると、警戒が北側に向けられている。 回り込むような通路、帯曲輪にはジグザグの柵が建ち、北東から入る坂虎口もあった。 粟野城の方面に対して警戒しているような遺構に見えてしまう。粟野城の出城なら南や東側を警戒しているのでは?と思い、疑問を感じました。 しかし、曲輪の南側は自然地形のダラン地形。峠道を監視していたのなら、南北どちらもしっかり防御をしないと。…と思ってしまう。
なぜだろう。
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まとめ発掘調査されたのは西曲輪のみで、深程城(諏訪山城)の本城などは発掘されていない。調査されれば使用年代や変遷などが分かるが、個人の土地もあるので難しいでしょう。
しかし、開発などで史跡が消えてしまうのは残念だ。深程城(諏訪山城)の全体が残っていれば、防御線や入口など、現存遺構だけでは分からなかった本来の機能が分かるのに…。
世の中に現存している史跡よ、どうか残ってください。 無駄なゴルフ場建設、ソーラーパネルの設置、山を切り開いての分譲、施設や道路建設などなど…。できればやめてくれ。 地主さんの意志が最優先ですから仕方ありませんが、どうにか史跡が残ってくれればなぁと思います。
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