あの蒼天に誓ふ

解説





注意点!

小説「あの蒼天に誓ふ」は、面白さを追求しています。そのため、架空の人物や、史実とは違った箇所があります。その場合はそのつど言うと思いますが、くれぐれも史実と混同しないでください。




主人公・芳賀高定の人物像

益子勝宗の三男に生まれる。一族に、温和な祖父の益子正光、伯父で益子家当主・益子勝家がいる。父の勝宗は傍流である。

紀十郎は、気性の激しい父に似ず、正義感が強い。幼い頃は自由奔放な性格で。どこにでもいるような元気な子供だ。

1526年、猿山合戦で宇都宮興綱が宇都宮城を占拠してから、激しく興綱に憎悪感を覚えたが、その嫡子・尚綱に出仕させられる。はじめは嫌がっていたが、次第にその優しい若武者を尊敬していく。

紀十郎は元服して、益子宗之と名乗る。

暗い動乱の中で、父たちの恐ろしい陰険な所業を見てきた宗之は、優しさ、従順さ、強さが必要なことをこの時期に悟る。だが、時に怒ると、父のような激しい一面も見られる。

元来、まじめな性格で、勉学に励む。物事を緻密に検分し、迅速対処が身についてくる。年が重なるに連れ、次第におとなしくなってゆく。というより、評定に出席するようになり、重臣と面向かい、質素謙虚な態度が身に付いた。

緻密な謀略や、戦略的な大局観は、鹿沼の壬生綱房に多大な影響をうけた。宗之が元服した頃、綱房は宮家に仕え、また時には反乱を起こしたから、鮮明に映ったろう。そして、綱房という男の凄まじさを間近で見て、宗之は子供ながらに彼を恐れた。

宗之が見た、野心の目を持った巨人・綱房は評定の席でも宮家家臣よりもはるかの戦術を事細かに述べ、それにも増して戦略方針案はさらに脱帽するものばかりであった。宗之はこの巨人を見て大きく育ってゆく。

・・・だが、野心だけは芽生えなかった。

それは、芳賀家を継ぎ、宇都宮家の大黒柱として宇都宮城奪還や、芳賀高継に家督を譲ったこと、権力は振るわず、隠居地を少し貰い、影で宮家を支えたことなどから明らかである。


 高定は永禄年間に小貫に少領を貰い、機山道鑑と名乗りそこで隠居したようです。しっかもこの小貫とは、現・栃木県茂木町で、常陸に近い人里はなれた山奥なのです。とてつもない僻地に隠居したな〜。

しかし、宮家に口も出さず、じっとしていたのでしょうか?宮家はさらなる苦境に立たされていく中で、宇都宮家中が高定の助言を求めてもおかしくないのでは?

壮年期に隠居では、あまりにも無責任な感じがあります。そこで、芳賀家の家督は高継に譲り、高定自身は入道したが、引き続き宮家に協力するようにしました。

 1588年まで生きている記述があるのに、もったいないじゃないですか!あんな忠義の名将を!宝の持ち腐れですよ。だから、本小説では、隠居後も活躍しまぁ〜す。



あらすじ


1526年、猿山合戦のあと、父のとりなしで、宇都宮尚綱に出仕する。

宇都宮で元服。名を益子宗之と改める。

1538年、芳賀高経が謀叛を起こし、宇都宮尚綱に殺されると、宗之に芳賀家を継がせ、以後、忠誠無比、私欲滅却し、その権謀と弁舌で宮家を支えていくのデース。




益子家の人々

益子家は、武家紹介でも述べますが、系図が二つあり、しかもどちらも違う。時には当主の名前まで違います。同じ名前の人でも、生没年も年代も違うし・・・!

そこを見れば、謎の家といってよいでしょう。しかし、そこの出の人を小説にするには、一応の年齢、死没年、続柄などをはっきりとさせねばならないと思い、あらゆる史料を元に、仮説を立て、小説用に系図をつくってみました。あくまで小説用です。信じないでください。

・・・益子正光―勝家(正光長男)―紀一丸

―勝宗(正光次男)―信勝(長男、大関家出仕)

                        ―安宗(次男)=家宗(君島高胤次男)

                            ―宗之(三男、芳賀高定)―高信(小貫)

                   ―勝忠(勝宗五男、七井)


史実では、勝家が長男、正光が次男で1486年に謀叛を起こし、兄・勝家を殺し、益子家督を継いだとあります。もう一つの説に、正光の子に、長男・勝家、次男・勝宗がいて、次男・勝宗が兄・勝家を殺して益子家を乗っ取ったという説もあります。「あの蒼天に誓ふ」では、後者説を取りました。

なんとなく、「清党益子家系図」をモチーフにつくりました。

下野のことをたくさん書いておられる、島遼吾先生の「下野軍記」にも書いてあった、「正光は睡虎の名のごとくおだやかで、宇都宮家に忠節をつくした。対して、謀叛を起こした勝宗は、入道名を顕虎とし、まさに猛る虎のようであった。」という記述をすごく気に入っているからです。

益子勝宗は、気性の激しい、しかも深謀を駆使する野望高き武将にしました。

これが芳賀高定の父です。宮家を生涯支えた高定とは大違いです。その対比が面白く思いました。宮家家臣であるはずの父や、兄・安宗との戦いや葛藤が、宮家を支えねばならない高定を苦しめます。

安宗は長男、次男説がありますが、次男にしました。長男は那須家の大関清増に使えていることにしています。七井勝忠は、次男か五男かですが、五男にしました。芳賀高定の弟という設定です。


死没年は小説の情勢にあわせました。

益子正光・・・1529年死亡、享年90歳。(清党益子系図)

益子勝家・・・1538年死亡(考証)、享年?歳。

益子紀一丸・・1538年死亡(考証)、享年7歳(清党益子系図)

益子勝宗・・・1554年死亡(考証)、享年69歳(考証)


益子安宗・・・1578年死亡、享年68歳(ともに清党益子系図)

七井勝忠・・・1584年死亡、享年?歳

芳賀高定・・・1521〜88年、享年68歳(清党益子系図)

益子勝家の死を1538年にしました。これが勝宗謀叛です。なぜこの時かというと、ちょうど、芳賀高経が謀叛を起こした頃です。1541年説を信じていますが、芳賀高経も同年に、また益子勝宗謀叛も同年にしたほうが謀略めいていて、いいかなと思い、この年にしました。これにも壬生綱房がかかわっています。

勝家が殺されたとした1538年は、清党益子系図では、実は勝宗の死没年です。年号は永正です。これでは勝宗がかなり年取ってから高定が生まれたことになるので、勝宗の生まれ年は1490年と勝手に定めました。

 勝宗死亡年は上記の通りですが、もう一つの系図、益子家系図は、1590年代まで活躍が見られます。(ちなみに、益子家系図の勝宗は1529年に生まれたことになっており、これでは芳賀高定のお父ちゃんはできません)。1593年に死亡で享年65歳です。

 この65歳というのを1490年に足してみると没年は1554年になります。高定が1557年に宇都宮城を奪還する直前に死んでしまいます。・・というのが感動的かなと思い、勝手に死没年を1554年としました。

 それから、君島高胤の次男で、安宗の跡に益子に入った益子家宗なんですが、1589年死亡、享年68歳では、あきらかにおかしいです。なぜなら、家宗父の君島高胤は、1540年に生まれているからです。これは史実とは変えて、若くして戦死したことにします。




高定の付き人


赤埴孫四郎・・・子供の高定に付けられたおっちょこちょいの付き人。

六郎太・・・小説には絶対つき物の、主人公専属の忍者。マジ活躍します。

今のところ、この二人が高定の身の回りを演出する主だった人物です。


二つの系図詳細は、こちら→御家紹介・益子家





宇都宮家の人々

主だった方々だけ紹介します。ほかにもたくさん登場しますが、まずはコレだけ。

宇都宮忠綱・・・1527年死亡、享年31歳

宇都宮興綱・・・1536年死亡、享年65歳

宇都宮尚綱・・・1549年死亡、享年38歳

宇都宮広綱・・・1580年死亡、享年38歳

宇都宮国綱・・・1607年死亡、享年40歳


多功建昌・・・1572年死亡。享年110歳

多功長朝・・・1558年死亡。享年73歳


芳賀高経・・・1541年死亡。享年51歳

芳賀高照・・・1555年死亡。享年35歳

芳賀高継・・・1592年死亡。享年59歳





壬生家の人々

宇都宮の隣に領地を持つ壬生家。

壬生綱房のやってることがけっこう悪どいので、めちゃめちゃ野心高く、謀略家で高定の恐れる存在にしようと思いました。

実際、宮家での身分や、日光山の併合、また、五月女坂合戦のあと宮領を乗っ取り、下野中心部を支配したのですから、そうとうの器量を持っていたと思います。

本小説では、それをさらに深化させ、奇蹟の人・宇都宮成綱亡き後の、下野における最強の覇王に脚色しています。

綱雄は、綱房の能力にかなり劣ります。と言っても普通の凡人でしょうか。まあ普通です。でも、父が名将過ぎたゆえ、父亡き後の立場はかなり苦しいです。大殿だったら・・・という家臣のうわごとを嫌います。まるで、尼子経久亡き後の尼子晴久みたい・・・。大叔父・徳雪斎との対立もあります。壬生義雄は若く、勇猛な武将に書きました。

壬生綱房・・・1555年死亡、享年70歳(壬生家系図)

壬生綱雄・・・1562年死亡、享年55歳

壬生義雄・・・1590年死亡、享年46歳

壬生徳雪斎・1579年死亡、享年75歳くらい





那須家の人々

宇都宮家の北に10万石ほどの領地を持つ名族那須家。小説のなかでは当主は影が薄いかもしれません那須家臣とのやりとりが多いと思われるので。葉が高定は、大田原資清と少々お約束の名将ぶりを発揮して、のちに大関高増と争っていきます。宇都宮家は、那須家と北条家の対処でかなり苦慮します。

那須高資・・・1551年死亡。享年20代後半。

大田原資清・1560年死亡。享年75歳。

大関高増・・・1598年死亡。享年72歳。

佐久山義隆・1563年死亡。享年?歳。検討中





結城家、小山家の人々

下総に所領を持つ、これまた名族結城家です。めんどうなので、小山家も一緒に説明します(こういう事やるから、某ゲームで結城と小山が一緒の城にいるんですかね?まあいいや)。

結城政朝はカッチョよく書きました。政勝もです。晴朝はまだわかりません。

水谷正村は、芳賀高定と同じ生まれとしのようなのです。お互い領地が隣接し、よく戦のできるよう仕立て、戦のできる武人に書きました。

小山高朝も立派な猛将です。

ただ、高朝が継ぐ前の小山政長と成長はちょっと器量は抑えて書きました。

 結城政朝を立てるためです。実際あの二人の所業はよくわかっていないので、普通の人として描きました。

しかし、小山重臣・岩上越前は没落する小山家の隆盛を夢見、奔走する武将にしました。ライバル視する芳賀高定にもつっかかってきます。




佐竹家

宇都宮家に対し、なにかと良くしてくれるイメージの佐竹家ですが、それは1557年の宇都宮城奪還以降のことであって、それまではなんともなかったです。むしろ戦国初期の宇都宮家、佐竹家の関係は最悪で、宇都宮成綱の時、佐竹家は奥州勢を誘って、宮領に攻め入るほどでした。結果、成綱は撃退し、佐竹家は壊滅的な打撃をこうむります。

戦国中期、佐竹義昭の娘が宇都宮広綱に輿入れしてから、両家の関係はずっと同盟関係になります。対北条という共通の軍事同盟もあり、ほとんど行動をともにしていたといってもいいでしょう。うるさい壬生家に対し、下野に遠征にも着てくれました。一緒に那須家も攻めました。

秀吉の時の小田原参陣の時も、書状をやり取りして、お互い行く日を言って一緒でした。そう、両家は大の仲良しなのです。




宿敵・北条家の名将たち

安土桃山時代のイメージではあまりいませんが、高定が活躍していた頃はたくさんいました。北条家は、早雲、氏綱が基盤を作り、氏康の時が人材、勢い共に最強だったと思います。氏政のときは、もう行き詰まっていたのでしょう。北条家の体制が、当主の能力に左右されないといっても、統制範囲は関東が精一杯です。

 名将には、北条氏康、北条綱成、大道寺盛昌、富田直勝、多目氏総、遠山景綱、垪和氏続、笠原美作守、風魔小太郎、諏訪部定勝、山角定勝を挙げます。

 北条氏康、北条綱成、風魔小太郎は言うに及ばず、他を紹介します。

大道寺盛昌・・北条家の側近。民政、外交、など多岐にわたり活躍

富田直勝・・・猛将。五色だんだらの白備えを率いる。最前線に配備

多目氏総・・・北条家軍師。五色だんだらの黒備え。知謀の士

遠山景綱・・・北条家一の忠臣。白備え。国府台合戦で惜しくも討死

垪和氏続・・・松田、大道寺、遠山と並ぶ重臣。駿河方面を任される

笠原美作守・・北条五備えの青備え。歴戦の猛将。

諏訪部定勝・・大酒のみだが大軍も恐れぬ大器の猛将。北条氏邦配下

山角定勝・・・合戦における戦術に能力を発揮した。

ここで、注意点を。氏康の長男は早世しました。次男の氏政が嫡男になったのです(史実です)。三男の氏照が二番目になり、以下、格上げです。

氏政は能力が低くなく、まあまあな武将と思いますが、氏康長男がもし生きていたら、どんな武将に成長していたのでしょうね?





      衆道は無いっすよ。念のため(笑)

私は撲滅派ですから!


タイトルが「あの蒼天に誓ふ」で、衆道じゃヤバイでしょ。そんなもん蒼天に誓ってどうする!って感じです。

衆道のような変チク官能小説ではないので、お子様の教育にも悪くなく、安心してお読みいただけます。






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