あの蒼天に誓ふ






第一巻 乱雲

3、地獄への初陣





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 一五三四年、益子宗之は十四歳になっていた。

二年前、宇都宮興綱が隠居した時から、宇都宮家は変わった。重臣に、室町後期からの温厚な顔ぶれが減り、代わりに強者と無関心派が増えた。

上座に、今年二十三歳になる当主・宇都宮俊綱がちょこんと座り、家臣らが居並ぶ最前列を芳賀高経、益子勝家が占める。そして以下の序列は、塩谷孝綱、今泉高泰と続く。そして多功長朝、その対面に壬生綱房がいる。宮家内の序列はおよそ、このようなものだ。

先に述べた強者とは、芳賀高経、壬生綱房、多功長朝らで、意見を言い、反論もする積極派(高経ー綱房組と、多功は対立しているが)。それと無関心派とは、益子勝家や塩谷孝綱らで、賛同や当り障りないことばかり述べる者たち。そして経験が浅く、それらを統制できない当主・宇都宮俊綱。

 俊綱は、中年重臣たちに囲まれ、生きた心地がしないでいる。自分が見透かされ、試されているようで心地が悪いのだ。

 月初めの評定は家臣の数がとてつもなく多い。宇都宮城二ノ丸の大広間に入りきれないくらいいるから、家臣らは肩を狭くして、詰め寄って居並んでいる。

末席にいる宗之は、目と耳を凝らして、重臣たちのやり取りを聞いている。遠目で俊綱の様子を見ると、重臣たちの評定からは蚊帳の外に見えた。評定に参加し始めて何回かで、宇都宮家の内情がわかってきた。

大方、芳賀高経を中心に決める。だから、領地安堵の書状の署名でも、芳賀高経が先に署名し、俊綱があとで追認するという異常事態もときにあった。




この頃の、宇都宮家の外交状況を述べておく。

南の小山家は、当主であった成長、政長が相次いで死去し、家督は幼少の小四郎が継ぐ。他家と事を構えることのできないほど事態は深刻だった。

西の結城家とは興綱時代からの友好関係もあり、停戦状態だった。また、なんといっても、俊綱の正室は結城政朝の娘である。こちらは敵対してはいない。結城家は宇都宮と対立していないこの隙に、小山家の家督問題に手を伸ばそうとしていた。

奥州の白河家とは先年、対那須戦で共に戦った仲なので、宇都宮領に攻め寄せる心配もない。

壬生家、皆川家は共に宇都宮の支配下にある。というより壬生家は、協力的な立場といったほうが良い。

佐野家は古河公方のご機嫌とりに四苦八苦である。外交では、特に目立った動きは無い。

しかし、こののち一五三五年に、古河公方の足利高基が死去すると、古河公方を取り巻く関東諸侯の状況は一変する。

先年、足利高基と反りの会わなかった弟の足利義明は、房総の小弓御所に拠り、古河公方と事を構えた。高基はこれに対抗するため、小田原の北条家と結び、子の足利義氏と北条氏綱の娘との婚姻を約束した。

しかし、一五三五年の高基死後、北条家の介入を拒んだ足利義氏は北条氏綱の娘との婚姻を破棄し、古河公方家臣である簗田晴助の娘と婚姻してしまう。当時、関東において北条氏綱の実力は相当なものであった。この逆鱗に触れれば、いかに古河公方といえども、何事も無い保障はなかった。関東八州のシンボルである古河公方は、のちに北条家という新興勢力の支配下になり、関東はこののち、迷動する。

この古河公方の傾倒は、まだ宇都宮家に直接的に影響は少ないが、それよりも北条家の力が増してきたことに大きな意味があった。だが宇都宮家では数名の者しか、その危機に気づいていない。

最後に、北の那須家とは一五三〇年頃から戦闘状態であり、宇都宮家の領地は荒れ、疲弊していた。対する那須家も、天文年間の上下那須統一、奥州勢との度重なる大合戦、続いて宇都宮家との小競り合いですっかり国力は低下していた。当主は那須政資。父の資房に劣らぬ器量で、頭角を現すだろう人物として期待されていた。

宇都宮家も、那須との小競り合いの無意味さが身にしみてきたこの頃、那須家との和睦の議が持ち上がった。これは、芳賀高経が言い出した。

「申し上げます。上那須と下那須が統一され、那須家はこれから力を増してきますぞ。これを潰すがよろしいが、先年より那須との戦で宮家は疲弊しておりますれば兵を動かさぬほうがよろしいかと。そこで、那須政資どののご嫡男・高資どのに我が娘を嫁がせ、婚儀により戦を避けるのが良いかと存じまする」

 俊綱は思案したが、傍らの益子勝家に聞いた。俊綱は、温厚な益子勝家には意見を聞きやすかった。

「宮領内は近年荒れております。近年、戦はおきておりませぬので、さらに戦を避けられるのであれば、それが上策かと存じます」

「・・・よきにはからえ」

 俊綱はそう言い、また黙った。最近はほとんどこうである。評定は重臣たちに任せてある。話す議題も重臣らに任せてある。これは興綱の言いつけだと、芳賀高経が言い出したことだ。俊綱が一層不憫に思えた。

 いつもの評定が終わって、俊綱と宗之は城内を散歩していた。外は良い天気だが、俊綱の顔はどんより曇っている。何も話さないのもおかしいと思い、宗之は明るく言った。

「那須と婚姻にござりますな」

「つまらぬものだな。重臣らの話についてゆけず、決まった事に追認することしかできぬ。わしを情けないと思うたか」

 宗之は返答に困った。俊綱はかなり落ち込んでいる。落ち込んでいるときの俊綱は、人一倍落ち込んでいるから、声もかけづらい。だが、俊綱こそ自分が仕えたいと思った人物だから、隠居されては困る。宗之は必死に励まそうとした。

「それがしも、話がとんとわかりませぬ。しかし、これから学んで、重臣の方々と対等に話せる時が待ち遠しく思います。お屋形さま、今に見ていろと言うてくだされ」

「そう言ってくれるのは宗之だけだ」

 俊綱の表情に少し微笑みが浮かんだ。だが、宇都宮家の前途が多難なことは若い俊綱にもわかっていた。その懸念が表情を暗くさせていた。

 宗之は空を見上げた。

「それがしは宇都宮に来る前、あの陽よりも大きくなってやると空に誓いました」

突然の言い出しに、俊綱はあっけにとられた。宗之が面白い事を言い出したと思い、とっさに返答した。

「陽とは日輪だぞ。日輪より大きくなると、あの空に誓ったのか」

「はい、陽よりも空のほうがはるかに大きい。それがしは日輪よりも大きな武将になろうと、あの空に誓いました」

 俊綱は物心つくまで、慈心院で僧の修行をしていたから、こうした禅問答じみた会話が好きだった。

「日輪は神だ。わしらなどとうてい及ばぬほど遥かに尊い。そのような者になれるか?」

「それを超えるのです。なれなければ空の勝ち、なれればそれがしの勝ちです」

 続けて、俊綱が問う。

「大きくなってどうする!?」

「…決めておりませぬ」

 俊綱は、決めておらぬと聞いて、拍子抜けした。が、しばし思案して、静かに宗之に言った。

「空とは天を云う。天は蒼い。これを蒼天と言う」

「蒼天…」

 宗之ははじめて聞いた。“蒼天…”なんと良い言葉ではないか。それを聞いた瞬間、一瞬にして頭が澄み渡り、気は満ちる。そんな威力があるような気がした。

「宗之、わしが決めても良いか。これからどんな事があろうとも、わしに仕えよ!宮家を盛り立てよ!蒼天に誓えるか?」

「はは!…あの蒼天に誓って!」

 俊綱の目に輝きが満ちていた。顔も引き締まり、生気にあふれていた。何かをつかんだらしい。だが、宗之にとってそんな事はどうでもよかった。自分の仕えるべき人物が気を取り直してくれて、嬉しかった。これまであやふやだったものが、すべて一直線に決まった。自分は宇都宮のお屋形に仕える。宗之の将来を、俊綱が導いてくれたのだ。

「俊綱さま」

 凛とした声に二人は振り返えった。そこには俊綱の正室である“志乃”がいた。あの謀略家・結城政朝の娘である。この夫婦は出会ったときから非常に仲が良かった。

俊綱の表情が急に和らぎ、宗之そっちのけで、志乃に近寄っていった。

(なんだ、奥方様の前では、へらへらしているぞ)

 宗之はほっとし、胸をなでおろした。

一五三四年、芳賀高経の娘が那須高資に輿入れした。那須高資一五歳、志乃一四歳の婚姻だった。

宇都宮家の重臣芳賀高経の娘との婚姻だから、宇都宮家とは一応、同盟関係となる。

宗之とのやりとりがきっかけで、俊綱の風体、気骨は少しずつ変わった。少々強気になった俊綱がいた。前のような、家臣の出した結論に判を押すような評定ではない。家臣たちのやり取りを聞き、それらをまとめて考え、結論と方針を自分で出す。「英断」というものが身についてきた。この変化には芳賀高経のみならず、家臣一同驚いた。

高経は、俊綱が自分の思い通りにならぬと不満げな様だった。よほど、宮家を操りたいらしい。それから数年は芳賀高経、壬生家ら悪意のある重臣たちの行動は、完璧とまではいかないが、ある程度は抑えられていた。

 宿敵の那須家とは一応の婚姻も結び、宮家領内は久々の平穏を取り戻したかに見えた。




一五三六年八月、隠居の身となってしまった宇都宮興綱は、隠居所の御堂で念仏を唱えていた。その夜はやけに蒸した。暑さで眠れず、寅の刻にも関わらず念仏を唱えていたのだ。

「…」

 興綱は、念仏を止めた。

「高経め、隠居などさせおって!誰が芳賀家再興を助けてやったと思っている!恩を忘れおってからに」

突然、スーっと戸が開いた。興綱はびっくりし、振りかえった。暗闇から風が吹き込んできた。興綱は、背筋がぶるっと震えた。戸の影に誰かいる。

「何者だ」

 敷居をまたいで入ってきたのは芳賀高経だった。

「夜分すみませぬ。こちらにおられましたか」

「どういう風の吹き回しじゃ。こんな夜更けに」

 興綱と高経は対立していたから、興綱は煙たいような表情をした。

「隠居なされて、暇をもてあましてはおられぬかと心配いたしまして…」

「何を言うか!おぬしが隠居させたんじゃろう。暇で死にそうじゃわい」

 興綱は、やつれ顔で高経に怒りをぶつけた。

「それは良かった…」

 そう言うと、高経はなんと刀をスラリと抜いた。

「!?」

 興綱はぎょっとした。何かの冗談だろうと思ったが、高経の目つきは尋常ではない。刀を興綱に向け構え、ゆっくり歩み寄ってきた。

「宮家は清党を討った。父も兄も…一族のほとんどが討たれ、わしは地獄を見た。あの時の恨み、忘れぬぞ」

 それを聞いて、事の重大さに気づいた。高経は一族が殺された恨みを、自分に移行して狙っていたのだ!興綱としてはいわれの無い事だから、殺されてはたまらない。

「な、何を言うか!成綱兄がやったことじゃろう。なぜわしに言う!」

「貴様は宮家を継いだ。死ぬべきだ」

「!」

 興綱は刀に手をかけようとしたが、何かに封じられたように手が動かない。それどころか体が動かない。

「く!…殿中だ…ぞ!?」

自分の声に違和感を感じた。言葉が出ない。言ったつもりだが、口が麻痺して、動かなかった。興綱は異常事態を悟った。

「動けぬであろう。貴様の御座の下に動きを封じる刻を書いた。…死ねば楽になる」

 興綱を術で封じた高経は、返り血を浴びぬための厚い布をかぶり、中腰になり、興綱に目線をあわせて言った。

「宇都宮代々を呪ってくれる。次は俊綱だ」

興綱は、目を剥いた。わが子俊綱も狙われていることを聞いて、歯を食いしばり、高経の術を抜けようと、我が子を討たせてなるものかと必死にもがいた。

高経は刀を興綱の喉元に突き立て、まっすぐに突き出した。

 その瞬間、興綱の体が動いた。とっさに刀の柄が折れるほど高経の腕にぶつけたが、すでに剣線は興綱の首筋を貫いていた。

 そのとき、向こうから人の声がした。高経は見つかってはまずいと、自分の左腕をおさえながら興綱の亡骸を跡にそそくさと部屋を出た。二人組の女中が興綱の部屋にさしかかった時、絶叫がこだました。




早朝から宇都宮城に衝撃が走った。重臣たちが城内を駆け、大騒ぎになった。

夢見心地の宗之は、朝っぱらからたたき起こされた。

「なんの騒ぎだ」

 孫四郎が戸を開け、神妙に答えた。

聞けば、宇都宮興綱が早朝に突如自刃したという。宇都宮城を乗っ取ってから、およそ十年である。隠居所へ急行した。俊綱をはじめ、家臣たちは何ゆえ興綱が自刃したかわからない。

興綱の亡骸は、御堂から畳のある部屋に移されていた。高経は宇都宮城の三ノ丸屋敷にいたが、ドタバタと入ってきた。肩で息をして興綱の亡骸に歩み寄った。

部屋には俊綱と宗之と、多功長朝の父・多功建昌らがいた。その頃の建昌は入道して、見性寺入道と称していた。今年で七十四歳の宇都宮家長老であり、重鎮として名が高い。高齢のため、居城の多功城から動くことはめったに無いが、この時は偶然宇都宮城へ登城していた。

「なんと、大殿!ご切腹なされたというのか・・・なんと・・・」

高経は、興綱の枕もとに駆け寄り、がっくりと肩を落とし、啜り泣きをした。

「宮家と芳賀家の関係を深めて、共に協力していこうと申されたのは大殿ではありませぬか・・・。こんな形で旅立たれるとは・・・この高経、悔やんでも悔やみきれません、うう・・・」

「高経どの、わしらも事が急ゆえ頭が真っ白じゃ・・・」

多功建昌が肩を落として言った。

「若・・・大殿のご逝去、いかばかりのご心痛か・・・ご心痛、お察し申し上げまする」

高経は畳に顔を伏せたまま、すすり泣きをしている。

「まさか、忠綱公の怨霊の仕業ではあるまいな」

 誰が言い出したか、先年討たれた宇都宮忠綱の事を誰かが口にした。一同は無言で見合って、顔がみるみる青ざめた。

宗之は心苦しくなって、縁側へ出た。俊綱の悲しい顔を見ているのがつらくなったのだ。これまで数年間当主を勤めてきた俊綱だが、興綱が死ぬと、急に一人になったようで、宇都宮家の行く先が案じられた。

宗之は、興綱が自害した場所を一目見ようと、御堂に行った。

中は薄暗かった。正面に仏像が立っている。物の配置は当時のままのようで、血のにおいもかすかに残っている。

「大殿はなぜ、ご自害されたのだ…」

思案にふけり、御堂の中を歩いた。隅を見やると、興綱の拝んでいた仏像の脇に何かを見つけたので、歩み寄った。

「宝石のようだ。鎖がついてる…何だこれは?」

 宗之は、何気なく刀の止め具にそれをつけた。お堂を一回りしても、別段何も無かったから、また皆のいる部屋に戻った。

 戻ると、泣き声がしていた。高経が、俊綱に何か言っていた。

「若、まことに勝手ながら、少しお休みを頂戴いたしとう存じます。此度のこと、宮家、芳賀両家のご繁栄を夢見ておられた大殿がお亡くなりになられましたことは、この高経、抜け殻になってしまったようにござります。どうか、心情のおさまるまでの間、しばしの静養をさせていただけませぬか」

高経は啜り泣きをし、うつむきながら言った。

「・・・あい分かった。少し休むがよい。しかし、おぬしの力は今のわしにも、宮家にとっても必要じゃ。必ず戻ってきてくれ」

「ははあ、なんと、ありがたきお言葉にござります。

 平伏した高経の目つきが変わっていたのを、宗之は見逃さなかった。

廊下を二人で歩いると、宗之が切り出した。

「俊綱様、ちとお話が・・・」

宗之は俊綱を部屋に入れて、声を低くして言った。

「俊綱様、今、このようなことを申し上げるのはつらきことやもしれませぬが、お聞き届けくだされ」

「ああ」

 うなずいた俊綱は、やはり落ち込んでいた。だが、宗之は、さらに声を低くして言った。

「大殿はご自身によるご自害ではないと思いまする」

「だれかが殺したと?」

俊綱の表情が変わった。

「・・・高経殿が・・・」

「何ぃ!高経が?宗之、いくらそちとてなんたる物言いじゃ!」

感情が敏感になっている俊綱は、思わず声を荒げた。

「俊綱様!お声が。高経殿とすれ違ったとき、血の匂いがいたしました。それと、着物の裾から見えた腕に新しいと見ゆるあざが・・・」

俊綱の顔がみるみる青ざめていった。

「宗之、それはまことか・・・」

「大殿はご切腹の傷だけではありませんでしたな。争ったとみゆる跡が」

俊綱は思いつめた顔をして、しばらく考え込んだ。

「・・・宗之、このことは他の誰にも言ってはならぬ。まだ証がない。わしとそなただけの秘密にしておけ」

「しかし、高経殿にはお気をつけなさいませ。なにやら企んでおるやもしれませぬ」

「分かった」

高経は十日ほど休むと、何食わぬ顔で宇都宮城に戻ってきた。その姿は頭を丸めていた。高経は、入道して名を「道的」とし、改めて宇都宮家に戻ってきた。

「お屋形様、今日よりこの高経が死力を尽くして、俊綱様と宮家を盛り立てていきますぞ。亡き興綱公のご遺志、お継ぎあそばしませ」

「ご遺志のう・・・父は、忠綱殿へのお詫びとして隠居なされてから、ほとんどまつりごとは何も口にしなくなった。その遺志を継げといわれても分からぬ。わしの思う通りにやりたい。」

「いえ、亡きご隠居さまのご遺志は家臣一同お引継ぎいたします。それがしがすでに承っておりますので、お屋形様はそれがしの言うとおりになさっておれば宮家のためになりまする」

俊綱は「?」と思いながら、宗之の言ったことは案外、本当かもしれないと思った。高経の言いなりになっては、また昔に逆戻りだ。高経の腹黒い考えが、目から見えるような気がした。高経の頭がキラリと光った。

(高経は、あきらかに宮家を操ろうとしている・・・)

葬儀は高経が取り仕切った。

その後、俊綱は正式に宇都宮家の家督を継いだ。宮家の一身を図るため、名を“尚綱”と改めた。

一五三六年、第二十代目宇都宮家当主・宇都宮尚綱の誕生である。

しかし、悲劇の大将と言われた宇都宮尚綱はすでに、抜け出すことのできない戦国の血みどろの戦いに引きずり込まれていた。

“宇都宮錯乱”といわれた一連の騒動は、違ったところでまだまだ続くのである。




盛大な葬儀から数日後、宗之が宇都宮城の廊下を歩いていると、向かいから壬生綱房が来るのがわかった。もう一人、僧体の者が一緒に歩いてくる。髪はあるから半俗半僧の壬生家臣だと思った。宗之はなるべく顔をあわせずに歩き、近づくと、あいさつだけして通り過ぎようとした。

「こたびの一件、まことに残念だ」

 綱房が、背中越しに話しかけた。宗之は仕方なく応対した。

「はい」

 宗之がうつむいて応対していると、綱房の傍らにいた者が、ずいと歩み出た。

「お初にお目にかかる。徳節斎と申す。」

 宗之は、

(早く通り過ぎたいのに、余計な手間を・・・)

と思いつつもあいさつした。その者の名は聞いたことがある。

壬生徳節斎――。

 本名を壬生周長(かねたけ)という。綱房の弟である。興綱が宇都宮城をのっとる数年前までは宇都宮軍に従い、軍師格にも遇された智謀の士である。それまでの活躍は幾多もある。幼き頃より父や、外祖父らにより有能な武将に必要な易経、兵書、一般教養などの訓育も受け、成長後、徳節斎と号し、近隣に聞こえた軍師として政武両面で活躍していた。

兄の綱房に似て、なんともどっしりとした顔立ちをしている。そして、異様な威圧感があった。三十歳そこそこだろうか。

 ふと、徳節斎は腰の輝くものに目を向けた。それは先日、宗之が興綱自害の御堂で見つけたものである。

「これは高経どのの…」

 宗之はぎょっとした。

「高経どのの?」

 徳節斎は、目を細めて言った。

「さよう。これは呪術のたぐいじゃ。これをどうされた?」

「大殿のご自害された御堂の仏像の手前に落ちておりました。呪術とは?」

 徳節斎が言うには、これは動きを封じる術だと言う。これを使うためには、自分の身近な者を殺し、その血でこの鎖を作る。そして、本来の標的の背中や御座の下におき、呪言を書き、動きを封じる。

 芳賀高経が興綱にこれを仕掛け、それで殺したのではないか。と言う。

その様式は現世とはかけ離れた奇怪なのもで、妖や幻術、呪術もそのたぐいとされた。戦国期も幻術話は山ほどあるし、有名な幻術師も何人もいる。

当時の大名らは、戦や政を行うときに、陰陽道に長けたものや、祈祷師などに吉凶を占わせたり、呪符に祈願を書いて寺に奉納したりした。。だから、一大名、もしくは一城主ごとにお抱えの陰陽師は、一人くらいはいたのである。

 下野も例外ではない。下野は日光山という霊山とも言える巨山があったから、なおのことである。素性のはっきりしない修験者も数多くいる。

 その中でも、とくに能力の高い者がいる。日光山の僧数名と、下野国内での大勢力にて呪符を越えて、呪術を駆使する数人。呪符とは、まつりごとの類であるが、それは使い方次第で人に危害を及ぼすものにもなる。これを呪術という。
 今回、高経は呪術を使ったのではないかと徳節斎は言う。

「これを受けたる者は下野では、わしと高経、それに日光山のほか数人。よってこれを使えば、たちどころに明るみになる。本来は天文を読み、吉凶を占うためにある力だ」

 その一人に芳賀高経が名を連ねるという。この壬生徳節斎もそうだった。

徳節斎は深刻な顔つきになり、つぶやいた。

「この鎖はもう使った後じゃ。そして術をかけられた相手は言葉も出なくなるから助けも呼べまい」

「人を犠牲にして術を使い、さらに大殿を?」

 宗之は困惑した表情で言った。

「そうじゃ。高経は、おそらく身内を犠牲にしたか…。呪術ごとなれば、人に言ってはいけませぬぞ」

「徳節よ、事の次第があきらかになるまで言うでないぞ。宗之どのもな」

 そう言って、綱房と徳節斎は去っていった。

(壬生どのも何か裏で考えておられる。このような奸臣ばかりでは、宮家はこの先、迷道を歩むことになる)

 宗之はそう思い、宇都宮家の現状に落胆せざるを得なかった。

その後、綱房と徳節斎が密談していた。

「高経め、はやまりおって。いかがいたしましょう」

「しばらくは様子を見よ。高経にはいずれ死んでもらわねば」

 綱房の目がするどく光った。

それから数日後、芳賀家臣の厚木朝高が出奔し、小田原の北条家の下に走った。厚木家は、芳賀一族で重臣である。高経による興綱暗殺を最後まで諌めていたが、高経は暗殺してしまった。それゆえ、出奔してしまったのだ。

芳賀家中は騒然としたが、高経は、“厚木に謀心ありとして追放”という形とした。が、この事件は、芳賀高経から芳賀家中の心が離れていく前触れとなった。




 一五三八年、宇都宮俊綱は戦を仕掛けた。いや、正確には誘発させられた。

小山家が南河内の宇都宮領を荒らしたのだ。ここは戦国以前は小山家の領地で、室町後期以来、宇都宮家が掠め取っていた地であった。小山家はそこを取り替えさんと攻めてきた。

しかも、父・興綱の時は服従していた皆川成勝が独立状態にあり、次第に力をつけ、なにやら小山、結城両家と組んでいるようであった。

俊綱は、若い自分がなめられていると思い、牽制するためにも出陣しなければならないとして、兵を南に向けることを評定で言った。

この時の小山家は、数年前とは変わっていた。

当主は小山高朝。結城政朝の次男である。先年、崩壊寸前だった小山家に結城政朝が取り入り、次男の高朝に継がせた。結城家は、小山家を飲みこんだことになる。それまで小山を継ぐはずだった小山小四郎や、牛耳っていた山川系の家臣らを廃し、家中の統制を断行して急速な回復を見せていた。

そして、その力は外敵に攻め込めるほどになり、室町後期以降、宇都宮家に取られていた領地を奪い返さんと挑発的な行動をとってきた。

今回、小山高朝により、南河内郡の小野寺領の村が荒らされた。これに対する報復の意で小山家に攻め込む。

しかし、不安がよぎった。小山家とは何も友好関係は無いが、小山高朝は結城政勝(この頃は結城政朝は隠居し、子の結城政勝に家督を譲っていた。)の弟である。宇都宮家と結城家は婚姻している。それなのに、なぜ小山高朝は宇都宮家を攻撃しようとするのか。結城政勝が高朝の攻撃を止めなければおかしい事態だった。

それなのに小山高朝は数度、宇都宮領を荒らしている。そして、結城政勝は動かない。

この時の出陣には壬生綱房が強く押した。

「お屋形様の若き強きお力、内外に知らしめねばなりませぬ。我らにお任せあれ・・・なにとぞご出陣を・・・」

他の重臣も古株ばかりである。この者たちが、他家から侮辱されて黙っているはずが無い。真っ向勝負を主張していた。

尚綱は決断した。尚綱は元来まじめな性格で、人の言動を鵜呑みにする傾向がある。最近、それは激しい。近頃、壬生綱房が評定でよく話すようになり、尚綱はじめ、家臣らをうまく言いくるめてしまうのである。しかもその話運びが自然の成り行きのように。

宗之も、この戦に出陣することになった。今回が初陣になるわけである。今年十八歳になるから、初陣としては遅いほうだ。だが、宗之はこれまで宇都宮城内での尚綱の傍らにいる役が多かったから、それは仕方がない。

しかし、興綱が死去し、尚綱が正式な宮家当主になってからは、宗之が本格的に宮家家臣になることを尚綱が希望したため、評定にも意見を少し言えるようになってきた。そこでやっと此度の出陣である。

「宗之、紀党代表として、また宮家の武威を示すため、存分に初陣を飾れ」

「はは」

とは言ったものの、内心、宗之はこれに反対だった。事前の情報が少なすぎる。結城政勝が裏切る可能性もある。敵の方針がはっきりしない今出陣しては、思う存分之働きどころか、逆に返り討ちにあう可能性があるからだ。

さらに、誰かの初陣となると、勝てるような戦であるはずだが、宗之には勝てるとは思わない。しかし、芳賀高経も今泉高泰も多功長朝も賛同している。ついでに壬生綱房も強く押している。宗之が逆らえるはずは無かった。

宗之が下をうつむいていると、声がかかった。

「浮かぬお顔じゃ。初陣でござるぞ。宗之どのの晴れがましいお顔が見たい」

 それは綱房だった。綱房は続けて言った。

「何か言いたき事があるようじゃ。宗之どのに問う。此度の戦、どのようにお考えか」

 宗之は顔をすぅっと上げ、尚綱を見た。もう戦は避けられぬと悟った宗之はどっしりと構え、今考えられる最悪の状況と対策を頭で考え、それを提言した。

「おそれながら申し上げます。此度の戦は用心が寛容。なにやら小山の影に結城どのが見えまする。小山高朝と結城政勝どのはご兄弟なれば、此度、宮家に結城の援軍は断じてありませぬ。もし来れば、それは小山に味方するもの。宮家はそれを見越した、負けぬ戦をせねばなりませぬ。此度は小山を牽制し、お屋形さまに、結城どののお心を確かめる物見遊山のご気概がなければなりませぬ」

 宗之の目の付け所に、家臣一同静かになり、感嘆のため息が聞こえた。これに、綱房が大笑いした。

「わっはっは、宗之どのは実に面白い。まるで歴戦の将のような言い分。または戦をまだ知らぬ者の言い分にも聞こえる。だが、これは名案じゃ」

 尚綱は聞いた。

「我が正室は結城から来た。結城どのが、なぜ我らと戦をするのじゃ」

「奥方様には申し訳ございませんが、結城どのの腹のうちはわからぬので申したまでのこと。敵と決まったわけではござりませぬが、用心は戦国の世で必定かと」

 尚綱はうなずいたが、周りを見回して、再度聞いた。

「結城どのと事を構えたくない。四面楚歌だけはならぬ。だが、小山の仕業は許せぬ」

「そうならぬために那須家と芳賀どのが婚姻をいたしました。此度の小山との合戦では、我らが身を呈してお守りいたします。存分に遊山いたしましょうぞ」

 君島広胤が盛り立てた。君島家とは、武蔵国・丹党と呼ばれている。桓武平氏の千葉家から分かれた大須賀家の出自で、下野国芳賀郡君島村に移り住み、宇都宮家に仕えて君島に改姓した。家中では大須賀党と呼ばれている。他に君島一族の祖母井、風見、大宮などがあり、皆武辺者がそろっている。そして君島家は、宇都宮家中でも多功家と一、二を争うくらいの武の柱石である。

尚綱はしばし考えた後、うなずいた。決心がついたようだった。

「そうだ。今の世では妻の生家といえども、敵となれば戦わねばならぬ。いらぬ詮索だったな。小山を攻めよ!」

出陣の日は、四月五日と定められた。

宗之は普段から武芸に励んでいたが、それが戦に役立つかは疑問だった。

「孫、教えてくれ。戦で武芸をどう使えばよい?」

「ええ、と、市塙さま、お教えくだされ」

 孫四郎の問いに、巨体の市塙は縁側からゆっくり腰を上げた。

「宗之さまは考えすぎじゃ。戦では敵を殺し自分が生き残る事のみ考える。いらぬ問答は死の元ですぞ。猛特訓をせねば戦で死にまする。さあ、お手前のほどを、この市塙にお見せくだされ!」

 宗之は、合戦まで訓練に明け暮れた。




一五三八年、四月五日 出陣―

 総勢一五〇〇騎で宇都宮勢は南下した。初陣となる益子宗之は第五陣。

父の旗を馬印に掲げ、進軍していった。

 壮大な田畑が広がっている。それを横目に見ながら、馬を進めた。

「宗之さま、よそ見をされるな。どこに間者が潜んで狙っているかわからぬ。進軍の時も周りに目配せして警戒を怠らぬこと!」

「わかった」

 宇都宮を出て五里ほど進軍した。途中で多功軍、壬生軍も合流し、もうじき小山領に入る。敵地に近づくと身震いした。これが合戦前の武者振るいかと思うと、嬉しくなった。

「おい孫、今、武者振るいがしたぞ!」

それを聞いた孫四郎は、がちがちに固まっている。宗之は、馬の上からその肩を数度叩いたが、反応が無い。

市塙は、それを見て笑った。

「ふはは、戦の前は皆ああなるものにござる。」

「そうか」

 孫四郎は数度合戦に出ているが、合戦の前は毎回ガチガチだという。だが、戦場では良い働きをしているという事だ。

 すると、前方が慌ただしくなった。

「伝令!伝令!二里先に小山軍が待機!」

 宇都宮軍は進軍を止め、国分寺の笹原に陣取った。

 先ほど入った情報によると小山軍は約一千。対して宇都宮軍二千五百騎。数から見れば、宇都宮軍の圧倒的有利だった。

だが、結城軍の襲来が懸念されていたため、国分寺すぐ東の南河内に、退路を確保する兵を配置し、合戦に出るのは二千騎ほど。宗之らは二千騎と共になおも進軍。

宗之は途中、緊張が増してきて腹が痛くなってきたが、ついに小山軍と向かい合うと、いっそう緊張感が増した。敵の殺気がビリビリ突き刺さるようだ。

宇都宮軍は軍を展開。鶴翼を敷いて、小山軍に対峙した。

「あの兵の数から察して、おそらく小山高朝自ら出てきておる。気を引き締められよ」

 そう言った市塙を見ると、すでに武人の顔つきになり、その視線の先に小山軍を見据えていた。宗之は勢いよくこれに答えた。

「おう!」

 緊張しすぎて、もはや腹が痛いのは忘れていた。




小山領の小金井(現・国分寺町小金井)に両軍はぶつかった。小山領の北端で、多功のすぐ南である。宇都宮から南下するとここを通る。宇都宮、小山間でこの場所は幾度となく合戦があった。

はじめ数に勝る宇都宮軍がじりじりと押していく。小山軍は攻勢を受けてばかりだが、猛将・小山高朝に鍛えられた軍だけあって、やはり守りは堅い。

半刻ほどで小山軍は一時退いた。宇都宮軍もそれ以上深追いせず、両軍向かい合った。

「市塙、小山は退いたぞ。何故だ」

「は、前線が延びきると兵が散り散りになり、統制もとりずらくなります。また、敵方に虚をつかれ一気に攻め立てられると、散り散りの兵たちはすぐに崩れます。そのために体勢を立て直す必要がある。小山は、また攻めてきますぞ」

 しばらくすると、小山軍が動いた。

「それ来た!お前ら、気合を発っせよ!」

市塙が兵達を叱咤した。

両軍は再度ぶつかった。宇都宮軍が先ほどより少し押し出した。小山の本陣が少しずつ近づいてくる。このままいけば、小山高朝の本隊とぶつかるのも時間の問題となった。

 だが、小山の本陣に近づくごとに手ごわくなる。小山高朝は、戦の強い武将だから、そう易々とは勝たせてくれない。宇都宮本陣と先頭隊が離れすぎたこともあり、深追いしまいと、今度は宇都宮軍が一時退いた。

 すると、小山軍の動きが止まり、両軍は再度向かい合った。小競り合いもせず、ただじっと時を刻んだ。

動かない両軍に、宗之は苛立った。

「早くケリをつけぬと、何が起こるかわからぬぞ」

 宗之の心配は的中した。

日が昇りきった頃、宇都宮軍の左翼の彼方に砂塵が舞い上がった。

 宗之はそれを見て、身震いした。明らかに敵地の方向からの進軍。宮家とは明らかに違った進軍様式。予想していた最悪の事態に気づいた。それはまぎれもない結城政勝の軍勢だった。

 伝令が駆け込んできた。

「申し上げます。結城軍来襲!どちらに付くかはわかりませぬ」

 宗之は舌打ちをして、

「わかるわ!結城は、小山の加勢に来たのだ!益子本陣は布陣を変える。他は市塙が指揮をとれ」

結城軍の襲来は、先の評定で懸念されていたはずだ。しかし、実際来てみると、とてつもない絶望感が沸いてきた。これまで同盟していた相手が、突然敵となるのだ。かつての強敵が復活したといった感じだった。

この急報は、宇都宮軍にかなり堪えた。

 士気の衰えは敗北に即つながる。宗之は、すぐにでも退却をと思った。そのための布陣も敷いてある。これくらいは予測していたことだったから、退却は容易だと思った。

だが、尚綱本陣に伝えに行くと、絶望に変わった。

「なんと!多功軍と今泉軍が、結城軍と交戦中!?」

 これで宗之の構図は崩れてしまった。すでに左翼先鋒で、戦いに突入していた。血気にはやる多功軍が激突したという。自軍が結城軍と戦っていては、退却できない。交戦前の退却ならともかく、交戦してからの退却は非常に困難だ。

しかも結城と合戦に及んだから、完全に敵対した。結城、小山両軍から追撃を受けることになる。事態は緊迫した。

動きのあまり無かった小山軍もゆっくりとこちらに進軍してきた。という情報も入った。

「殿軍は、それがしが務めまする」

 宗之が進言すると、本陣は静まり返った。初陣の青年武将に、誰が“殿軍”をやらせて良いものか。宇都宮家臣らは、我先にと殿軍を申し出た。

 宗之は続けて言った。

「益子の旗を立てれば、結城の進軍は止まるやもしれませぬ」

壬生綱房が進んで言った。

「益子どのは結城と少なからず誼がある。益子の旗を立てれば、結城勢は動揺するやもしれぬ。さすれば小山も行き詰まる。あっぱれなご覚悟じゃ。…戦に賛同したのはわしじゃ。わしも殿軍を務めますぞ」

 続けて、君島広胤が進言した。

「わしも殿軍を務めよう。」

 君島の武は家中に鳴り響いている。宗之は、この申し出を心強く感じた。すると、遠くから叫び声が聞こえた。

「わしもじゃ!わしも殿軍を!」

 多功長朝が本陣に駆け込んできた。息を切らして、尚綱に頼み込んでいる。多功領は、国分寺のすぐ北にあるから、多功としては、殿軍を務めて領地を守りたいのだろうが、結城軍と戦い、兵は疲弊し、これ以上の戦など無理だ。

 尚綱は唇を噛み、多功の申し出を制した。

「多功は損害がひどい。とても殿軍はできまい。撤退せよ。君島、宗之を討たすなよ。たのむ」

「かしこまってござる!」

 尚綱の叔父である塩谷孝綱が言った。

「お屋形様、一刻の猶予もござらぬ。」

 宗之のところに、尚綱が駆け寄った。

「宗之、生きてもどれ」

 手をがっしりと取り、そう言った。目が少し潤んでいた。

宇都宮本陣は即刻陣を引き払い、退却した。

益子、君島軍は多功口に、壬生軍は国分寺から壬生領に入る箕輪口に、二つあるうちのそれぞれの要所に陣取った。

宇都宮軍が見る見るうちに遠くなってゆく。自分たちだけ取り残されてゆくこの様はなんとも心細く哀しい。

(これが殿軍か)

宗之は初陣で、一番難しい戦をしていた。歴戦の武将・市塙越前が補佐をしてくれている事で、気持ちが落ち着いていたのだ。この支えがなかったら、この緊迫状態で、若い宗之が益子勢を率いることなどとうていできない。兵の末端までの指揮は、ほとんど市塙がしていた。大将である宗之は、どっしりと構えること。これが一番重要だった。

孫四郎は、おびえながら言った。

「との、殿軍など承って、怖くないのですか」

「言ってしまったものは仕方ない。あんずるな。君島どのもついておられる」

「うう、しかし…」

宗之はさわやかに返すが、孫四郎にはなんの説得力も感じないから安心できない。

静かに敵を待つ宗之に対し、市塙が声をかけた。

「本隊が撤退し心細いでしょうが、兵を意気消沈させぬ事が肝要。何か景気のいいものでもやりましょう」

 すると、宗之はひらめいた。敵軍を迎え撃つ、良い案を思いついた。振り返って、市塙に言った。すると、市塙はにんまりして言った。

「宗之さま、妙案じゃ。しかし、危険な賭けじゃ。この市塙が命に代えてもお守りいたす」

 市塙に賛成してもらったこの案を、振り返って皆に言い放った。

「皆々、これから敵勢を迎え撃つ。何があっても、この宗之を信じて動け。必ず勝てる!」

 皆は、固唾を飲んで、宗之の次の言葉を待った。やがて口が開いた。

「まずは、あの丘に全軍移動。丘の後ろに貼り付け。そして、俺と孫四郎が頂上で敵軍を迎え撃つ」

 孫四郎は、え!という顔をした。他の兵士たちも口が開いた。それもそのはず。全軍が丘の後ろに張り付き、頂上に宗之がいるという構図は、敵軍を最初に迎える討つのは大将・宗之なのである。大将が真っ先に敵を迎え撃つのは無謀と言うより、ありえない。

 さらに続けて宗之は言う。

「弓隊は丘の後ろにつけ。座って構え、いつでも放てるようにしておけ。矢が来たら、一斉に打ち返せ。一列目が放したら、二列目がすぐ放てるようにしておけ」

 弓隊は急いで位置についた。

「俺たちのすぐ後ろに槍隊が控えよ。うつぶせに、草むらに隠れるように構えよ。槍は地に置き、敵が眼前に来るまで決して手にとるな。さすれば敵からは見えまい」

 宗之は、一人の兵士の手を取り、うつぶせにさせて皆に説明した。敵が眼前に来たら、槍を持った勢いを利用して、するどく突く。なるほど、草むらから急に槍が現れては、敵は防ぎようが無い。そして、さらに後続の槍隊をなだれ込ませ、斜面を利用して追い落とす。作戦としては完璧だった。だが、高地にいる益子勢に対し、敵軍は突っ込んでくるのだろうか。それには宗之の挑発が必要だった。

 ふと兵を見やると、孫四郎も槍を地面に置きうつぶせになって、じっと構えていた。

「孫、何をしておる」

「え?とのがさっき言われました通りに…」

 すると、宗之は手元を指差して言った。

「孫はここで、このでかい旗を持て」

「ええー!!」

 そこは、宗之の隣。いわば最前線である。しかも、四方八尺ほどもある巨大な旗を掲げて敵を迎え撃てと言う。孫四郎は恐怖を通り越して、呆然としてしまった。

 迎え撃つ準備が整った。




小山軍は、宇都宮軍との戦で疲弊していたので、結城軍が追撃することになった。

 結城政勝は、撤退してゆく宇都宮軍を見て、目を細めた。

「西の進路には、父の天敵・壬生めがおるぞ。いかほどのものか試してくれる」

 政勝は、壬生綱房の軍勢に吸い込まれるように進軍していった。対して、東側の多功口進路は水谷勢が務めた。それは、宗之の隊だったが、旗指物が無い。どこの部隊かわからなかった。

「旗指物も無い部隊か。どうせ下っ端に決まっておる。蹴散らせ」

 率いるは水谷治持。結城家中では勇猛さは右に出るものがない。これに追撃されればただでは済まない。宗之の父・益子勝宗の旧知である。

「首もうけじゃ!さんざんに討ち果たせ!」

 悠々と槍を振るって突撃した。前方の小高い丘に何か見える。水谷勢はそれが何者かまだ確認できないが、それは宗之と、孫四郎だった。

 宗之が手をかざして合図すると、孫四郎が旗をゆっくり持ち上げて、地面に指した。それは、巨大な紀党の旗であった。

「旗を立てた敵勢がいるぞ!討ち果たせ」

 それをめがけて水谷勢は猛速度で駈けた。

 すると、水谷一族の水谷全芳が、あ!と叫んだ。

「益子の旗だ!勝家のものではない。勝宗どのの旗だ!」

 それを聞いた治持は、まずいと思った。益子勝宗とは旧友の仲だから、攻撃はためらわれた。しかも、益子勝宗は無類の戦上手で、治持自身に通ずる所がある。うかつに手を出せない。

「くそ、絶好の手柄を!」

 治持が歯軋りして、丘の上の武将を見ると、はっきりとその人物が見えた。まだ年端も行かぬ青年武将ではないか!しかもどこかで見覚えがある。治持は考えた。

「何者だ?」

 すると、全芳が叫んだ。

「ああ!宗之どのが、馬鹿でかい旗を抱えておる!」

 治持は、宗之とは誰だ?と思ったが、すぐに察した。あの、益子勝宗の三男坊ではないか。元服したての頃会ったから、一軍を率いている姿を見て驚き、思わず進軍を止めた。

「宗之どのは戦場に出て間もないはず。殿軍を?まさか!」

 治持は、水谷勢の進軍を止めた。宗之は巨大な旗をしっかり持ち、仁王立ちしている。傍らに槍を立てて持っている孫四郎がいる。足がガクガクいっている。大旗を持つはずが緊張のため持てず、大旗は宗之が持った。それもそのはずである。孫四郎は数度合戦に出ているといっても、自分たちは殿軍であり、目の前は殺気立つ敵軍に溢れていた。普通でいられるほうがおかしかった。

 だが、宗之は何かを探しているようで、目を四方に向けていた。体は微動だにしない。

 水谷家臣が進言した。

「との、ご子息だけ前線にいるのは不自然です。背後に勝宗どのの軍勢がいるのでは?」

 見上げる治持と、見下ろす宗之の目が合った。

「あ!治持どの、お久しぶりじゃあ」

 宗之は、迫る水谷勢を見渡し、大将の水谷治持を探していたのだ。大声で呼ばわると、それに答えるかのように、功を焦った水谷の兵が矢を放った。その一本の矢は、わずかに宗之の横をかすめ、後ろの草むらに落ちていった。宗之はニヤッとした。

「誰が矢を放てと言った!」

 治持は、矢を放った兵に怒った。標的に当たらなければ、自軍の恥である。それに、宗之に放てとは言っていない。軍令違反だ。

 すると、先ほど放った一本の矢に対し、宗之の後ろから無数の矢が放たれた。

「しまった!背後に兵を伏せておったか」

 治持らは、降りかかる矢を払ったが、何人かに刺さり、落馬した者もいた。丘の上から放たれたから、矢の勢いは増している。斜面の前で馬を止めたのは水谷軍の失敗だった。

白地に黒の三ツ巴が、変わらず雄大になびいている。

宗之は足を両側に大きく広げて構え、大ぶりに手招きして叫んだ。

「水谷勢よ、臆したか!益子宗之が相手だ。かかってこい!」

 すると、挑発に乗った水谷勢の一翼が駆け出した。低い場所から高所に駆け上る。兵法に則さぬ無謀な攻撃だ。

 治持は止めたが、もう兵たちは突っ走っている。回りもそれに続いてしまった。再度、宗之の後ろから矢が放たれ、何人も倒れた。

「ばか者!退けぇ、退けい」

 水谷勢は、もう収拾不可能だった。丘の上まで駆け上がった水谷勢は、宗之めがけて斬りかかった。

だが次の瞬間、水谷兵は無残にも次々と倒れていった。宗之は、すぐ後ろに槍隊をあらかじめ伏せておいた。合図をし、目の前の水谷勢を突き倒した。草むらにうつぶせに寝かせておいたから、敵には気づかれなかった。

「そのまま追い落とせ!」

 益子勢の槍隊は怒涛の突撃を見せた。下り坂だから、さらに勢いがつく。水谷勢は突き倒され、丘の半ばまで登った兵は引き返す途中に、後ろから突き倒された。傍らにいた君島軍もこれに乗じて、敵に踊りかかった。

「弓を持てい」

宗之は弓を取った。

「鏑矢だ」

合戦の始まる合図に使用する鏑矢(かぶらや)をとった。なぜ今?と、皆があっけにとられていると、矢を番えた。すると即座に弓を引き分け、水谷勢の後方を十分に狙い放った。勢いよく放たれた矢は鈍い音を立てながら、戦闘中の兵達の頭上を越え、まっすぐに治持の所に飛んでゆく。

「治持どの!宗之の矢をお受けいただく」

宗之の叫んだ声が届いたか届かなかったか。治持はギロっと宗之を睨んだ。その一直線上に鏑矢が飛んできた。

 治持は目をカッと見開き、渾身の力で矢を払った。

なんと重い衝撃。遠距離だからといって、通常の矢がこんなにも重いはずがない。宗之は矢じりの相当重い矢を飛ばした。しかもそれを飛ばせる弓だから、相当に重い弓なのである。

(しかも、この水谷治持を狙い放ってきただとぉ!?あのガキめ〜)

薙ぎ払った矢を、無言で見つめた。

水谷治持は屈辱を味わった。まさか、自分の心の隙が、このような敗北を生むとは。

逃げ出した兵は、水谷本隊にすがるように退却していった。宗之は追撃を振り払ったのである。

丘の上にいた宗之は、前線の兵達に大喝した。

「ときの声を上げよ!えい、えい、おー!」

その声は、この広い広野一帯にこだました。宗之はそれを体全体で感じ取っていた。

「人の士気とは、これほど体を身震いさせるものなのか。たぎるものがあるぞ」

体の奥底から湧き上がる熱いものを感じ、さらに絶叫した。

「えい!えい!おーーー!」

 それまで緊張でガチガチだった孫四郎が、大きなため息を吐いてへたばった。すると、何かを遠くに見た。

「との、あれは?」

この丘からは遠くまで見える。結城軍の別の部隊が、殿軍の壬生勢に攻めかかっている。壬生勢は、右回りに迂回しながら、結城軍の追撃を振り切っている。

「あちらは小勢だ。相手が綱房どのだから深追いはしないのだろう」

「壬生勢の動きは気持ちが悪うござる」

 そこには、先ほどの怒涛の突撃から帰還した市塙が、首を五つもぶら下げて立っていた。壬生勢は、迂回しながら別働隊を方々に放って、結城軍を数方向から囲んで、攻撃しようとしているのを市塙は説明した。

「との、鏑矢を放ちましたな?あれは何なのです?」

「あの鏑矢を以って、益子宗之の初陣といたす。俺はこれから世に出るのだ」

皆は理解したようで、表情がぱぁっと明るくなった。これから宗之の武将働きが始まる。一人前の武将になるという自覚に、皆はうれしくなった。

「勝負は決まった。帰ろう」

 宗之は結城勢の撤退を見送ると、追撃されないように猛速度で退却した。

宇都宮本隊は、途中伏せられてあった結城勢の伏兵に少しずつ兵を減らし、やっとの事で帰陣した。




 帰還した武将たちは、みな黙していた。押し黙った空気はなんともいいがたい。大して損害は無いものの、まるで敗北したかのような雰囲気だ。結城家が敵に回ったことが深刻だった。場は暗くなるばかりだった。

 それから半日ほどたってからの宗之の帰還は、皆を安心させた。結城と小山の追撃から逃れ、追撃軍を破ってきたのだから、初陣としては大功だった。

 皆、宗之を褒めた。

「今日は皆帰ってやすめ」

皆が退出し、自分も後にくっついて出て行こうとした時、後ろから胸をえぐる様な声に、宗之の体は硬直した。

「またれよ宗之どの」

その声は、かつて震え上がったときの、とてつもない威圧感を感じた。普段の綱房の声は慣れてきてはいたが、いざ二人きりとなると、断然違った。

(綱房・・・!)

興綱の前での対面以来、実に七年。珍しく二人きりとなり、綱房が話しかけてきた。

普段は、評定や俊綱へのあいさつなどで顔をあわせるくらいで、ほとんど話もしない。宗之はそうやって、この男の目を避けていた。

 しかし、今評定が終わって出て行こうとした瞬間、呼び止められた。助けを求めようにも部屋には誰もいない。尚綱もさっさと出て行って、皆も向こうの廊下を歩いてもうすぐ見えなくなるくらいに離れている。

 ・・・部屋に二人きりになった。

宗之が一番困る、嫌な場になった。

「どうなされた、そうかたくならずに」

体をこわばらせる宗之を見かねて綱房は、後ろを向いている宗之の肩に手を置いた。

宗之はびくっとなった。

綱房は低い声でゆっくりと話した。

「宗之殿、こたびの初陣、まとに見事でござった。だが、宮家は此度負けた。宗之どのにとっては残念至極だ。今後、宮家にとっては無くてはならない存在になるやもしれぬ・・・」

「なんの、負け戦から始まるもまた一興」

 宗之は恐ろしさをごまかすため、から余裕を見せた。

「されど!」

 綱房がするどく遮った。宗之はビクッとなり、思わず鼻水が出た。

「そう長くはあるまい・・・」

「!?」

さっきまで俊綱に忠誠を述べていたはずのこの男は、いきなりなんということを言うのか。驚いて綱房を振り返って見た宗之は、震撼した。恐ろしい鬼の顔を見てしまったのだ。野心を抱えた目が宗之をじっと睨んでいた。

綱房は続けて言った。

「ほんに・・・これからも、宮家に尽くすつもりか?」

 綱房の声がさらに怪しさを増した。顔に釘を刺されたような鋭い質問に一瞬戸惑った。宗之は取り殺されそうに思った。

「それは・・・、それがしも綱房どのに問いたい」

宗之はやっとのことで言い返した。

「そなたは益子の人間だ。お父上の勝宗殿は良いご器量での。このわしでさえも一目置いている。だが・・・益子は近いうちに宇都宮家の“あだ”となる。そのときは宗之どのも益子家につき、勝宗殿のお味方をすると良い」

「あだ!?」

「そうだ、そうなれば宮家は潰れる」

「宮家は強うござる!芳賀も塩谷も上三川衆もおります。それに、父上はそんなお人ではござらぬ」

「宗之どのは勝宗どのの野望を知らぬのか・・・」

「父は・・・」

必死に否定しようとしたが、出て来ない。六歳で離れた父のことを、宗之はあまりにも知らな過ぎた。否定の根拠が考え付かなかった。

綱房はぎょろっとこちらを見た。

「勝宗殿が“こと”を起こせば宮家は潰れる。芳賀も塩谷もこちらに味方する」

「え・・・?」

宗之は、今まで思いもしなかったことを言われ、何も言い返せなかった。

(芳賀も塩谷もこちらに…?父上と綱房は手を組んでいるのか?)

「綱房どのは・・・」

「・・・わしは尽くさぬ。隙あらば乗っ取る。その暁には下野も取ってみせる。いや、結城も佐竹も、古河の公方様でさえも・・・関東までも治めて見せる!」

天井を仰ぎ、外を眺めながら堂々と言う綱房に、なんの反論もできなかった。宗之は、綱房の想像の高さに、果てしない野望の渦を見た。このとき、綱房の野望は本物だと確信した。

急に綱房は鋭い目つきで宗之を振り返り、にやりとした。

「・・・宗之どの、わしの元へ来ぬか?」

「・・・?」

 宗之は黙った。

「わが壬生にそなたは必要だ。そなたの知略、わしは大いに買っておる。宮家なんぞに埋もれさすのは惜しいぞ、わしの元へ来い。勝宗殿も了解なされた」

「え、父上が?」

嘘だ、と思いたかった。益子分家の三男で活躍の場がないので、宇都宮家に出仕させて将来に期待をさせようとして、俊綱の小姓につけてくれた父が壬生家へ行けと?

 宗之は裏切られたようで、失望した。

「そなたは必ずや戦国の世において活躍する。わしは欲しい。鹿沼に来ぬか」

「・・・嫌だ!」

激しい憎悪が、激しい言葉に変わった。

父固有に対する恨みだけではなくて、この世に存在するすべての嘘偽りを憎悪した。普段温和な宗之は、まるで爆発したように激怒した。

「みくびるな!そんなことは許さぬぞ!己が野望のために主家を敵なすなど、力を貸すはずがない!」

宗之は顔を真っ赤にして怒った。

綱房はさらに欲しくなった。ここまで当主に対し、誠意が高い人物はめったにないと思った。

「ぐふ!」

次の瞬間、綱房の大きな右手が宗之の顔面を掴み、覆っていた。いきり立っていた宗之は我に返り、冷や汗がどっと出た。視界が暗くなり、苦しい。

手で振りほどこうとしたが、綱房の腕は太く、宗之の力では払えない。これが五〇歳代の腕力かと驚いた。

目は指で隠され、ほんのわずかに綱房の顔が見える状態で身動きできない。顔面を潰されそうな勢いだった。綱房の太い豪腕で、頭がギリギリ締め付けられる。そして、また重苦しい低い、悪魔のような声で、言い聞かせた。

「宗之…!こたびの事わしの独り言だが、よう思案した上で返答いたせ。次は無いぞ・・・」

次の瞬間、綱房に思い切り押し飛ばされ、壁にどうっとぶつかった。

「いて」

宗之が床に落ち、壁にもたれかかって顔を上げると、綱房は部屋を出たところだった。

「はあ、はあ・・・助かった・・・」

宗之はその場にへたばった。




数日後、いつもと同じように弓の稽古をしていた。宗之は弓がうまい。常人よりは狙いが定まっている。矢速も威勢がいい。

 数十本引いたところで空を見上げた。

 宗之は的の前に立ち、視線を的に集中してから矢を番えた。体の前で弓矢を構えたまま止まった。やっと弓を起こし、十分に引き絞ったがうまく肩が入らない。

「?」

宗之の脳裏を、綱房がふいによぎった。勢いよく離れたつもりが、弦は空を切っていた。

矢は的の枠にはじかれ、庭の奥へ吹っ飛んだ。弓が左手から離れ、勢いよく回りながら後ろに吹っ飛んだ。

「弦が切れた」

弦が切れた反動で弓が左手から抜けてしまったのだ。

引き絞っている時に、心の隙が出来たから射が乱れた。弦切れはそのときに起こる。

「宗之様、大事ありませぬか」

 孫四郎が心配気に見た。弦は不安定な心で引いたときなど、一瞬の気の緩みで切れてしまう。

 左手がしびれている。弓を引き絞ったとき、宗之の脳裏に綱房の野望がよぎった。

「・・・何を怖がっているのだ、俺は?」

 先日の綱房との話がずっと頭に残っている。

「そんなに綱房どのが気になりますか?」

孫四郎が後ろから心配そうに聞いた。

「あのような事を言われてはあたりまえだ。よくも俺に奔心を言えたものだ。口惜しい」

「されど宮家には壬生家を討つほどの兵は集められませぬ」

 弦の切れた弓を孫四郎に渡し、右手から弓具をはずした。いつもより少し蒸れた。しかし、これは脳裏をよぎる綱房による冷汗だった。

「そこに付け入って俺をおどしてきた。この事を尚綱さまに申せば、宮家は嫌でも逆心の壬生家を討たねばならぬ。だが、宮家には今は兵がない。無理に兵を挙げて壬生と戦えば宇都宮を奪われるやもしれぬ。それでは綱房の思う壺だ。これを言っては俺の負けになる」

 宗之は舌打ちした。


 庭をぐるぐる回り思案した。こうすると頭も回転するような気がする。

(なんとかしなければ…。父上が、綱房に俺を売るというのか?父上に聞いてみる必要があるな)

 空の蒼を見つめ、目を細めた。遠い益子の地を思い出した。父の、いかつい顔が思い浮かんだ。それをじっと睨んだ。

「孫、益子へ行くぞ。父上に会う」

 翌日、宗之は益子へ向かった。




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今回の登場人物




益子宗之
赤埴孫四郎

宇都宮俊綱
志乃の方

益子勝宗(回想)
市塙越前
益子家臣

宇都宮興綱
芳賀高経
益子勝家
塩谷孝綱
今泉泰高
多功長朝
君島広胤
宇都宮忠綱(回想)
宇都宮城の女中

壬生綱房
壬生徳節斎

結城政勝
小山高朝
水谷治持
水谷全芳
水谷家臣

那須政資
那須高資
芳賀高経娘



第一巻 乱雲「3、地獄への初陣」・・・終わり




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