あの蒼天に誓ふ
第一巻 乱雲
4、頂上に昇る男
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天文七年(一五三八年)夏、宗之の突然の帰省に、益子家臣たちは喜んだ。
が、肝心の父・益子勝宗は館にいなかった。
「お父上さまと安宗さまは、勝家さまと共に領内を検分されております。帰られるまで、宇都宮でのお話でもお聞かせくだされ」
「ささ、広間へ。早う早う」
宗之の帰りを聞きつけ、次々と家臣らが屋敷に参った。
一気に話かけてくるので、わかが分からない。だが、そこがほっとした。
宇都宮城内の屋敷と比べると寒々しい粗末な作りだったが、ひさしぶりに賑やかになった。
宗之の母・小夜もこれを聞きつけ、大喜びで広間に飛び込んできた。
「宗之!どうしました」
「少し暇をいただき、帰省しました」
「前もって知らせておきなさい。びっくりするではありませんか」
その胸には、宗之の幼い弟・紀五郎が抱かれていた。まだ言葉もわからぬ幼児で、ふっくらしたかわいらしい手足をじたばたさせている。
「紀五郎とは初めて対面いたします。愛らしいですな」
「そうであろう。しかし、この子は父に似て少々やんちゃじゃ」
笑顔で弟をあやす母を見て、宗之は心が落ち着いた。
(やはり益子は良い)
夕刻になり、益子勝宗の一行が帰ってきた。兄の益子安宗は用事があり、少し遅れるようだ。
早速、勝宗に目通りした。
「そのような約定はかわしておらぬぞ」
何ゆえ自分を壬生綱房なんぞにやるのかを問いただすと、勝宗はまったく知らんというような顔をして答えた。宗之はほっとし、胸をなでおろした。
その後、宇都宮城内の話や、宇都宮俊綱の談議でまた皆を沸かせた。今日の勝宗は機嫌が良いようで、時折見せる笑顔は宗之を安心させた。だが、あまりに機嫌がいいので宗之はおかしいと思ったほどだ。
しばらくすると、勝宗が話を変えた。
「話は変わるが、宗之の婚姻相手を決めた。よろこべ」
やはり、おかしかった。
宗之は突然の話にあんぐり口をあけた。いずれ婚姻するだろうが、まさか今言われるとは。恥かしさで頭がかぁっと熱くなった。また、幼少の頃に宇都宮家への出仕や、今回の婚姻なども勝手に決められた事も多々あり、少し嫌気がさした。
孫四郎が後ろで手ばたきして喜んでいる。宗之は“黙れ!”といった目で孫四郎を見やると、孫四郎はハッとし、うつむいた。
「父上!それがしの婚姻はまだ早ようござります」
「ん〜?」
勝宗は鼻毛を抜きながら、拒否することは許さぬという顔をしていた。
「わしらも知りませなんだ。しかし、めでたき事じゃ」
「そうじゃそうじゃ」
家臣らも、突然のことに戸惑いながらも、勝宗に相槌をうっている。
孫四郎がまるで、自分のことのようにはしゃぎながら聞いた。
「お相手は、どこのどなたでございましょうや」
一同みな婚姻相手が聞きたくて場が静まり、勝宗に視線が集中した。
「う〜む?…壬生どのの姫御じゃ」
「!」
みな思わず息を飲んだ。場が再び静まり返った。
しかし、先ほどとは違う。明らかにみなの目が見開き、顔がこわばっていた。家臣らはみな、“壬生どの”とは、宇都宮家で突出著しいあの壬生綱房か!と驚いた顔をしていた。特に宗之には堪えた。倒れそうなくらいの悪寒が走った。
それを見て、勝宗はニヤっとした。
「壬生どのが、おぬしを欲しいと申したそうだな。それはおそらく、此度の婚姻の事だ。別に、おぬしを壬生どのにくれてやるというわけではないぞ。婿にはなるがな」
それを聞いて、宗之は我にかえった。と同時にみるみる形相が変わって勝宗に怒りをぶつけた。
「婚姻とは、一生付き添う妻を決めるのですぞ!なぜそのような大事を宗之にご相談してくださらぬのか」
いつも温厚な宗之が怒叫を発したので、家臣らは仰天した。
勝宗は、宗之を抑えねばと思ったのか、前のめりになって静かにニヤケ顔で言った。
「気に入らぬのか?壬生どのの姫はたいそう美人だとな」
美人という言葉で自分を釣るのかと思うと、さらに腹が立った。美人とは言っても、よりにもよって壬生綱房の娘とは…。家臣の誰もがそう思った。
「美人?わああ、羨ましい」
また孫四郎が口をはさんだ。今度は、宗之は後ろを振り向かなかったが、孫四郎は場の空気に気づき、しまったという顔をした。
「父上、それがしはそのような事は聞いておりませぬ」
さらに怒叫する宗之に対し、勝宗は髭をわしわし掴んでは撫でている。
「ふむ、皐月どのと申すそうだ」
という調子で宗之の話を聞こうとしない。
「宗之、父の言うことを聞いておれよ。さすれば良き道が開ける」
勝宗は手を庭にかざして言ってみた。何の根拠もなく言っている自分がこっけいに感じた。だが、今は自分の思い通りになってくれなければ困ると、勝宗は思った。宇都宮家を牛耳る野望があったのだ。そのための此度の婚姻なのである。
それを聞いた瞬間、宗之は立ち上がり、
「それは、それがしが決めることでござる。ごめん!」
と、どたどたと足音を荒げて広間から出て行った。
宗之は部屋に戻ると縁側で一人寝転んでいた。先とは一転、まだ見ぬ花嫁に想像を膨らませていた。
「皐月どのか…」
先ほどは怒った勢いで部屋を飛び出したが、一息ついて考えてみると無性に気になる。考えれば考えるほど気になって仕方がない。当然、心の中には父への怒りや不信感もあるが、今それよりも印象に強く残ってしまったのは「皐月」という名だ。
「いや、綱房の娘なんぞは、きっと悪女に決まっておる。少しばかり喧嘩をすれば寝首をかかれるやもしれぬ」
邪推を振り払うように、ごろんと寝返りをうった。…と、そこには孫四郎の顔があった。
「羨ましいですな」
「うわー!」
宗之は仰天し、庭に転げ落ちた。
「も、もうしわけござりませぬ」
孫四郎が手を取って縁側に上げようとしたが、その手を止めた。宗之は庭に落ちたまま、そこにあぐらをかいた。何か思案にふけっている。思案している時の宗之には、何を言っても無駄だ。
「ただ婚姻を承諾するのも気に入らぬ」
「お断りを?」
ぶすくれた宗之は考え込んだ。数十秒間、腕組みをして思案にふけった。そして突然、言葉を発した。
「いや」
孫四郎はにんまり笑って、
「では、お受けいたしますか」
「うん」
背を向けて恥ずかしそうに答えた。
「本当は嬉しいのですな。おめでとうござります」
「茶化すな」
顔を見合って笑った。宗之は恥ずかしさを隠すため、孫四郎に飛びつき、首に組みついた。二人は、どたあんと音を立てて倒れても、なおはしゃいだ。
「宗之、縁談が決まったそうだな。父上から聞いたぞ」
組み合っていた二人が突然の声に振り返ると、そこに兄の益子安宗が立っていた。ひと目で兄とわかったが、昔と面影が違う。それもそのはず。安宗と会うのは実に十二年ぶりである。上唇に髭を少し蓄え、体格は断然たくましくなっており、益子家の後継者としての貫禄があった。
しかし、眼光が前より暗く、鋭くなっているような気がした。そこに父・勝宗の面影を含んでいると感じた宗之は少し寒気を感じた。
「はよう上がれ。久々に会ったのだ、語ろうではないか」
兄の優しい口調に安心した。
(やはり昔の兄上と同じだ)
また宇都宮城での出来事を淡々と話した。話をしたのは今日で三回目。屋敷に母や家臣らが来た時、父と会った時、そして兄とあった今。三回目ともなれば慣れたもので、饒舌になっている。
兄は優しくうなずき、弟の話に聞き入った。
宇都宮での小姓生活が一通り終わると、宗之は話疲れして、ふうっと一息ついた。安宗は茶を飲んでいる手を休め、笑顔をよこした。安宗は下戸で酒が飲めない。
「宗之、なかなか楽しそうではないか。宇都宮の俊綱さまもご立派なお方であるな」
「はい!」
「益子は静かだ。御じいさまが亡くなられてから益子本家は、伯父御の勝家さまが継いでおられる。ゆえに平穏だ」
益子勝家は、先代の益子正光ゆずりの温厚な性格で、仏の勝家といわれるほどである。勝家は、宗之らの父・益子勝宗の実兄である。
しかし、重臣たちの評定では激する芳賀高経や壬生綱房の陰に隠れ、宇都宮家中で第二席にも関わらず存在感が薄れている。そこに気性の激しい益子勝宗が疑問を感じていることは本人は口に出すはずがないが、周囲はそれをひしひしと感じている。しかし、傍流である益子勝宗、安宗父子らは、これに仕えなくてはならない。
安宗はこのことを話すべきかと思ったが、まだ宗之は若く、しかも宇都宮家嫡男に仕えている身である。もしこれが何かの拍子に宇都宮家中の耳に入ったら、益子勝宗の家系に謀反の嫌疑が及ぶ恐れがあった。
益子家中にこうした倦怠があることを宗之に明かすのはまだ先でよいと判断して急に話題を変えた。
「俊綱さまに仕える身ならば宗之ももっと勉強せねばならぬ。市塙は良い将だ。良く習うように」
「はい」
宗之は快活よく返事をした。
「それと孫四郎にも迷惑をかけるなよ。頼んだぞ、孫四郎」
「はい、かしこまりましてござります」
孫四郎は、さらに快活よく返事をした。
この愚直なまでにまじめで一本気な人物は、やがて宗之と深い主従を結び、側近となり活躍してゆくのである。しかし、今はまだ赤埴家支族の流れ者のせがれに過ぎない。
ふと気付けば、すでに夜はふけていた。
日中に領内を周ってきた安宗は疲れていたのでその場を去ると、宗之と孫四郎も旅の疲れからか急に眠くなり、もう寝る事にした。
婚姻の事は宇都宮に着いてから考えることにし、次の日の朝、益子を発った。
宇都宮城に到着し、宗之が独り言をぶつぶつ言いながら三ノ丸屋敷で思案していると、徳節斎周長が訪れたという。ふいの来客だが、好都合だと思った。
「お話がございます」
壬生綱房は用事があり、鹿沼城にいるので宇都宮には居ない。そこで、宇都宮に残った徳節斎が婚姻の返事を聞いてきた。その切り出し方は、それ以外に用件がないといった感じのぶっきらぼうなものだった。
(こいつは、俺をなめている)
嫌気がさした。すると、徳節斎の背後から数人現れた。いずれも壬生家臣だった。
そこには重臣である黒川房朝や、大垣玄蕃もいた。さすがに隆盛著しい家中の重臣が居並ぶと、その威圧感はすごい。だが、このような威圧で婚姻を承諾させようとは卑怯だと思った。
「壬生家の婿になれば事は起こさぬ。どうだ」
それを聞いて、父と綱房はグルだと悟った。自分が益子へ行くのを見越し、父・勝宗から宗之に対し、婚姻の件を話しておくように言われたに違いない。その証拠に、綱房は、婚姻などと一度も口にしていない。それに、宗之が益子から帰ってきた途端、婚姻話を聞いただろうと言わんばかりに、徳節斎はいきなり婚姻話をしてきた。このような裏の根回しに気づいて、腹が立った。
しかし同時に、これだ!と思った。自分の面目も保て、婚姻を承諾できる策を思いついた。拳がうずうずしてきた。さっきとはうって変わって上機嫌で振舞った。
「その前にお聞きしたいことが。なぜそれがしにこだわるのか。他に良き人材はおられます。益子といえども傍流の三男坊では、夫婦になっても出世は見込めぬと思いますが」
宗之はわざとじらす。
「違う。宗之どのは器が違うのだ!貴殿を得ることは、一国を得ることに値する!我がとのはそう言っている。わしもそう思う」
宗之は首をかしげ、鼻で笑った。
「買いかぶりすぎです。世間知らずのそれがしが一国に値するなど…」
ずいと、徳節斎が歩み寄った。先ほどとはうって変わって、表情が険しくなり、威圧するような口調で言った。
「どうあろうと、お受けしていただく。受けなければ、壬生は事を起こす。さすれば貴殿の父上・益子勝宗どのも起つ。その騒動につけいる小山、結城共も動くだろう。さすれば宮家は…」
宗之は大きく息を吸った。徳節斎は何事かと思った。
「望むところだ!」
突然大声で呼ばわると、驚いた徳節斎の顔面を思いきりブン殴った。
吹っ飛んだ徳節斎はどたあんと凄い音で倒れた。
「綱房どのに申し伝えよ!皐月どのを我が妻とし、益子の家に入ることを許すとな!」
宗之は婚姻を承諾した。突然の暴挙に徳節斎は返答そっちのけで起き上がり、罵声を飛ばした。
「貴様ぁ!!人が敬意を払って話しておれば殴りおって!壬生と争うのを望むか!」
それを無視して、続けて宗之は言った。
「威してくる相手にはそれなりの報い方がある。皐月どのとの婚姻を承諾するから、望むと言ったのだ。それとも破談にしたいのか?無礼者め」
宗之は胸を張って言い返した。周囲の重臣たちもあっけに取られている。ここで怒って勝手に婚姻を破談したとあらば、徳節斎は綱房に殺されるかもしれない。壬生綱房とは、そういう冷酷な男である。徳節斎は言い返せなかった。殴られた徳節斎は歯軋りしながら、はらわたが煮えくり返る思いで婚姻承諾をとりつけた。
対して、宗之は自身の面目が果たせた。すこぶる気分が良かった。
鹿沼城にいた壬生綱房は、徳節斎の報告を聞いて大笑いした。
「大儀だ徳節!宗之に殴られたのか。大事無いか、あっはっは!」
徳節斎は、頬を腫らした顔をうつむかせて言った。
「わしと婿どのとでは、そりが合わぬようで・・・」
綱房は、宗之のよこした貧乏草を眺めながら言った。それは、しぶしぶ徳節斎が預かってきたものだった。
「貧乏草か。壬生家にこんなものを送りつけても潰えぬぞ。みくびるな婿どのよ」
そう言う綱房は不敵な笑みを浮かべていた。
傍らにいた壬生家臣・大垣玄蕃が言った。
「宗之どのは、綱雄さまの従兄弟ということになりますな」
「そうだ、玄蕃が江曽島の森の中で突き飛ばしたあの小僧が綱雄の従兄弟だ。因果とは、どこで交わるかわからぬ。そこが面白い」
綱雄とは、綱房の嫡男・壬生綱雄である。齢は三十一。父に従い、宇都宮家中での地位を確立しつつある人物だ。綱房ほどの突出した器量ではないが、着実に任務を果たす武将だ。
綱房は、綱雄に目を向けて、
「綱雄、負けるでないぞ。宗之はすこぶる頭が良い。あやまたず使いこなせよ」
「承知しました。益子までも思いのままにしてみせまする」
綱房はニヤッとし、綱雄の返答に軽くうなずいた。正面を見て庭先の向こうに広がる空を見た。空の蒼を限りなく遠く見据えると、みるみる顔に気が満ちてきた。齢五〇を過ぎた己が人生は、まだまだこれからが本番だと思った。
宗之がよこした貧乏草を掲げて、徳節斎に言った。
「徳節よ、この貧乏草が今の下野だ。周辺はみな貧乏で戦をするにも四苦八苦じゃ!これを壬生家は何とする!」
綱房はそう言うと、徳節斎に貧乏草を投げつけた。宙をふわっと舞った貧乏草が徳節斎の手に乗る前に、ボゥッと燃えた。徳節斎が術で焼いたのだ。焦げあとが散った。
「触れずして、他国を燃やして手に入れる。此れにて下野は治まりまする」
一同は沸いた。
言わば、自家の兵力を極力抑え、他家を動かし戦をさせれば壬生家が容易く併呑できる。さすれば下野は自ずと壬生家のものになるという。
「壬生が強うなる時が来たのだ。祖父・胤業以来の大業を成そうぞ」
綱房は立ち上がり吼えた。壬生家臣一同、平伏した。
前に突き出した拳は、己が野望をしっかりと掴んでいた。綱房の脳裏には、下野の大乱が思い浮かんでいる。その顔は、気概に満ち溢れていた。
それから数日たち、登城した宇都宮城内で益子勝宗は壬生綱房に出くわした。二人の無粋な男は、どちらともなく静かに歩み寄った。
「勝宗どの、久しぶりじゃ」
「何か?」
両者はぶすっとした表情で向き合った。
お互いに無愛想だから、両者の対面を傍から見ると、一層険悪な雰囲気に見える。勝宗は、自分の屋敷に綱房を招いた。無言の多い時間である。
「わしと勝宗どので宮家を盛り立てようではないか。此度の婚姻が成れば、わしと勝宗どのは姻戚関係。協力しない手はない」
勝宗は、冷静に聞いていた。綱房への誤答やあいまいな返答は、即不幸につながる。真意を探りながら話を聞く必要があった。
「婚姻の件ですが、宗之が益子に来たときに言ったのだが、その時は首を縦に振らなかった。それから宗之には会っておりませぬぞ」
「つい先日、宇都宮城内で、我が弟の徳節が婚姻を取り付けたそうですぞ」
勝宗の顔が明るくなった。
「おお、これで壬生と益子は縁続きか。めでたい。徳節斎どのに礼を述べねば」
二人は一瞬だけ微笑んだ。しかし、また無言になった。
少し経って、綱房が口を開いた。
「これからは勝宗どのにも、積極的に意見をしていただきたい。あなたは有能な方だ。益子家の栄華を復活させてほしいのだが」
「それは益子当主である兄・勝家の役目にござる。それがしは、それを手助けする程度の役目。兄がいるかぎりはどうにもできませぬ」
それを聞いた綱房がニヤっとし、話の本筋に入ってきた。
「ああ、あの“うだつ”のあがらぬ勝家どのか。評定に出ても何も言わぬ。眠られておるようじゃ。時折、居るのか居ないのか分からなくなる時さえある」
勝宗は思わず身構えた。
この叛意をくすぐるような物言いはまずい。強硬派の勝宗にとって、兄の消極的態度には常々疑問を感じていたし、失望すら覚えたこともあった。しかし、これを利用されて叛意ありと疑われては迷惑だ。
綱房は、勝宗に謀反の志あらば、それを利用しようとしている。動揺が顔に出ないよう無表情になった。
「…勝宗どの、わしが兄上を愚弄して、なぜ怒らぬのだ?そなたも勝家どののご当主ぶりに疑問がおありかな?」
「益子の事はご心配なきゆえ、お気になされるな」
勝宗はあらぬ疑いをかけられまいと、受け流した。
「要は、勝宗どのが益子の当主になればよいのだ。そうすれば強き宮家を創れるぞ」
この佞言はまずい。勝宗はとっさにそう思い、綱房へ警戒の質問を投げかけた。
「それがしに謀反人になれと?」
「いやいや、すべては宮家のため…」
誰がどこでこの話を聞いているとも限らない。こうもぬけぬけと謀反を促されては困る。勝宗はムスっとし、言い放った。
「婚礼の儀は、先送りしていただく」
「ふっ、ではまた」
綱房は思ったより簡単に引き下がり、何事も無かったようにその場を後にした。
(綱房は完全にわしを利用しようとしておる。どうしてくれよう)
天文七年(一五三八年)秋になった。宗之の婚礼の儀は、まだ先送りされていた。
宗之は数え年、十八歳になった。
その頃、宇都宮家中での壬生綱房の物言いは熾烈を極めた。普通の重臣の物言いであれば、それを抑えられるものだが、綱房の場合はそれができない。綱房の理論は、常に筋がしっかりしている。内外への対策の具体案も、他の家臣とは群を抜いて鮮明かつ適切で、誰もが言い返せない。
意見を求められても黙り込むか、賛同するにとどまる者が多くいる。それだけ綱房の意見が完璧すぎ、悪く言えば、他の者を無能化させている。それだけに、綱房の思い通りになってゆく。
あの芳賀高経でさえも、最近の綱房に対してはしどろもどろにしか話せない。かつて、この二人は秘密裏に談合し宇都宮家の家政を取り仕切ってきたが、このところ芳賀高経は控えめである。というより、綱房の凄さに圧倒されている。高経は自分の存在が心配になった。
だが宇都宮家中は、壬生はこんなにも強かったのか。と自問自答する余裕も無かった。また、小山家が攻めてきたのだ。今度は領内を軽く荒らしに来ただけでなく、本格的に城を攻めてきた。
標的は児山城(現・栃木県下野市)である。城主は児山兼朝。遠くは多功一族で、今は宇都宮家の直臣となっている。しかし近隣である多功家とも親交も深いから、すぐに多功軍が応援に駆けつけた。児山兼朝もなかなかの猛将だが、小勢で小山軍の攻撃を防ぐのはやはり辛い。多功長朝も小山軍の防戦に苦戦しているが、強気の猛将は援軍要請をしない。意地っ張りの悪いところだ。
この戦況は宇都宮にも届いていており、評定が開かれていた。が、戦の乗り気でない宇都宮家中は、消極的で陰気な評定になっていた。
そこで壬生綱房が言い出した。
「皆々、誰も児山城の救援に行こうと思わぬのか」
これに対し、芳賀高経が言った。
「援軍の多功どのは歴戦の猛将。児山もさらなる援軍を要請しないのは、よく防いでおる証拠だ。救援に行っては多功どのにも失礼だ」
家臣らは、次の綱房の発言をうかがい、息を呑んで様子を見守っている。そのどっちつかずの雰囲気を察知した綱房は、鼻でふんと息を吐いた。
「児山が落ちれば士気は落ち、多功領も小山勢に落とされる。多功どのが討死いたせば、宇都宮に戦のできる者はいなくなる。それを分かっての物言いか。よもや、小山に内通しておる者がおるのではあるまいな」
予想もしない不遜の物言いに、周囲は狼狽した。
「断じて無い!」
きっぱりと言った高経を尻目に、さらに綱房は続ける。
「多功が落ちれば、宇都宮城は目の前の壁を取り除かれたも同然。さすれば、小山から直接攻められる。赤子でもわかりますぞ高経どの」
まるで折檻状を読んでいるかのようである。高経が冷静を装って反論する。
「佞臣が出すぎた事を言うと、ろくなことが無い」
それを聞いて、綱房の目つきが変わり、大音で吐いた。
「わしは宮家のためを思うて働いておる。これを出すぎたマネと言うは、いかに芳賀のご当主でも!…逆臣ぞ」
広間にいた者は皆、戦慄した。逆臣という言葉を、まさか芳賀の当主に吐くとは。そこには鬼のような形相の綱房がいた。
「これまで宮家が進むべき道を提言した者はいかほどいるか、名乗り出ろ!おるまい。皆は自分の土地さえ守れれば良いのだ。宮家に尽くそうと思わぬ痴れ犬どもめ」
家臣らは、自分たちが宇都宮家のために働いていると思っていたが、自分の領地を守ることしか考えていないと言われると図星だったため、反論できる者がいなかった。自領を守ることは、主家の領地を守ることに繋がるが、それでは宇都宮家は大きくはならない。綱房は領土拡大し、宇都宮家自体の隆盛に尽くす、という事を言っていたのだ。これを実行している宇都宮家臣は今いない。
綱房は目を細めて家臣ら一同を見回し、最期に高経に目をとめた。
「高経どのよ、戦から逃げては清党の名が泣くぞ。兵を出さねば、芳賀三万石が無くなるぞ」
代々重臣を勤めてきた芳賀家が、一介の宇都宮家臣である壬生家に家風やら領地のことを言われ、事を荒立てたくなかった高経もつい堪忍袋の緒が切れた。綱房に、どの権利があって領地のことを口にできるのか!そう思った。しかし、これが綱房の挑発だった。
「なんたる物言い!」
頭に青筋が立った。顔を真っ赤にして怒り、頭から湯気が出そうな勢いだ。そんな高経を尻目に綱房は、宇都宮家臣らに向かって言った。
「宇都宮家中の方々は何をしておられる。なぜ我先に出陣の声を上げぬのだ。今、宮家一番の頼りは壬生家のようじゃ。お屋形さま、それがしは宮家に尽くしますぞ!」
これに異を唱えれば、宇都宮家への反逆になる。高経は言い返せない。他の家臣たちも同様だった。上座でこれを聞いていた宇都宮俊綱は、家臣らが忠誠を誓っているのか心配になり、さらに綱房に恐ろしささえ感じた。
綱房はニヤッとし、
「宮家に一の忠節を尽くしているのは誰だ!この綱房を置いて他におるまい。異を唱える者あらば名乗り出よ!」
さらに誰もいえない。言い出せば、綱房が宇都宮家に尽くすことに反対しているかのようになってしまう。
綱房は物静かな表情に戻り、やりきれない表情の宇都宮俊綱を見た。
「お屋形さまの認可をいただかなくとも、今は児山城を救うため出陣せねばなりませぬ。どうかお許しくだされ、御免!」
そう言うと、綱房はそそくさと出て行った。俊綱は止めようと声をかけたが、聞こえないふりをして、早々と広間をあとにした。一同は唖然とした。多功家と仲の悪い壬生綱房が、救援に行くとは誰も思っていなかったからである。
最後まで芳賀高経は兵を出すことを渋った。壬生の援軍が負ければ、綱房の責任を問い詰める。高経はそう考えていた。
壬生綱房は援軍を出した。鹿沼を発したその数一千。壬生からの合流もあり、一千三百ほどになっていた。宇都宮家中としては、破格の大軍だった。なぜなら壬生領は当時、四万五千石程度だったから、総動員できる兵数は一千三百程度。守りも置くから、通常合戦に出られるのは六百程度である。
しかし、日光山や寄進地も含めた兵数の追加は未知数であり、さらにその辺りの野武士も参加してくるから、壬生家の兵力は領地の石高よりも大きかった。
この兵力は、およそ芳賀家の三万石(清党合わせると約六万石)の総動員数に匹敵する兵数だった。壬生家は宇都宮家につき従いながら、恐ろしいほど成長していたことになる。軍事増強に余念が無かったのだ。
この壬生軍の援を受けた児山城は、小山家の攻撃を防ぎ、撃退に成功した。多功長朝は壬生綱房とは対立していたから、むなくそ悪かった。なんと綱房に借りができてしまったのである。
これにより綱房は、家中での権力をさらに押し上げた。自分の決断が思う通りに成功し、芳賀高経との言い争いにも勝利できた。しかも評定中、誰もが反論できなかった。
弁舌の上で宇都宮家を牛耳ったに等しい。だが、芳賀当主の存在は宇都宮家中において絶対だ。芳賀高経がいる限り、壬生家の地位は一番にはならない。
(高経には死んでもらうぞ)
綱房の頭には、高経を取り除く無数の手が巡っていた。
この勝手な振る舞いと強力な軍事力に、芳賀高経は自分の身に危険を感じた。
居並ぶ無骨な壬生家臣団と兵力。各所に一門衆を配置しての安定した領国経営と、黒川の恩恵による作物豊かな所領。寄進地の多さから、その兵力、周囲への影響力は未知数である日光山門徒の協力。そして、知略長ける徳節斎周長の軍略…。
しかも、この恐ろしい男・壬生綱房が壬生家を率いている。
「今、下野で壬生が最強かもしれぬ。こんな者どもが同じ宮家におるとは…」
こう戦慄したのは、芳賀高経だけでない事は言うまでも無い。
天文七年(一五三八年)十二月二日、宇都宮城下にある二荒山神社慈心院が造営され、芳賀高経主催による盛大な能楽が行われた。
宇都宮家の象徴とも言うべき二荒山神社の造営は、領内外、また民衆たちに広く知らしめる「年式造営」と、その完成の祭礼である薪能の事である。
二荒山神社所蔵の「造営日記」によると、永享十一年(一四三九)、長禄二年(一四五八)、文明十年(一四七八)、明応六年(一四九七)、永正五年(一五〇八)、天文七年(一五三八)、天正二年(一五七四)とあり、ほぼ二十年に一度の割合で行われている。
祭礼では、能、田楽舞、白拍子、また二荒山に属する神官関係者の能も奉納される。また田楽では宇都宮家に深い関わりのある日光山内の幾つかの御坊から薬師が派遣され、観世源三や金剛大夫などの専門の猿楽師たちも畿内から招待された。
奉行には、宇都宮一族の塩谷、上三河、芳賀、益子諸家が任命されており、天文七年の時の奉行は芳賀高経だった。
二荒山神社付属の寺院が、京から来ていた金剛大夫一座に支払った謝礼は二十五貫分といわれる。現代の金額に換算して約六百五十万円。
その他、祭礼見物の設置、日光山薬師らの出演費、滞在費、酒宴なども、芳賀高経が負担している。その費用は、二百貫文、現代において約五千万円という莫大な金額である。
また、社殿の造営にはおそらく五百貫文ほど費やしたであろう。これは領内の領主、民衆らに神事の役として徴収された。
これが氏神寺・慈心院で行われたのである。
宇都宮家中総出で祝う宇都宮家の一大イベントだから、その盛大さは尋常ではない。
この時の芳賀高経は間違いなく、宇都宮一の重臣として芳賀家の威勢を示している。壬生綱房の増長著しいから、盛大なもので仕返ししてやろうと思ったのだろう。
当時の宇都宮俊綱と芳賀高経は外交政策をめぐって対立があり、先代・宇都宮興綱の時代同様、両者の間に溝ができつつあったから、俊綱の機嫌をとることは必要不可欠だった。
さらに、興綱殺しの噂が立っていたから、不仲はなおさらだった。この噂は壬生綱房、徳節斎周長らが流していた。
しかし、この日は能が行われるということで、宇都宮家全体がふって沸いていた。来てみると見事な能舞台で、社殿も依然とは見違える立派なものだった。さすが宇都宮大明神の鎮護社である。宇都宮俊綱は芳賀高経を褒め、たいそう褒美をとらせた。両者に久々の笑顔が見えた。
俊綱の見物に共をしたのが、塩谷孝綱、今泉高泰、壬生綱房、壬生綱雄の四人である。どれも、当時の宇都宮家を代表する重臣である。
その下座には、各家臣らも多数控えていた。宗之は、父・益子勝宗と、兄・益子安宗と共に拝見していた。近くに壬生綱房が来ていた。
芳賀高経は別の場所で、これ見よがしの巨大な物見台に座して他数名の芳賀家臣らと共に拝見していた。
能が始まった。
初番の竹生嶋を、塩谷孝綱の次男・一郎ら他の童たちがかわいらしい舞い、観衆を沸かせる。塩谷孝綱は一郎の演舞にこぼれんばかりの笑みを見せていた。俊綱もご機嫌だ。普段の政務をほんのひと時忘れさせてくれた。
演目は御社頭の能に進んでいた。次は女子衆による舞が始まるというとき、突然、壬生綱房が宗之のところに下りてきて、隣にあぐらをかいた。勝宗がちらりとこちらを向いたが、何事も無かったように目線を戻してしまった。
(何をしに来たのだ、この男は。父上も綱房どのの相手をせぬし、せっかくの能楽なのに息が詰まる…)
宗之は無粋に会釈だけして、話もせずに能舞台に視線を注いだ。綱房も黙っていた。
やがて、女子衆の舞が始まった。
惚れ惚れするような、美しい舞である。宗之が見とれていると、ふいに綱房が舞台を指差して言った。
「あれに舞っておるは我が娘にござる。お気に召されたかな」
「え?」
宗之は、どれが?といった感じで見渡したが、数人いるのでわからない。このいかつい綱房の娘の事だ。まさか、中心にいる一番美しい女性ではあるまいと思った。
「あの真ん中の、桃色の小袖の女子じゃ」
驚いた。
なぜこのような男の娘に、あのような美しい女性がいるのだろう。宗之は気味が悪くて、そっぽを向いた。
「お気に召さぬのか、婿どのよ。“皐月”じゃ」
まだ婚姻していないのに婿と呼ばれた。気持ち悪くて仕方が無い。しかも、今日はやたらと話し掛けてくる。本当に胃が気持ち悪くなってきた。
が、ふと気付いた。
(“皐月”・・・?俺と婚姻するという皐月どのか!)
顔を急いで上げると、今度は人に隠れてうまく顔が見えない。先ほどは見えていたのに。ほとんど見えないうちに、能も終わってしまった。
綱房が微笑んで舞を見ている。普段は、この鬼のような男が笑顔を見せるなど、ありえない。どんな者にでも、上機嫌な時があるのだなと思った。
演目は終盤にさしかかっていた。
すると、宇都宮俊綱が思い出したように、傍らの今泉高泰に言った。
「中でも金剛太夫の能はすばらしい。はるばる京より招いたそうだな。そうだ、わしが褒美を直々にとらせよう」
本来ならば私財を投じて京より招いた芳賀高経が褒美(報奨金)を与えるのだが、宇都宮俊綱は金剛大夫の能にことのほか感激し、宇都宮当主直々に渡すことにした。
俊綱は席を立ち、舞台の裏へ向かった。それに今泉高泰と壬生綱房も同行した。
急なことであったので能舞台裏で褒美の下賜を済ませ、俊綱がすばらしい能の感慨にふけっていると、突然、何かが俊綱の顔を掠めて飛んできた。後ろの柱に刺さったものを見やると、吹き矢がささっていた。
「!」
綱房は、すかさず振り返って怒糾した。
「曲者だ!吹き矢でお屋形さまを狙うとは不届き千判!ひっ捕らえよ」
供に来ていた壬生家臣らが、驚くような速さで駆け出していった。
見物の席からすぐ後ろで騒々しいことに気付いた宗之が、舞台裏に行くと周囲の者数人が俊綱を囲み、身を呈して守っていた。
「お屋形さま、大事ありませぬか!」
とっさの事に何のことか分からず、異常事態が発生して俊綱の身が危ないと思い飛びこんでいった。
これは舞台裏の騒動であったので表には聞こえず、造営式典はその後も進み、表向きには無事閉幕した。見物席にいた一部の家臣らが気付いて最小限の混乱に治めたのだった。
この能を企画した芳賀高経の面目は丸潰れになると共に、とんだとばっちりを喰らった。宇都宮当主が狙われたという、警備体制の不備を問われてしまう。
吹き矢は明らかに外した軌道だったが、吹き矢の標的が俊綱とすることで、ある人物に謀反の嫌疑がかける事ができると踏んでの壬生綱房の謀略だった。
警備体制の不備につけこんで、芳賀高経に謀反の嫌疑をかければよい。壬生綱房は、なんと悪どい謀略家だ。
宗之は他の家臣らと共に、俊綱を厳重に奥の安全な部屋へ移動させた。
すばらくすると、壬生綱房が入ってきた。綱房は宇都宮俊綱に耳打ちし、芳賀高経への疑心を煽る。
「数十年に一度の慈心院大造営で、お屋形さまのお命を危険にさらした芳賀様の落度を責めねばなりますまい。しかも、あのような吹き矢を撃たせおって」
いまだ動揺している俊綱は、顔ざめた表情で言った。
「いや、高経の守備は万全と聞いておる」
「万全と申されたのですか…。万全な守備では、忍びは入り込めませぬ。しかし、芳賀様の手の者なら吹き矢を使えまする。清党の誰にでも嫌疑が及ぶ。下手人は芳賀様の息のかかった者に相違ござらん。なれば、この綱房にお任せあれ。腐った清党を誅滅いたしましょう」
これはまずい!俊綱は、自分が生まれて間もない頃の事変が脳裏をよぎった。
ご承知の通り、二十六年前に起きた宇都宮錯乱(一五一二年)で、宇都宮成綱は芳賀家と対立して、芳賀家の約半数を誅伐した。そのため清党の勢力は半減し、宇都宮家の力もその分落ちた。その後、芳賀家は復帰して徐々に勢力を盛り返してきたが、それでは済まされず、今だに宇都宮家と芳賀家の間には根深い禍根が残っている。
今また芳賀家を誅伐する軍を起こせば何年かかるか分からない。しかも昔と違い、隣国との緊張は高まるばかり。さらに状況が悪ければ、宇都宮家が負ける可能性も十分にある。
宇都宮家中の無駄な騒動。これだけは避けねばさらなかった。
そんな思案の中、吹き矢の下手人は自害したとの報告が入った。その報告に、壬生綱房の顔が険しくなった。
「生け捕りができなければ、それがしが調べねばなりますまい」
その眼差しは、強引に芳賀高経を退けようとする意思が手に取るように分かった。
「つ、綱房、清党は悪くはないぞ」
俊綱の額を冷たい汗がほど走っている。悲壮感が手に取るように分かる。綱房も、宇都宮家の力が弱っては困るので、真っ向からの誅伐は避けるつもりだ。
「わかっております。清党は宮家きっての忠義厚き剛の者揃い。元凶は当主・芳賀高経。謀反人を除き、強き宮家をつくりましょうぞ」
俊綱は承諾したものの、綱房の強行とも言うべき手段が心配でならなかった。
二日後に芳賀高経は、宇都宮俊綱の前で申し開きをした。
宇都宮当主の命が狙われた事は重大であったが、宇都宮家の誇りとも言うべき慈心院大造営中に起こった事件を明るみにはできないので、中枢の重臣らのみによる場となった。
宇都宮俊綱とともに居並ぶ重臣らは、益子勝家、塩谷孝綱、壬生綱房、今泉泰高、皆川成勝の五人。
芳賀高経が皆の眼線の中心にある。いかに芳賀当主で権力は最大といっても、居並ぶ重臣らに囲まれるとどっと冷や汗が出た。
「芳賀様、此度の失態、我らも肝を冷やしましたぞ」
壬生綱房がまず切り出した。事は済んではいたが、トゲのある言葉でけん制した。芳賀高経は下をうつむき、宇都宮俊綱に詫びの言葉をひたすら述べている。
「死者が出なくてよかった。慈心院どのの御前で死者が出るなぞ恐れ多い事だ」
造営の演目に多くの人員を出した塩谷孝綱はほっとしていたようだ。
「いやあ、騒動にでもなって皆川からお貸しした道具類が壊れなくて良かった。我が貧乏家は胸をなでおろしております」
皆川成勝も事を荒立てないように、うわべの取り繕いをしている。
ちかごろの発言に気の籠もっていない芳賀高経に同情している者もおり、こたびの失態も宇都宮俊綱の命が助かった以上、あまり付け入って事を荒立てようとする者は少なかった。黒幕を見つけ出す必要はあったが、下手人はすでに死んでおり、他に有力な手がかりもなかった。
慈心院での行事でもあるので、なるべく穏便に済ませることが皆の意見であった。
「お屋形さま、面目次第もござりませぬ!」
芳賀高経は平伏したまま何度も謝罪を述べた。そこへ壬生綱房が核心を突いてきた。
「お屋形さまのお命を狙ったのは、芳賀様の間者では?」
思いもよらぬ綱房の物言いに仰天しつつも、俊綱に向かって必死に弁明した。
「か、間者!?・・・壬生中務、それはあまりにも無礼じゃ!それがしは宮家の御ためを思い、慈心院造営にも粉骨砕身いたしました。これはすべて、お屋形さまにお認めいただくため!」
高経は間者など知らぬはずである。吹き矢を射たせたのは壬生綱房なのだから。
「芳賀さま、警備が万全と申されるなら、なぜ間者が入り込めたのじゃ」
綱房の容赦ない尋問に一同が静まり返った。
「お屋形さま、それがしの不覚にござります・・・」
そう言って黙り込んでしまった。広間には、高経への同情の念が広がっていた。
そこへ、壬生綱房が意外な意見を言った。
「その警備の不備を問う必要はありますが、間者は警備をすり抜けてこそ間者。芳賀様が警備に細心のご注意を払っていたことはこれで明白になり申した。お屋形さまのお命も助かった以上、これ以上芳賀さまを尋問する必要はないと思いまするが、みなさまはいかに?」
ころっと主張の変わった綱房に皆は拍子抜けした。芳賀高経を追い落とそうとしていたこの男が尋問を終わりにしたいと言い出した。他の重臣らもほっとし、一様に深くうなずいた。
これを見た俊綱も尋問の終了を悟り、緊張が解けたようで大きく息を吐いた。
「あい分かった。芳賀当主であるそなたが、わしの命を狙うはずがない。慈心院の造営は大儀であった。これからも尽くしてもらいたい」
「ははぁ」
高経はほっと胸をなでおろした。皆が思っていたよりもすんなり壬生綱房は退いた。重臣たちも穏便に済ませることができてほっとした。
天文七年(一五三八年)十二月、慈心院での騒動も収束して一段落ついた頃、益子宗之の婚礼の儀は、ようやく執り行われた。
宇都宮城内にある宗之の部屋はあまりにもみすぼらしいため、実家である益子勝宗の館で行われた。本家ではないため、ささやかな儀式だった。
式はこの程度で良かったと胸をなでおろしていた。あまり盛大にやってもらうと、質素を好む宗之は苦手なのだ。
上座にいる宇都宮俊綱が久々の上機嫌でいる。
最近の宇都宮家には、暗い知らせしかない。しかしこの日は、自分の良き理解者である宗之の婚姻を心から祝福していた。
「益子宗之と、壬生の姫御・皐月姫との婚姻。まことにめでたい。」
宇都宮俊綱からの祝辞を、傍らにいる今泉泰高が代弁して皆に言うと、周囲の者は平伏した。
益子勝宗が親族を代表して返礼の言葉を述べた。
「お屋形さまのご祝弁、恐悦至極に存知まする」
「まこと、今日はめでとうござります」
それに相槌を打って、壬生綱房がこたえた。戦国時代の婚姻で主君の許可を得ることは当然である。通常はその前に、色々検分してめんどうな処理をしなくてはならない。
しかし宗之の婚姻の場合は、随分前から秘密裏に根回しもしてあり、比較的簡単に済んだ。しかも宗之は宇都宮俊綱のお気に入りだったため、婚姻というめでたい事なれば二つ返事での即快諾だったのである。益子勝宗と壬生綱房にとっては楽に事が運んだ。
「宗之、頂上至極じゃ」
宇都宮俊綱は嬉しそうに声をかけてきた。しかし公務のため、そそくさと宇都宮城へ戻った。
ふと婚姻相手の皐月に目をやると、たいそう美しいではないか。慈心院で見たときよりも数段と。
軽く下をうつ向いている目はつぶらで麗しい。
頬はうっすらと桃色に光り、笑みを絶やさない。小さな唇はほのかに赤くみずみずしい。そのうららかな顔立ちに、壬生綱房の毒づいた面影は微塵も見られない。吸い込まれるように見入った。
「皐月と申します」
「・・・益子宗之だ。よろしく」
はっとして、返事を一言返すのがやっとだった。
その後、互いに盃をかわしてから、列席した親族らが共に盃で酒をかわした。これで両家の親交を深め、さらに家臣らにも振舞われた。
酒の場になった。
精兵の益子家臣らと剛直な壬生家臣らのかもしだす雰囲気はにぎやかで、どちらからともなく酔っ払いの曲舞で幸若舞や、絶妙のドジョウすくいなどが勝手に始まった。田舎武士とはこういうものである。場は活気にあふれていた。
宗之の苦手なにぎやかな場のはずだが、普段とは違ってとても気分が良かった。
相舅になった益子勝宗と壬生綱房が酒を酌み交わしている。
「これで益子と壬生どのは縁続き。めでたきことじゃ」
「これからでござる。さらに勝宗どのにご指南を仰がねばのう」
二人は不敵に笑い合っている。普段は無粋なこの二人も、今日は饒舌のようだ。酒が入っているからであろう。
益子の分家と婚姻したからといって、益子本家とそう簡単に縁組の威力を発揮するものではない。しかし、この場合は誰もが、益子と壬生両家の縁を認めていた。それは分家の益子勝宗が内外共に益子家を代表する武将として認められていたということである。
いや、それ同等に当の本人である宗之が認められていなくては、壬生綱房は娘を嫁がせることなぞしなかったはずである。
戦国時代になり、政略結婚というものが加速した。現在、単に娘は政略結婚の“もの”として扱われてきたと論じられている書籍をしばしば見かける。
しかし、それは完全な誤りである。
男子も、嫁ぐ女子も両名とも、これからの家の存続を担う大切な役割を担っていた。縁続きになって、勢力的にも存続するにもプラスになることがもちろん目的であり、それについては慎重になって相手の家を選んだ。
たとえ親が強制的に娘の気が進まない結婚をさせても、それは相手にとっても同じく気の進まないことであり、良い関係は生まれない。その家も存続が難しくなる。
ゆえに、「政略結婚は、女性を“もの”扱いしていた」と論じることは間違っており、その書籍自体が女性を侮辱しているものである。そのような失礼な事を書いてはならない。戦国時代も女性は大切にされていたのである。
では、なにゆえ壬生綱房は益子宗之のもとへ娘・皐月を嫁がせたのか。自分が何ゆえ認められていたのか、宗之は自分でも分からなかった。
清楚で真面目でいる宗之は、周りからしばしば良い目で見られているのは事実だった。自分が持っている能力以上の自分が、周囲の者には見えている。しかし、自分にはそのような器量は無いと思っている。
(それは、皆のかいかぶりすぎだ)
と、宗之は常々思っていた。
壬生綱房ほどの者であれば、娘を入れる家を選ぶことは考え抜いてのことであるし、もし自分が本当に見込まれて皐月と婚姻したことになっていれば、それに応えなければ何をされるか分からない。
そう考えると少々、心の荷が重くなった。
婚礼の儀を執り行っているときは緊張で気付かなかったが、場が和んでくると尿意を催していたことに気付いた。寒々しい廊下を渡り、厠へ向かった。
(猪肉を喰うのを忘れた。あれは絶品だ)
用を足して、再び廊下を小走りに戻った。
すると、帰る先に腕組みしている黒い影が見えた。こちらを向いて、明らかに自分を待っている。その影は、野太く重々しい声を発した。
「婿どの、こちらへ」
(ああ、またか。)
また壬生綱房の、威圧か脅しのような説教が始まるのかと思うと嫌気がさした。もう何度も二人きりの会話を体験してきた。宗之の一番苦手で嫌な場だった。
「芳賀高経が小山と結城に通じておるのは存じておろう」
「あの噂ですか。まことにござりますか」
そんな噂が宇都宮家中に立っている。にわかには信じがたいが、高経の動きがあやしいのは常々感じていた。
しかし、婚礼の時に言わなくてもいいだろうと迷惑がった。それは声に出して言えるはずもなく、相づちを打った。
綱房は外を見て、ふうっと白い息を吐いた。
「わしはやるぞ。このことは勝宗どのにも申してある」
「・・・なぜこのような不埒者がのさばるのでしょう。乱れすぎている」
それは、暗に壬生綱房への牽制でもあったが、直接は言えない。それを言われているのは知っているのだろうが、綱房は動じようともせず、それどころか満足げな笑みをうかべてこちらに視線を移した。
「乱れすぎている?ふふ、そういう時代なのだ。そなたも知っての通り、百年も前から関東は争乱にある。その中で宇都宮家もお屋形が討ち死に、早世。家臣らに家政を仕切られ、家臣らを征伐して力を失った。そんな事を何度も繰り返しているではないか。まだ気付かぬのか。これが乱世だ。そして、実力のある者は上にのし上がれるのだ」
「正しき道はあるはず!」
「もう百年もこの乱世だ。いい加減気づいたらどうだ。乱れている事が常なのだ」
不敵な笑みを浮かべて冷静に言った。乱世を好んでいる・・・いや、乱を呼びこもうとしている。そして、それに打ち勝つ自信にあふれている。こんな男が宇都宮家に仕えていること事態恐ろしい。綱房の言動は、家中の組織を食い破りそうな勢いで鬼気迫るものがあった。それが下克上だということを宗之はまだ知らない。
「下野の者どもは遅い。今ごろ昇り始めおった。これから乱世の勝者を目指し、下野を束ねる者が決まるのだ。わしは頂上に昇るぞ。宗之どのよ、振り落とされるなよ。落ちたら死ぬと思え」
宗之は首をかしげた。
「何を申されます。頂上に昇るなど、貪欲な者の言い分でしかない。それがしは地に根を張り、宮家の礎となってみせましょうぞ」
綱房は満足げな笑みを見せた。若干十九歳で、このうわ言が吐けるとはたいした人物と思い、さらに自分の目に狂いがなかったと思い満足した。しかし、自分の理想に叶わぬところが少し気に喰わない。宗之の、純粋とも言うべき「宇都宮家に尽くす」という意味の言動が気に喰わなかった。
「立派な物言いだが残念だったな。宗之どのはすでに昇っておる。いや、わしに昇らされている。皐月と婚姻した事でそなたはもはや逃れられぬ身なのだ。よう精進せよ」
「勝手なことを申されても知りませぬ」
綱房の横を強引に通り過ぎようとすると、手をかざして宗之を制した。
「芳賀高経は宮家にとっての元凶。処罰するゆえ、婿どのもご協力いただく。益子の勝宗どのと共に参られよ。これはお屋形さまもご了承済みだ」
そう言うと、綱房は悠然と部屋に戻っていった。
芳賀当主である芳賀高経を除くことを宇都宮俊綱が了承したとなると、再び「宇都宮錯乱」の文字が脳裏をよぎった。宗之の生まれる少し前の時代である。第十七代当主・宇都宮成綱が、芳賀高勝ら反抗的な清党を征討して、宇都宮家の大幅な戦力低下を招いた「宇都宮錯乱」の話は聞いていた。今は周辺状況がより厳しくなっている。あのような内乱を起こしては、宇都宮家が滅亡する可能性もあった。
(これはまずい!)
だが、祝宴を抜け出して宇都宮城へ向かうことは出来ない。それよりも、宇都宮当主と重臣たちの間で決まった事について、発言権の少ない宗之が諫言しても無駄であった。
宴が終わったその夜、寝屋で二人ははじめて会話をした。
「これから長く夫婦として共にいることになる。よろしく」
「こちらこそ」
その答えはしばらく間があった。そういえば皐月は警戒しているのか、身動き一つせずにちょこんと座っている。宗之はそれを、壬生綱房のいいつけで身を硬くしていると勘繰った。
「義父どのに何と言われてきた?」
「宗之さまを盛り立て、妻の役目を果たせと・・・それだけを」
ぶしつけな質問にも関わらず、何も動じずに皐月は愛らしく答えた。声だけは愛らしい。
「それだけ・・・?そんなはずはあるまい」
そんなはずはない!宇都宮家臣として評定や戦に出始めて猜疑心の固まりとなりつつある宗之は、自分の求めていた答えが返ってこないので焦った。
「・・・あとは身の周りのことや、衣服の麻を絶やさぬことくらい」
それはまともだ。と宗之は感心した。
身の周りとは身辺の所領のことであろう。主人のいない時、自領を守るのは皐月の役割と認識しているのだ。また、衣服の調達は非常に重要で、困難な仕事である。これらは妻に任された大切な仕事であった。もちろん大勢の人数で行うが、当時の衣服は専ら麻で麻宇を育て、川に晒して何度も打って繊維にし、糸をとって織り縫う大変な作業であった。
妻としての役割は、まずはこの二つであり、こうした基本的なことを遠まわしに言える皐月は、やはり壬生家でしっかり養育された女子だと思った。
(まあ、義父どのから密命を言われているとしたら言うはずが無いか。このまま問い詰めて喧嘩になっても良くないな。寝首をかかれる)
そう思い、話を変えた。
「俺は益子家の者ではあるが、知っての通り分家である。しかも三男だ。隆盛著しい壬生家から見れば、ひもじい思いをするやもしれぬ。それも承知なのだな」
「気になりません。お支えします」
皐月はなおも動じず、まっすぐな視線をこちらに向けている。
(皐月どのは、本当にひもじい思いをするのを覚悟しているのだろうか。だとしたら綱房どのは、それがしの事をなぜ・・・。お屋形さまに近い者だからか?)
皐月の明るく微笑むその笑顔は、とても嘘を言っているようには思えなかった。しかし宗之は、女子とは分からぬものだと決めつけその話を終わらせた。そして、気をやわらげるため、少しおどけた事を言ってみた。
「お屋形様の小姓から上がり、宇都宮家に仕えている。今あるこの身は十分過ぎるのだ。本来ならそんなものは打ち捨てて、益子で平穏に暮らしたい。しかし、これは内緒だぞ」
人差し指を口元に当てて言った宗之に、皐月はクスッと笑って答えた。
実は、父の壬生綱房からは山ほどの話と使命を言い渡されてきた。
宇都宮家臣らの動向の調査。
争いごとを好まない宗之を、表舞台から引き下がらせてはならないこと。
宗之の行動をつぶさに知らせること。
壬生家になびくように、普段から話をすること。
宗之の心を取って離さないこと。
これらは武将の妻としては当然の事で、皆が分かっている暗黙の了解であるが、実は皐月はどうでも良いこととしか思っていなかった。いや、忘れていたというか覚えられなかったというか・・・。
皐月は、人目見た時から嫁いだ先の益子宗之の事は気に入っていた。よって、ただ単にこの夫と家を営んでゆければそれで良いと思っていた。壬生家の姫にしては、政争にまるで無頓着なのである。いや、通常の姫君に比べてもあまりにものん気で無頓着すぎた。返答の間も、愛らしい受け答えも、正直に皐月の性分を顕している。
綱房はそこを心配していたが、どうやら心配は的中したようだ。これは清楚な宗之にとって、とても幸運だったといえよう。いわば、義父である壬生綱房からの内部的な影響は比較的受けないで済むということだ。しかし、宇都宮重臣としての壬生綱房は健在であり、そちらでの影響力は強大であった。
最後はおどけて見せた宗之であったが、皐月の事を心底信用したわけではなかった。
益子宗之は人生最良の介添えを得たことにまだ気付いていない。
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第一巻 乱雲「4、頂上に昇る男」・・・終わり